隠し子が発覚したら『氷の宝石商』の独占欲に火がつきました~5年越しの執念で見つけ出され、逃げ場のない溺愛で囲い込まれています~

第19話:堕ちる



 夕闇の迫るアスファルトを蹴るたびに、喉の奥が焼けるように熱くなる。

 胸をきつく圧迫するのは、運動不足のせいだけではなかった。


『夫になる人の不始末を片付けるのは、妻となる人の役目でしょう』
『私以外に、昂輝さんを救える人はいないわ』


 耳の奥で、七井晶子の軽やかな声が何度も、何度も反芻される。

 一億円という、現実味のない数字。
 アタッシュケースに敷き詰められていた、紙幣の山。

 そして、輝を不始末と言い切ったあの女の硝子のような瞳。


 昂輝の胸の中でようやく取り戻しかけた温かな平穏が、一瞬にしてどす黒い泥で汚されていく。







 保育園の入り口へ滑り込むようにして辿り着き、インターホンを押す。

 自動ドアが開き、お教室へと向かう。

 扉が勢いよく開いたとき、ようやく蒼乃は止まっていた息を大きく吐き出した。


「ママおかえりなさーい」


 屈託のない笑顔を浮かべた輝が、小さな身体を弾ませて全力で抱きついてくる。

 ずしりとした重みと、幼い子供特有の汗ばんだような温もりが、蒼乃の細い腕の中に収まった。
 その確かな存在に触れて、激しく波打っていた心臓が、一時的に柔らかな膜で包まれる。

 大丈夫、輝はここにいる。

 自分の腕の中に、ちゃんといる。


「ママ、おむねがどきどきしてる」


 輝が顔を上げた。蒼乃は笑いながら答える。


「ふふ。輝に早く会いたくて、ママ走ってきちゃった」
「輝くんママ、お帰りなさい。輝くん、お鞄取っておいで」


 担任の陽介に促されると、輝はロッカーまで走る。

 それを見届けてから、陽介が小声で話しかけてきた。


「蒼乃」


 その表情には、いつもの穏やかな保育士としての笑顔はない。どこか感情を押し殺したような硬さがある。


「蒼乃さ『叔父さん』っている?」
「叔父さん……は居ないけど?」


 蒼乃は自分の鞄を肩にかけ直しながら、反射的に自分の家系図を頭の中で辿った。

 母は及川家の一人っ子だったし、父の方には何年も連絡を取っていない姉が一人いるだけだ。彼女は独身なので、義理の叔父と呼べるような人も存在しない。


「だよなぁ。なんか昼間変な電話がかかってきてさ。『白河蒼乃の叔父だけど、輝くんは今日登園してるか』って。よくわからないから、園児のことは何も答えられないって伝えておいたけど……」


 ドクリ。


 心臓の底が、不穏な音を立てて大きく揺れた。

 全身の血の気が引き、指先からじわじわと感覚がなくなっていく。

 さきほど路上で七井晶子と接触した、まさにこの日に、輝の居場所を探るような不審な電話があった。
 単なる偶然なのか、あるいは……。

 逃れようのない嫌な予感が、冷たい蛇のように背筋を這い上がってくる。


「よくわかんないけど、変な事件も多いから気をつけろよ」
「うん……教えてくれてありがとう」


 陽介の、いつもの陽だまりのようにあたたかな心配の言葉が、今の状況の異常さをかえって鋭く際立たせる。

 蒼乃はひきつりそうになる頬を必死で抑え、輝の手を引いて保育園を後にした。








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