追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路
第24話 囁かれる名前【ある兵士視点】
その噂を最初に耳にしたのは、炊き出しの準備中だった。
「なぁ……聞いたか? 彼女の話」
「……セラさんのことか?」
兵舎の裏で薪を割っていた俺は、隣の同僚が口にした言葉に思わず斧を止めた。
【彼女】――その曖昧な呼び方が妙に耳に残ったからだ。
もう一人の若い兵士が、声をひそめる。
「なんでも……王都で追放された貴族の娘らしい」
「貴族、だって?」
「しかも、ただの貴族じゃない。王太子の婚約者だったとか……名前はセレスティア・アル……なんとかって言ったかな」
木屑が風に舞う音すら耳に入らなかった。
セラ、あの穏やかで黙々と働くあの女が……王都の、しかも王太子の?
「おいおい、どこでそんな話を……」
「町の連中が言ってたんだよ。補給隊の連中の中に王都出身の奴がいてな、前に似たような女を見たって……それで調べたらしい。顔、声、年頃、仕草――全部一致するってさ」
「仕草?」
「ああ、立ち居振る舞い。食器の扱い方や言葉の選び方……どう見ても、一般人じゃないって。あの気品は染みついたもんだって」
確かに――心当たりがないわけじゃない。
食堂で皿を運ぶ彼女の手つきは、どこか流れるように滑らかで、無駄がない。
平民の子が真似できる所作じゃなかった。
でも、それを言葉にするのは――怖かった。
「でもよ……セラさんがそんな女だったら、なんで黙ってたんだ?」
「そりゃあ、追放された身だからだろ?罪人の名前なんて名乗れねぇってことだ」
「……だが、隠してたってのは、本当なら問題じゃないか?」
その言葉を最後に沈黙が落ちた。
誰も、答えを持っていない。
ただ、胸の中にじんわりと広がるのは【疑い】という名の不安だった。
そんな中、ふと気配を感じて顔を上げる。
屋敷の通用門の方――そこに、立ち尽くしていた女の影があった。
セラ――いや、【セレスティア】。
名前を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
彼女はこちらには気づかないまま、そっと背を向けて歩き去っていった。
肩がわずかに震えていたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
▽ ▽ ▽
その夜、噂はさらに尾ひれをつけて広がっていく。
「将軍様が匿っている女が王都の裏切り者らしい」
「いや、違う。冤罪で追放されたが、実は無実だったって話もある」
「そもそも、【セレスティア・アルセイン】って、本当に追放されたのか?」
「いやいや、姿を消しただけって聞いたぞ。死んだという説もあったのに……」
事実はどうであれ、人々は【真実】よりも【物語】を好む。
火の粉は、知らぬ間に乾いた薪へと落ちていく。
セラが何も言わなくとも――いや、何も言わないからこそ、その沈黙が疑いを呼び、誤解が育っていく。
翌朝――俺は、いつものように中庭で洗濯物を干していた。
ふと、近くでセラさんが仕事をしている。
黙々と仕事をこなしていて、特別なことは何もない、静かな朝のはずだった。
なのに――
「……なあ、あの人って、前に王都で……いや、名前なんだったっけ。セレ……なんとか?」
別の兵士が、少し離れた場所で何気なくそう口にした。
冗談とも、世間話ともつかないトーンで、俺は慌ててそいつの脇腹を肘で小突く。
「やめとけ。聞こえるだろ」
「え、でもよ……別に、本人って決まったわけじゃ――」
言いかけた彼の言葉が止まる。
その視線の先、セラさんが動きを止めていた。
洗濯物を絞っていた手が、中途半端なところで止まり――そのまま、そっと布を下ろすようにしてじっと地面を見つめていた。
ただ、それだけの仕草だった。
でも……わかった。俺には、はっきりと。
彼女の手が、ほんのわずかに震えていた。
あれは、偶然なんかじゃない。
(……聞こえた、のか)
誰かが囁いた名前。
確証もない、ただの噂話。
けれど、彼女にとっては――その名前で呼ばれることは、何よりも重いことだったんだ。
隣にいたサーシャが、すぐに声をかけていた。
セラさんは笑っている……いつもと同じ、優しい笑みで。
でも、その笑みがどこか――遠く見えた。
……俺たちは、何か取り返しのつかないことを口にしたのかもしれない。
「なぁ……聞いたか? 彼女の話」
「……セラさんのことか?」
兵舎の裏で薪を割っていた俺は、隣の同僚が口にした言葉に思わず斧を止めた。
【彼女】――その曖昧な呼び方が妙に耳に残ったからだ。
もう一人の若い兵士が、声をひそめる。
「なんでも……王都で追放された貴族の娘らしい」
「貴族、だって?」
「しかも、ただの貴族じゃない。王太子の婚約者だったとか……名前はセレスティア・アル……なんとかって言ったかな」
木屑が風に舞う音すら耳に入らなかった。
セラ、あの穏やかで黙々と働くあの女が……王都の、しかも王太子の?
