愛とか恋とかウザいので
6・新しい暮らしの中で戸惑うこと
九月最後の土曜日、朝食の準備をする萌依は、微妙な思いで隣に立つ蒼弥の様子を窺った。
蒼弥はといえば、興味津々といったようすで萌依の手元を覗き込んでいる。
「蒼弥さん……近いです」
「すまん」
萌依の抗議に、蒼弥は半歩距離を開けてくれるが、それでも十分近い。
バターを取ろうと萌依が腕を動かせれば、簡単に体が触れてしまう。
「これが欲しいのか?」
蒼弥に当たらないよう気をつけながら腕を伸ばしていると、蒼弥が代わりに、バターを入れてある用器を取ってくれた。
チラリとこちらを見る蒼弥の顔は、〝手伝いをした自分を褒めろ〟と言いたげだ。
「ありがとうございます」
蒼弥がいなければ自分で取れたのだけれど……。そんな思いを呑み込んでお礼を言うと、蒼弥がふわりと目を細める。
萌依にお礼を言われたのがうれしいと言わんばかりだ。
そんな彼の表情に、萌依は思わずたじろぐ。
成り行きで蒼弥と契約結婚をし、このマンショで暮らすようになって二週間が過ぎた。
その暮らしは驚くほど快適といる。
もちろん寝室は別々で関係は清いままなので、〝夫婦〟ではなく〝同居人〟というのが正しい。
そんな関係なので、もちろん新婚の初々しさはなく、関係はいたってドライなもの。
(の、なはずなのに……)
「どうかしたか?」
もの言いたげな萌依の視線に気付いて、蒼弥が問いかけてくる。
その表情が、粉砂糖でもまぶしたかのように甘ったるく感じるのは、気のせいだろうか。
「ありがとうございます。でも朝食の準備くらい私ひとりでできるので、蒼弥さんは、ゆっくりしていてください」
「迷惑か?」
萌依の言葉に、隣で食器の準備をする蒼弥が寂しそうな顔をする。
「そんなことはないんですけど……」
思いがけない彼の表情に、萌依は言葉を濁した。
同居を始める際、蒼弥名義のマンションで暮らすということもあり、家賃も光熱費も不要と言われた。
その代わりという訳ではないが、これまでずっと自炊していたので、萌依は食事や簡単な家事は自分に任せてほしいとお願いしたのだ。
蒼弥も最初はそれで納得してくれていたはずなのに、ここ数日、萌依が家事をしているとやたら手伝いたがる。
「家事を私任せにしていることは、気にしないでくださいね。家事はもともと好きで、楽しんでやっているんです。それに蒼弥さんのマンションで暮らすようになって、通勤が楽になって時間の余裕もありますから」
蒼弥は、これまで食事は外食がメイン、掃除などは業者任せという生活を送ってきたらしいので、家事がすごく大変なことに思えているのかもしれない。
それで萌依ひとりに家事を任せることを心苦しく感じているのであれば、それは杞憂だ。
そう思って説明したのだけれど、蒼弥は軽く肩をすくめて聞き流す。
「萌依が楽しそうに家事をするから、興味を持っただけだ」
「な、なるほど」
何気ない調子で語る彼の表情に、『だから隣にいさせろ』という無言の圧を感じるのは、こちらの気のせいなのだろうか……。
「家事に感心を持つのは、いいことだと思います」
家事は生活の基本なので、人任せにするよりずっといい。そうは思うのだけど、萌依としては、蒼弥との距離感に戸惑ってしまう。
(なんというか、蒼弥さんが近い)
少し腕を動かしただけで体が触れてしまう距離感もそうなのだけど、ここ数日、彼が自分に向ける眼差しや雰囲気にこれまでとは異なる甘いものが含まれているように思えてならない。
「そういうことだから、俺のことは気にせず、このまま続けてくれ」
萌依は、仕方ないと諦めてフライパンを温め始めた。
(入籍してすぐの頃は、蒼弥さんの態度は、オフィスにいる時と変わらなかったよね)
温めたフライパンの上にバターを置き、それをフライパンに馴染ませながら、萌依は記憶を辿る。
自宅での蒼弥は、いい意味で萌依に関心がなく、お互い干渉することなく時間を過ごしていた。
