営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
第二話 近いのに遠すぎる
営業部に異動して十日目、まだ朝なのに身体が重い。
始業四十分前、昨夜印刷しておいた案件資料を自分のデスクの上に並べた。
クライアント概要と過去事例、競合の提案傾向まで一通り揃っている。
穂積先輩の下につくと決まってから、読めと言われたものはすべて目を通した。それでも足りない気がして、自分なりに関連資料まで集めてきたのだ。
真剣に読み込んでいると、隣のデスクに人の気配が立った。顔を上げると、凜が「おはよう」と声を掛けた。
「美月、今日早いね。昨日渡した資料、全部読んだの?」
「うん。足りない気がして、関連資料も少し」
「うわ、真面目。穂積さんと相性いいかも」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
そのとき、背後を通り過ぎた誰かが「外勤いってきます」とフロアを出て行く。
「いってらっしゃい。お疲れ様です」
「あ、日吉さん。S物産の見積書、訂正したファイル送ってありますよー」
「やべっ。古いのプリントアウトしたかも」
「今すぐ出力するんで、二分待ってください」
凜はさっきまでわたしと話していた顔から、ぱっと仕事の顔に切り替わっていた。
企画部にいた頃の、じわじわと一日が始まっていく空気とはまるで違う。
営業部に名前は載っていても、自分の居場所を作れている気がまるでしなかった。
「おはよう、鮎川さん。朝から頑張るね」
顔を上げると、斜め向かいの安藤さんが、コーヒーを片手に笑っていた。
「おはようございます。……新人ですから、早く慣れたくて」
「まあ、穂積先輩の下につくなら、そのくらいのガッツが要るよね」
その名前に、手元の資料を揃える指先がぴたりと止まる。
「厳しいことたくさん言うから誤解されがちだけど、あの人の下で鍛えられれば、相当伸びるよ。がんばって」
「……ありがとうございます」
安藤さんに曖昧な笑顔を返しながら、一ヶ月前の夜、紬で出会ったタクマさんのことを思い出す。
会社で再会した穂積先輩は、あのときとはまるで別人みたいだった。
あの夜のことをどこまで覚えているのかもわからない。
そう思うたび、楽しかった記憶が少しだけ遠くなる。
「お、噂をすれば……」
安藤さんの言葉に顔を上げると、入口から歩いてくる穂積先輩が見えた。
「おはようございます、穂積さん」
「穂積くん、おはよう」
あちこちから飛ぶ挨拶に、低い声が短く返る。
ダークグレーのスーツに、質の高そうな白いシャツ。今日はネクタイまで隙なく締めていて、紬で見た少し崩れた姿とはまるで違っていた。
足を止めた先で誰かに書類を渡されると、穂積先輩はその場で目を通し、淡々と言う。
「数字の根拠が弱い。このままじゃ通らない」
「すぐ直します」
「次からはもっと自分で頭を使ってから持ってきてくれ」
声を荒げているわけでもないのに、その場の空気がきゅっと引き締まる。
厳しい。けれど感情で押している感じではなく、ただ必要なことだけを切り出しているように見えた。
始業四十分前、昨夜印刷しておいた案件資料を自分のデスクの上に並べた。
クライアント概要と過去事例、競合の提案傾向まで一通り揃っている。
穂積先輩の下につくと決まってから、読めと言われたものはすべて目を通した。それでも足りない気がして、自分なりに関連資料まで集めてきたのだ。
真剣に読み込んでいると、隣のデスクに人の気配が立った。顔を上げると、凜が「おはよう」と声を掛けた。
「美月、今日早いね。昨日渡した資料、全部読んだの?」
「うん。足りない気がして、関連資料も少し」
「うわ、真面目。穂積さんと相性いいかも」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
そのとき、背後を通り過ぎた誰かが「外勤いってきます」とフロアを出て行く。
「いってらっしゃい。お疲れ様です」
「あ、日吉さん。S物産の見積書、訂正したファイル送ってありますよー」
「やべっ。古いのプリントアウトしたかも」
「今すぐ出力するんで、二分待ってください」
凜はさっきまでわたしと話していた顔から、ぱっと仕事の顔に切り替わっていた。
企画部にいた頃の、じわじわと一日が始まっていく空気とはまるで違う。
営業部に名前は載っていても、自分の居場所を作れている気がまるでしなかった。
「おはよう、鮎川さん。朝から頑張るね」
顔を上げると、斜め向かいの安藤さんが、コーヒーを片手に笑っていた。
「おはようございます。……新人ですから、早く慣れたくて」
「まあ、穂積先輩の下につくなら、そのくらいのガッツが要るよね」
その名前に、手元の資料を揃える指先がぴたりと止まる。
「厳しいことたくさん言うから誤解されがちだけど、あの人の下で鍛えられれば、相当伸びるよ。がんばって」
「……ありがとうございます」
安藤さんに曖昧な笑顔を返しながら、一ヶ月前の夜、紬で出会ったタクマさんのことを思い出す。
会社で再会した穂積先輩は、あのときとはまるで別人みたいだった。
あの夜のことをどこまで覚えているのかもわからない。
そう思うたび、楽しかった記憶が少しだけ遠くなる。
「お、噂をすれば……」
安藤さんの言葉に顔を上げると、入口から歩いてくる穂積先輩が見えた。
「おはようございます、穂積さん」
「穂積くん、おはよう」
あちこちから飛ぶ挨拶に、低い声が短く返る。
ダークグレーのスーツに、質の高そうな白いシャツ。今日はネクタイまで隙なく締めていて、紬で見た少し崩れた姿とはまるで違っていた。
足を止めた先で誰かに書類を渡されると、穂積先輩はその場で目を通し、淡々と言う。
「数字の根拠が弱い。このままじゃ通らない」
「すぐ直します」
「次からはもっと自分で頭を使ってから持ってきてくれ」
声を荒げているわけでもないのに、その場の空気がきゅっと引き締まる。
厳しい。けれど感情で押している感じではなく、ただ必要なことだけを切り出しているように見えた。