「おいおい、どこでそんな話を……」
「町の連中が言ってたんだよ。補給隊の連中の中に王都出身の奴がいてな、前に似たような女を見たって……それで調べたらしい。顔、声、年頃、仕草――全部一致するってさ」
「仕草?」
「ああ、立ち居振る舞い。食器の扱い方や言葉の選び方……どう見ても、一般人じゃないって。あの気品は染みついたもんだって」
確かに――心当たりがないわけじゃない。
食堂で皿を運ぶ彼女の手つきは、どこか流れるように滑らかで、無駄がない。
平民の子が真似できる所作じゃなかった。
でも、それを言葉にするのは――怖かった。
「でもよ……セラさんがそんな女だったら、なんで黙ってたんだ?」
「そりゃあ、追放された身だからだろ?罪人の名前なんて名乗れねぇってことだ」
「……だが、隠してたってのは、本当なら問題じゃないか?」
その言葉を最後に沈黙が落ちた。
誰も、答えを持っていない。
ただ、胸の中にじんわりと広がるのは【疑い】という名の不安だった。
そんな中、ふと気配を感じて顔を上げる。
屋敷の通用門の方――そこに、立ち尽くしていた女の影があった。
セラ――いや、【セレスティア】。
名前を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
彼女はこちらには気づかないまま、そっと背を向けて歩き去っていった。
肩がわずかに震えていたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
▽ ▽ ▽
その夜、噂はさらに尾ひれをつけて広がっていく。
「将軍様が匿っている女が王都の裏切り者らしい」
「いや、違う。冤罪で追放されたが、実は無実だったって話もある」
「そもそも、【セレスティア・アルセイン】って、本当に追放されたのか?」
「いやいや、姿を消しただけって聞いたぞ。死んだという説もあったのに……」
事実はどうであれ、人々は【真実】よりも【物語】を好む。
火の粉は、知らぬ間に乾いた薪へと落ちていく。
セラが何も言わなくとも――いや、何も言わないからこそ、その沈黙が疑いを呼び、誤解が育っていく。
翌朝――俺は、いつものように中庭で洗濯物を干していた。
ふと、近くでセラさんが仕事をしている。
黙々と仕事をこなしていて、特別なことは何もない、静かな朝のはずだった。
なのに――
「……なあ、あの人って、前に王都で……いや、名前なんだったっけ。セレ……なんとか?」
別の兵士が、少し離れた場所で何気なくそう口にした。
冗談とも、世間話ともつかないトーンで、俺は慌ててそいつの脇腹を肘で小突く。
「やめとけ。聞こえるだろ」
「え、でもよ……別に、本人って決まったわけじゃ――」
言いかけた彼の言葉が止まる。
その視線の先、セラさんが動きを止めていた。
洗濯物を絞っていた手が、中途半端なところで止まり――そのまま、そっと布を下ろすようにしてじっと地面を見つめていた。
ただ、それだけの仕草だった。
でも……わかった。俺には、はっきりと。
彼女の手が、ほんのわずかに震えていた。
あれは、偶然なんかじゃない。
(……聞こえた、のか)
誰かが囁いた名前。
確証もない、ただの噂話。
けれど、彼女にとっては――その名前で呼ばれることは、何よりも重いことだったんだ。
隣にいたサーシャが、すぐに声をかけていた。
セラさんは笑っている……いつもと同じ、優しい笑みで。
でも、その笑みがどこか――遠く見えた。
……俺たちは、何か取り返しのつかないことを口にしたのかもしれない。