プライベートな時間の方が多少砕けた感じにはなるが、もとから蒼弥は部下にフランクに接するタイプだ。だから萌依は、最初はオフィスで過ごす時と大きな違いを感じるようなことはなかった。
萌依たちの入籍を知るふたりの先輩秘書は、萌依と蒼弥は公私を分けるタイプで、家では新婚らしい時間を過ごしていると思っているようだったが、もちろんなそんなことはない。
夫婦らしいことといえば、入籍した日に、一応の記念ということで洒落たレストランでディナーを楽しんだことぐらいだ。
あとは、お互い気心の知れた同居人として、程よい距離感で過ごしていたはずなのに。
なんとなく、ここ数日の蒼弥は、こちらに自分の存在をアピールしているように思えるとだけど、さすがにそれは萌依の勘違いだろう。
蒼弥に言えば、自惚だと笑われるに決まっている。
(きっとこれは、蒼弥さんに強烈な存在感があるせいだよね)
そんなことを考えながら、昨夜から卵液に漬けておいた食パンを、まずは一枚フライパンに載せる。
普段の朝食は手軽なもので済ませているが、休日の今日は、いつもより手間をかけてみた。
サラダは用意済だし、コーヒーもコーヒーメーカーにセットしてある。
ゆっくり時間を掛けて卵液に浸したパンを焼き、フレンチトーストを作ると、それカッとしたフルーツを盛り付けた皿に移し、蒼弥がそれをダイニングテーブルへと運ぶ。
「よかったら先に食べていてください」
萌依の言葉に、蒼弥が首を横に振る。
「せっかく萌依が美味しそうな朝食を作ってくれているんだ。どうせなら、一緒に食べたい」
「焼きたての方が美味しいですよ」
萌依がそう声をかけても蒼弥はそれを聞き流して、萌依の傍らに立ち、次が焼けるのを待つ。
(まあ、冷めた方を、私が食べればいいか)
萌依は、続けて次のフレンチトーストを焼く。それが焼き上がると、蒼弥は焼きたての方を萌依に譲り、先に焼いたものを自分の分にしてしまった。
「え、蒼弥さんが焼きたての方を食べてくださいよ」
「萌依が最初に作ってくれた方を食べたい」
「焼きたての方が美味しいですよ」
「萌依が作ってくれたんだから、どちらも同じらい美味しいよ」
心がこそばゆくなるような押し問答をして、結局どちらも少し冷め出したフレンチトースト食べるのは、なんだか妙に落ち着かない。
(こういうことしていると、なんだか本当のカップルみたい)
そんなふうに思ってしまうのは、萌依が恋愛慣れしていないからだろうか。
カフェオレを飲みつつ、上目遣いに蒼弥の様子を窺うと、こちらの視線に気づいた彼が優しく微笑む。
ダイニングテーブルを利用して頬杖をつく姿は、もちろん食事のマナーとしてはいただけない。
だけどモデル顔負けの存在感を放つ蒼弥がそれをやると、まるで映画のワンシーンのように様になっていて、不思議と不快感はない。
それどころか、左手首の腕時計の存在も手伝って、そのままハルモニアのカタログの表紙として使えそうな眺めだ。
「行儀が悪いですよ」
彼に見惚れてしまったことを誤魔化すために萌依が注意をすると、蒼弥は「自宅なんだから許せ」と、鷹揚に返す。
それでも萌依の意見を聞きれたのか、姿勢を直してカトラリーを手に取る。
長い指でナイフとフォークを持ち、フレンチトーストを切り分け口に運ぶ。それをゆっくり咀嚼して、萌依に「美味しい」と微笑む。
その何気ない所作にまで、男の色気が滲み出ている。
女性がほおっておかないはずだ。
そういえば以前、エレベーターで一緒になった時に渥美が、『早瀬社長も若い頃は女をとっかえひっかえ……』と、蒼弥が遊び人であることをにおわせる発言をしていた。もちろん話半分には受け止めているし、恋愛に興味のない蒼弥が、積極的に自分から女性を口説くとは、萌依も考えていない。
それでもそういった冗談が自然と出るくらい、彼は常にモテてきたのだ。
こうやって彼と向き合っていると、何気ない所作にも男性としての魅力に溢れている蒼弥に惹かれる女性の気持ちもわからなくもない。
(落ち着け私っ!)
