花詠み ―雪中花―

第十四話

 刹那、世界がぐらりと揺れた。
 ガタン、と大きな音がする。
 何かが壊れ、ドアが開く音。戸が開く音。

「香苗!」
『美耶!』

 それは拓真の声だろうか?
 同時にその声は違う女の名を呼んでいるようにも聞こえた。
 誰かの腕が、香苗の身体を強く抱き起こす。
 夢の向こう側では、その腕は、千代を抱き止める腕でもあった。

「香苗……大丈夫か!」

 崖から落ちかけていた千代の身体が、後ろへ引き戻される。
 現実の寝室では、夫が香苗を抱えていた。
 千代が、はっと目を見開く。
 その暗い瞳の奥に、信じられないものを見るような光が差した。

『嗚呼……ようやく……来なんした……』
『美耶』

 それは穏やかで優しい男性の声だった。
 拓真の声ではないのに、懐かしいとすら思った。
 香苗には白い着物を纏った男性の姿がうっすらと見える。

『……遅くなってしまったな』

 千代の目から涙が伝う。
 澄んだ雫がポタリと落ちる。
 拓真に抱かれた香苗の目からも涙が伝う。

『……もう……離さないで……おくんなんし』

 それが長い歳月を越えて、ようやく届いたふたりの願いのように。
 潮の匂いも、水仙の香りも、少しずつ遠のく。
 水仙の花びらも、はらはらと闇に散り、消えた。

 -*-

 香苗が目を開くとそこはいつもの寝室だった。
 布団はぐっしょりと濡れ、喉が焼けるように痛い。
 拓真は泣きそうな顔で、香苗を強く抱きしめた。

「香苗、香苗……!」

 声にならないまま、香苗は泣きながら拓真に抱き着く。
 もう言葉は出ない。
 拓真のその温もりに戻れたことがすべてだった。

 ――翌朝。
 庭に咲いていた水仙は一本残らず枯れていた。
 窓辺には、小さな蜘蛛の死骸がひとつ。
 その傍らにごく短い糸が朝日に光っている。
 それから千代が現れることは、二度となかった。
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