花詠み ―雪中花―

第十三話

 再び空間が明るさを取り戻した時、そこはもう夫婦の寝室ではなかった。
 遊郭の座敷の一つか。
 天井は見慣れた木目から、漆塗りの黒光りする格天井に変わっていた。
 見覚えのない金の意匠が、闇のなかで鈍く輝く。
 繊細な鶴の彫刻が施された欄間、向こう側の灯りをぼんやり透かす、赤みがかった和紙の障子。
 その向こうに、いくつもの影が揺れている。
 障子の小さな破れからのぞく黒い穴が、すべて目に見えた。
 木目も、畳の織り目も、欄間の細工の隙間も、みな目だった。
 誰かが見ている。
 見ているだけで、誰も助けようとはしない。
 紅を帯びた明かり、極彩色の壺に活けられた水仙の花。
 煙管からは煙が薄く弧を描いている。
 香苗は布団ではなく、重たい打掛を纏わされた身体で、座敷の中央に横たわっていた。
 指先が痺れ、唇の内側が苦い。
 舌がもつれ、息を吸うたびに胸が重たくなる。
 唇が痺れている。これは何かの薬だ、とすぐにわかった。
 誰かに何かの薬を盛られたと、身体が知っていた。

 ――これは夢などではない。

 座敷の奥に、女が立っていた。
 豪華な打掛をまとい、白い顔にかすかな紅をさした女は、息を呑むほど美しい。
 しかしその瞳だけが、底のない海のように暗く澱んでいた。

『みやさんはとっても綺麗な着物を着た、優しい笑顔のお姉さんなんだ』

 いつだったか優斗が繰り返し香苗に話していたみや。
 もしかしてみやという名はこの遊女の本当の――?
 そしてこの遊女の源氏名が千代なのかもしれないと、香苗は考えた。
 香苗の意識の奥底で、何かが震えている。
 彼女はゆっくりと香苗の左側に膝をつく。
 その白い指が香苗の顔に向かって伸び、頬に触れる。

『おまはんは、どのお大尽様に買われてここへおいでなんした?』

 香苗は首を振り、否定したかった。
 私は違う。買われてなどいない、と。
 けれど、身体は動かない。声も出ない。
 千代はそんな香苗を覗き込み、哀しげに笑った。

『……わっちは、夜明けまで待ちなんした』

 低く、静かな声だった。

『潮が満ちるまで、幾たびも待ちなんした……』

 千代の言葉にあわせるように、座敷の畳がゆっくりと揺れた。
 潮の匂いが濃くなっていく。

『それでも、あの方はわっちを迎えになど来なんせん……』

 障子がひとりでに開いた。
 外は夜の港だった。
 月明かりに濡れた板場と漆黒の海。
 湿った風の音が遠くで軋む船の音に重なる。
 香苗の身体は、誰かに抱え上げられた。
 見知らぬ男たちの腕。
 その指の感触が生々しくて、香苗は心のなかで絶叫した。

『だれか、助けて!』

 けれど喉からは、ひとつも音が出ない。
 口に布が押し込まれ、満足に息すらもできない。
 手足は痺れたまま、一本の指すらも動かない。
 裾が板を擦り、ずる、ずる、と引きずられていく。
 その先で、何人もの目が待っていた。
 ぐるりと香苗を取り囲む見物人たちだった。
 男も、女も、皆、ただ香苗を見ていた。
 面白がるような目。
 憐れむふりだけの目。
 何もせず、ただ見送る目。
 その視線は、値踏みされる家畜と同じ気がした。
 千代の声が耳元で囁く。

『誰も、助けには来なんせん……』

 千代の声が震えていた。それは怒りではなく、恨みでもない。
 愛する者に選ばれなかった女の、それでも待ち続けた女の、歪み壊れた願いの声。
 香苗の意識の中の何かが、この声に共鳴する。
 痛みが、感情が、ドロリとした何かが、香苗のなかに流れ込んでくるのがわかった。

『おまはんならば……』

 抱え上げられた身体の先には、闇の崖。
 下では海が白く泡立っている。
 潮が満ちたどす黒い水面が口を開けて待っていた。
 香苗は初めて、本当に死ぬのだと思った。落とされる。海へ投げ捨てられる。
 呼吸をするたび目に見えない潮が喉へ流れ込み、香苗の意識は次第に遠のく。

『おまはんも……わっちと来ておくんなんし』

 香苗の目に涙がにじむ。
 嫌だと言いたいのに、言葉にならない。
 男たちの手が千代と香苗が重なった香苗の身体を前へ傾けた。
 足が宙へ出る。落ちる。
 香苗は心の中で拓真を必死で叫んだ。
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