萌依は心の中で自分を叱咤する。
蒼弥は、恋愛に興味がないからこそ萌依に契約結婚を提案したのだ。萌依に甘くアプローチしてくるわけがない。
彼のこの甘い雰囲気は、きっと最初は多少の遠慮もあって距離を取っていたのが、ふたりの暮らしに慣れてきて、気を許しているだけなのだ。
だとしたら、この大人の男の色気に溢れた姿こそ、彼にとっての通常モードなのだろう。
それなのに萌依が勝手にドキドキしてしまうなんて、蒼弥に対する裏切り以外のなにものでもない。
(蒼弥さんの笑顔にときめくなんて、絶対ダメ!)
萌依は軽く首を振って、雑念を振り払う。
「……萌依、聞いてる?」
あれこれ思考を巡らせ、はやる気持ちをどうにか理性でねじ伏せた萌依は、聞こえてきた蒼弥の言葉にハッとする。
どうやら己の煩悩を持て余して脳内会議を開いている間に、蒼弥に話しかけられていたらしい。
「ごめんなさい。聞き逃してました」
慌てて聞く態勢を取る萌依に、蒼弥が言う。
「今日、特に予定がないなら、俺に付き合ってほしい」
今日の萌依には、それといった予定はない。
シーツを洗うといった、平日はなかなかできない家事をまとめて片付けようと思っていたくらいだ。
「もちろん構いませんよ。どこに出掛けますか?」
「萌依は、どこに行きたい?」
「はい?」
質問に質問で返され困惑する。
蒼弥はそんな萌依の表情を見て、クスクス笑う。
「俺としては、来月のパーティーに着ていく萌依のドレスを選びたい。だけどせっかく出掛けるんだ、そのついでにふたりでどこかに行かないか?」
ハルモニア百周年記念の企画として腕時計のデザインを依頼しているミツセという時計設計師の功績を称えるパーティーが、来月開かれる。
蒼弥はそれに招待されていて、最初は先輩秘書の渥美が同行する予定だった。だけどふたりの入籍を知った彼が、半分は遊びのようなものだから、せっかくなら夫婦で出席すればいいと、萌依にその役目を譲ったてくれたのだ。
「ドレスなら、先日買ったものがありますよ」
仁美の結婚式に着ていくドレスを、彼に選んでもらったばかりだ。あの時、蒼弥は二着もドレスを購入したので、そのどちらかを着ていけばいい。
そう思ったのだけど、蒼弥は納得しない。
「十月のパーティーに着ていくなら、新しく選び直すべきだ」
そう言われてしまうと、現在公私共に彼のパートナーである萌依としては反論の余地はない。
周囲に、今すぐ自分たちの関係を明かす予定がないにしても、将来的に蒼弥との結婚は周知の事実になるのだから、記憶に残る萌依の姿は恥ずかしくないものにしておきたい。
それに蒼弥の秘書という意味でも、きちんと身だしなみを整えておくべきだろう。
「わかりました」
「それで、萌依の行きたい場所は?」
あれこれ考え納得する萌依に、蒼弥が重ねて聞く。
「急に言われても……」
なにも思いつかない。――そう言いかけた萌依は、ハッとして一度言葉を切った後で、こう提案する。
「食器を買いに行きませんか?」
「食器?」
蒼弥は手元の皿を見た。
フレンチトーストを載せている皿や、サラダを入れている小鉢は、引っ越しの際に萌依が持ち込んだものだ。そのどちらも、少々料理とのサイズ感が合わないし、萌依が使っているものとデザインが大きく異なる。
蒼弥には自炊の習慣がなかったため、この家の食器は最低限しかなく、萌依が持ち込んだものをメインで使用している。
