婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~
9.未来へ続く話を
月曜日。
いつもの様にせわしない朝、会社のエントランスで綾斗さんとすれ違った。

「おはようございます」
「おはよう」

一瞬だけ交わる視線、ただそれだけだった。微笑むわけでも、意味ありげな表情をするわけでもない。一見、冷たく見えるクールな表情。そこにいるのは仕事モードの藤宮専務だ。先週の夜の面影なんてどこにもない。

今度こそ、仕事とプライベートの線引きはするってことだよね。

ほんの少しの寂しさを感じながらも、そこは社会人。ちゃんとしなきゃね。

すると、隣にいた先輩が小さな声で囁いた。

「相変わらず専務はドライだね。笑顔なんてほとんど見たことないし。プライベートでもあんな感じなのかな」
「さぁ、どうなんでしょうね」

私は思わずにやけそうになった口元をそっと隠す。
プライベートの綾斗さんはもっと笑顔でとても優しい。声も穏やかで甘やかされている気分になる。
私はそれを知っている。なんだかそれが嬉しくなった。

『仕事が終わったら俺のもの』

そう言っていた人が、今はクールで完璧な藤宮専務の顔をしている。
今まではそんな専務が怖かったし緊張する人だったけど、今は愛おしくて仕方がないのだ。

自席に着くとスマホが小さく震えた。

『今夜、空いてるか?』

綾斗さんから短いメッセージ。私は笑いを堪えながら短く返事をした。

『はい。今日は残業なしで上がれます』

可愛いウサギが『あいたい』と看板を持っているスタンプを送る。
するとすぐに返事が返ってきた。

『俺もだ』

たった三文字。でも、その三文字が今日一日を乗り越えられる理由になる。

「よしっ」

私は小さく気合を入れてパソコンの画面に向き合った。


―――――

「仕事は仕事……なんじゃなかったでしたっけ?」

私は目の前の人物に少し困った顔でそう声をかける。

この日、ランチタイムに綾斗さんから呼び出された。場所はグランフィオーレの敷地内にある和食レストラン。そう以前もランチをしたところだ。

綾斗さんは食後のコーヒーを飲みながら口角をあげる。

「今は休憩時間だ」

屁理屈だ。
専務自ら堂々とした屁理屈を垂れていてある意味清々しい。確かに休憩時間は仕事外だと言えなくもないが……。
綾斗さんは手を組んでジッと私を見つめた。

「夜まで待てなかったと言ったら……怒るか?」
「っ……ずるいです。そんな言い方されたら何も言えなくなる……」

赤い顔でむくれると、綾斗さんは嬉しそうに微笑んだ。
今朝、エントランスで挨拶した人の顔とは思えない。私だけが知る綾斗さんだと思うと胸が熱くなる。

食後、時間がまだ余っていたので二人で庭に出た。
今度は足元が滑らない様、慎重に歩いていると綾斗さんがクスッと笑う。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だろ」
「その油断が命取りですよ。落ちたらどうするんですか」
「身を乗り出さなきゃ落ちない。もしそうなったとしてもまた俺が助けるから心配するな」

そう言われてハッとした。
そう言えば前回、落ちそうになった時綾斗さんが助けてくれた。しかもその時……。

「また抱き留めてくれるんですか?」

綾斗さんを見上げて訊ねた。
あの時、抱き留めてくれた腕が一瞬ギュッと力が入っていた。抱きしめられたんだ。
綾斗さんは苦笑しながら小さく頷く。

「あの時はついやっちゃったけど、次は明確な意思をもって抱き留めるよ」
「綾斗さん……」

そう言って私の手を取った時だった。

「こちらは日本庭園となっておりまして……」

聞き覚えのある声にハッと振り返ると、穂乃果がカップルを案内しているところだった。穂乃果も私たちに気が付いて、笑顔のままハッと足を止める。
穂乃果と目が合い、その視線がつないだ私たちの手に注がれる。

しまった!! 穂乃果にまだ綾斗さんとのこと話していなかった!

「……お疲れ様です」

固まった笑顔のまま、形式的に挨拶をする穂乃果。
すると、カップルが私たちを見てはしゃぎだしたのである。

「あ、あの! もしかしてPR動画のお2人じゃありませんか!?」
「はい」

綾斗さんが接客用の笑顔を向けると、特に女性客は手を叩いて喜んだ。

「わぁ、やっぱり! 私たち、あの動画を見てここで式をあげようって決めたんです!」
「それはそれは。ありがとうございます」
「あの、花嫁さんのドレスも良く似合っていて素敵でした」

キラキラした目を向けられて私は照れながらも「ありがとうございます」と返事をする。

「あの、もしかしてあの動画って実話ですか?」
「え?」
「雰囲気がまるで本当の恋人同士のように見えたので……」

え? そう見えていたの? 

ドキッとしながら、内心焦っていると綾斗さんはふっと微笑んだ。

「さぁ? そこはご想像にお任せします」

意味ありげに微笑み返すと花嫁は「キャー」と興奮気味だ。その後ろで、穂乃果は笑顔を貼り付けたままこちらに顔を向ける。

その目は……笑っていなかった。

『今度説明してね』

私を見つめてくるその目がそう語っている。
私は引きつった笑みを浮かべながらも小さく頷くしかなかったのである。








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