だけど萌依も一人暮らしを前提に生きていたので、二人分のセットの食器を持っておらず、バラバラなデザインの食器を使用しているので、どうしても食卓に統一性というものがない。
これから毎日食事を共にするのだ。
せっかくなら、これを機に二人分の食器を揃えたい。
「なるほど、それはいいな」
萌依の提案に、蒼弥がうれしそうに頷く。
それで話が纏まると、萌依の方が支度に時間がかかるからと、蒼弥が片付けを引き受けてくれた。
彼に洗い物を任せることを申し訳なくは思うのだけど、萌依が片付けをすると、時間をよけに使い蒼弥を待たせることになってしまう。
それで彼の厚意に甘えさせてもらうことにした。
(こういうの、家族っぽくていいなぁ)
身支度をするために自室に引き返す萌依は、頭の片隅でそんなことを考える。
萌依は大学進学を機に祖父母と暮らす家を出て以降、ずっとひとりで暮らしていた。
ひとりなのだから、当然全ての家事は全て自分でやる。祖父母と暮らしていた頃も、あまり負担をかけてはいけないと思い、なるべく自分のことは自分でするようにしていた。
だからこんなふうに、自然に頼れる存在がいることに、心が浮き立つ。
(蒼弥さんと一緒にいると、気持ちがふわふわしちゃうのは、私が家族という存在に慣れていないからだよね)
蒼弥と一緒に暮らすようになり、萌依は自分の中にこれまでとは異なる感情が芽生えてきたという自覚はある。
でもそれはきっと、萌依が人と一緒に過ごすことに不慣れなせいで、けっして恋心ではないと、自分に言い聞かせて身支度を始めた。
蒼弥はといえば、興味津々といったようすで萌依の手元を覗き込んでいる。
「蒼弥さん……近いです」
「すまん」
萌依の抗議に、蒼弥は半歩距離を開けてくれるが、それでも十分近い。
バターを取ろうと萌依が腕を動かせれば、簡単に体が触れてしまう。
「これが欲しいのか?」
蒼弥に当たらないよう気をつけながら腕を伸ばしていると、蒼弥が代わりに、バターを入れてある用器を取ってくれた。
チラリとこちらを見る蒼弥の顔は、〝手伝いをした自分を褒めろ〟と言いたげだ。
「ありがとうございます」
蒼弥がいなければ自分で取れたのだけれど……。そんな思いを呑み込んでお礼を言うと、蒼弥がふわりと目を細める。
萌依にお礼を言われたのがうれしいと言わんばかりだ。
そんな彼の表情に、萌依は思わずたじろぐ。
成り行きで蒼弥と契約結婚をし、このマンショで暮らすようになって二週間が過ぎた。
その暮らしは驚くほど快適といる。
もちろん寝室は別々で関係は清いままなので、〝夫婦〟ではなく〝同居人〟というのが正しい。
そんな関係なので、もちろん新婚の初々しさはなく、関係はいたってドライなもの。
(の、なはずなのに……)
「どうかしたか?」
もの言いたげな萌依の視線に気付いて、蒼弥が問いかけてくる。
その表情が、粉砂糖でもまぶしたかのように甘ったるく感じるのは、気のせいだろうか。
「ありがとうございます。でも朝食の準備くらい私ひとりでできるので、蒼弥さんは、ゆっくりしていてください」
「迷惑か?」
萌依の言葉に、隣で食器の準備をする蒼弥が寂しそうな顔をする。
「そんなことはないんですけど……」
思いがけない彼の表情に、萌依は言葉を濁した。
同居を始める際、蒼弥名義のマンションで暮らすということもあり、家賃も光熱費も不要と言われた。
その代わりという訳ではないが、これまでずっと自炊していたので、萌依は食事や簡単な家事は自分に任せてほしいとお願いしたのだ。
蒼弥も最初はそれで納得してくれていたはずなのに、ここ数日、萌依が家事をしているとやたら手伝いたがる。
「家事を私任せにしていることは、気にしないでくださいね。家事はもともと好きで、楽しんでやっているんです。それに蒼弥さんのマンションで暮らすようになって、通勤が楽になって時間の余裕もありますから」
蒼弥は、これまで食事は外食がメイン、掃除などは業者任せという生活を送ってきたらしいので、家事がすごく大変なことに思えているのかもしれない。
それで萌依ひとりに家事を任せることを心苦しく感じているのであれば、それは杞憂だ。
そう思って説明したのだけれど、蒼弥は軽く肩をすくめて聞き流す。
「萌依が楽しそうに家事をするから、興味を持っただけだ」
「な、なるほど」
何気ない調子で語る彼の表情に、『だから隣にいさせろ』という無言の圧を感じるのは、こちらの気のせいなのだろうか……。
「家事に感心を持つのは、いいことだと思います」
家事は生活の基本なので、人任せにするよりずっといい。そうは思うのだけど、萌依としては、蒼弥との距離感に戸惑ってしまう。
(なんというか、蒼弥さんが近い)
少し腕を動かしただけで体が触れてしまう距離感もそうなのだけど、ここ数日、彼が自分に向ける眼差しや雰囲気にこれまでとは異なる甘いものが含まれているように思えてならない。
「そういうことだから、俺のことは気にせず、このまま続けてくれ」
萌依は、仕方ないと諦めてフライパンを温め始めた。
(入籍してすぐの頃は、蒼弥さんの態度は、オフィスにいる時と変わらなかったよね)
温めたフライパンの上にバターを置き、それをフライパンに馴染ませながら、萌依は記憶を辿る。
自宅での蒼弥は、いい意味で萌依に関心がなく、お互い干渉することなく時間を過ごしていた。
プライベートな時間の方が多少砕けた感じにはなるが、もとから蒼弥は部下にフランクに接するタイプだ。だから萌依は、最初はオフィスで過ごす時と大きな違いを感じるようなことはなかった。
萌依たちの入籍を知るふたりの先輩秘書は、萌依と蒼弥は公私を分けるタイプで、家では新婚らしい時間を過ごしていると思っているようだったが、もちろんなそんなことはない。
夫婦らしいことといえば、入籍した日に、一応の記念ということで洒落たレストランでディナーを楽しんだことぐらいだ。
あとは、お互い気心の知れた同居人として、程よい距離感で過ごしていたはずなのに。
なんとなく、ここ数日の蒼弥は、こちらに自分の存在をアピールしているように思えるとだけど、さすがにそれは萌依の勘違いだろう。
蒼弥に言えば、自惚だと笑われるに決まっている。
(きっとこれは、蒼弥さんに強烈な存在感があるせいだよね)
そんなことを考えながら、昨夜から卵液に漬けておいた食パンを、まずは一枚フライパンに載せる。
普段の朝食は手軽なもので済ませているが、休日の今日は、いつもより手間をかけてみた。
サラダは用意済だし、コーヒーもコーヒーメーカーにセットしてある。
ゆっくり時間を掛けて卵液に浸したパンを焼き、フレンチトーストを作ると、それカッとしたフルーツを盛り付けた皿に移し、蒼弥がそれをダイニングテーブルへと運ぶ。
「よかったら先に食べていてください」
萌依の言葉に、蒼弥が首を横に振る。
「せっかく萌依が美味しそうな朝食を作ってくれているんだ。どうせなら、一緒に食べたい」
「焼きたての方が美味しいですよ」
萌依がそう声をかけても蒼弥はそれを聞き流して、萌依の傍らに立ち、次が焼けるのを待つ。
(まあ、冷めた方を、私が食べればいいか)
萌依は、続けて次のフレンチトーストを焼く。それが焼き上がると、蒼弥は焼きたての方を萌依に譲り、先に焼いたものを自分の分にしてしまった。
「え、蒼弥さんが焼きたての方を食べてくださいよ」
「萌依が最初に作ってくれた方を食べたい」
「焼きたての方が美味しいですよ」
「萌依が作ってくれたんだから、どちらも同じらい美味しいよ」
心がこそばゆくなるような押し問答をして、結局どちらも少し冷め出したフレンチトースト食べるのは、なんだか妙に落ち着かない。
(こういうことしていると、なんだか本当のカップルみたい)
そんなふうに思ってしまうのは、萌依が恋愛慣れしていないからだろうか。
カフェオレを飲みつつ、上目遣いに蒼弥の様子を窺うと、こちらの視線に気づいた彼が優しく微笑む。
ダイニングテーブルを利用して頬杖をつく姿は、もちろん食事のマナーとしてはいただけない。
だけどモデル顔負けの存在感を放つ蒼弥がそれをやると、まるで映画のワンシーンのように様になっていて、不思議と不快感はない。
それどころか、左手首の腕時計の存在も手伝って、そのままハルモニアのカタログの表紙として使えそうな眺めだ。
「行儀が悪いですよ」
彼に見惚れてしまったことを誤魔化すために萌依が注意をすると、蒼弥は「自宅なんだから許せ」と、鷹揚に返す。
それでも萌依の意見を聞きれたのか、姿勢を直してカトラリーを手に取る。
長い指でナイフとフォークを持ち、フレンチトーストを切り分け口に運ぶ。それをゆっくり咀嚼して、萌依に「美味しい」と微笑む。
その何気ない所作にまで、男の色気が滲み出ている。
女性がほおっておかないはずだ。
そういえば以前、エレベーターで一緒になった時に渥美が、『早瀬社長も若い頃は女をとっかえひっかえ……』と、蒼弥が遊び人であることをにおわせる発言をしていた。もちろん話半分には受け止めているし、恋愛に興味のない蒼弥が、積極的に自分から女性を口説くとは、萌依も考えていない。
それでもそういった冗談が自然と出るくらい、彼は常にモテてきたのだ。
こうやって彼と向き合っていると、何気ない所作にも男性としての魅力に溢れている蒼弥に惹かれる女性の気持ちもわからなくもない。
(落ち着け私っ!)
萌依は心の中で自分を叱咤する。
蒼弥は、恋愛に興味がないからこそ萌依に契約結婚を提案したのだ。萌依に甘くアプローチしてくるわけがない。
彼のこの甘い雰囲気は、きっと最初は多少の遠慮もあって距離を取っていたのが、ふたりの暮らしに慣れてきて、気を許しているだけなのだ。
だとしたら、この大人の男の色気に溢れた姿こそ、彼にとっての通常モードなのだろう。
それなのに萌依が勝手にドキドキしてしまうなんて、蒼弥に対する裏切り以外のなにものでもない。
(蒼弥さんの笑顔にときめくなんて、絶対ダメ!)
萌依は軽く首を振って、雑念を振り払う。
「……萌依、聞いてる?」
あれこれ思考を巡らせ、はやる気持ちをどうにか理性でねじ伏せた萌依は、聞こえてきた蒼弥の言葉にハッとする。
どうやら己の煩悩を持て余して脳内会議を開いている間に、蒼弥に話しかけられていたらしい。
「ごめんなさい。聞き逃してました」
慌てて聞く態勢を取る萌依に、蒼弥が言う。
「今日、特に予定がないなら、俺に付き合ってほしい」
今日の萌依には、それといった予定はない。
シーツを洗うといった、平日はなかなかできない家事をまとめて片付けようと思っていたくらいだ。
「もちろん構いませんよ。どこに出掛けますか?」
「萌依は、どこに行きたい?」
「はい?」
質問に質問で返され困惑する。
蒼弥はそんな萌依の表情を見て、クスクス笑う。
「俺としては、来月のパーティーに着ていく萌依のドレスを選びたい。だけどせっかく出掛けるんだ、そのついでにふたりでどこかに行かないか?」
ハルモニア百周年記念の企画として腕時計のデザインを依頼しているミツセという時計設計師の功績を称えるパーティーが、来月開かれる。
蒼弥はそれに招待されていて、最初は先輩秘書の渥美が同行する予定だった。だけどふたりの入籍を知った彼が、半分は遊びのようなものだから、せっかくなら夫婦で出席すればいいと、萌依にその役目を譲ったてくれたのだ。
「ドレスなら、先日買ったものがありますよ」
仁美の結婚式に着ていくドレスを、彼に選んでもらったばかりだ。あの時、蒼弥は二着もドレスを購入したので、そのどちらかを着ていけばいい。
そう思ったのだけど、蒼弥は納得しない。
「十月のパーティーに着ていくなら、新しく選び直すべきだ」
そう言われてしまうと、現在公私共に彼のパートナーである萌依としては反論の余地はない。
周囲に、今すぐ自分たちの関係を明かす予定がないにしても、将来的に蒼弥との結婚は周知の事実になるのだから、記憶に残る萌依の姿は恥ずかしくないものにしておきたい。
それに蒼弥の秘書という意味でも、きちんと身だしなみを整えておくべきだろう。
「わかりました」
「それで、萌依の行きたい場所は?」
あれこれ考え納得する萌依に、蒼弥が重ねて聞く。
「急に言われても……」
なにも思いつかない。――そう言いかけた萌依は、ハッとして一度言葉を切った後で、こう提案する。
「食器を買いに行きませんか?」
「食器?」
蒼弥は手元の皿を見た。
フレンチトーストを載せている皿や、サラダを入れている小鉢は、引っ越しの際に萌依が持ち込んだものだ。そのどちらも、少々料理とのサイズ感が合わないし、萌依が使っているものとデザインが大きく異なる。
蒼弥には自炊の習慣がなかったため、この家の食器は最低限しかなく、萌依が持ち込んだものをメインで使用している。
だけど萌依も一人暮らしを前提に生きていたので、二人分のセットの食器を持っておらず、バラバラなデザインの食器を使用しているので、どうしても食卓に統一性というものがない。
これから毎日食事を共にするのだ。
せっかくなら、これを機に二人分の食器を揃えたい。
「なるほど、それはいいな」
萌依の提案に、蒼弥がうれしそうに頷く。
それで話が纏まると、萌依の方が支度に時間がかかるからと、蒼弥が片付けを引き受けてくれた。
彼に洗い物を任せることを申し訳なくは思うのだけど、萌依が片付けをすると、時間をよけに使い蒼弥を待たせることになってしまう。
それで彼の厚意に甘えさせてもらうことにした。
(こういうの、家族っぽくていいなぁ)
身支度をするために自室に引き返す萌依は、頭の片隅でそんなことを考える。
萌依は大学進学を機に祖父母と暮らす家を出て以降、ずっとひとりで暮らしていた。
ひとりなのだから、当然全ての家事は全て自分でやる。祖父母と暮らしていた頃も、あまり負担をかけてはいけないと思い、なるべく自分のことは自分でするようにしていた。
だからこんなふうに、自然に頼れる存在がいることに、心が浮き立つ。
(蒼弥さんと一緒にいると、気持ちがふわふわしちゃうのは、私が家族という存在に慣れていないからだよね)
蒼弥と一緒に暮らすようになり、萌依は自分の中にこれまでとは異なる感情が芽生えてきたという自覚はある。
でもそれはきっと、萌依が人と一緒に過ごすことに不慣れなせいで、けっして恋心ではないと、自分に言い聞かせて身支度を始めた。