愛とか恋とかウザいので
10・ふたりの前に立ちはだかるもの
「朝比奈さん、少し休んだら?」
萌依がハルモニアの社長室でパソコンとにらみ合っていると、傍らからそんな声が聞こえてきた。
同時にデスクに紙コップが置かれた。休憩スペースに置かれている自動販売機のものだ。
視線を上げると、同じ柄の紙コップを手にした渥美と目が合った。一緒に少し休憩をしようと誘ってくれているのだ。
「ありがとうございます」
萌依はお礼を言って紙コップを手にする。
今年も猛暑が厳しく、いつまでも夏を引きずっているような日が続いていた。
だけど十一月が始まったとたん秋が深まり、月初めの月曜日である今日は、紙コップから指に伝わる温かさが心地よい。
「新婚生活はどう?」
萌依が紙コップに口をつけると、渥美が言う。
その口調に、こちらを探るような意図はなく、気心の知れた同僚の世間話だとわかる。
だから萌依も、正直な思いを返す。
「怖いぐらいに幸せです」
萌依の言葉に、渥美はくすぐったそうに笑う。
「そう。よかった。朝比奈さんも早瀬社長も結婚指輪もしなければ、職場では相変わらずよそよそしいから、少し気になってた」
そう呟く渥美の眼差しは、現在主不在の蒼弥専用の執務室へと向けられている。
蒼弥はもうひとりの秘書である塩井と共に、視察に出掛けている。その後は、企業の経営陣を招いての懇親会に出席するとのことで、今日はこのまま社に戻ることなく直帰予定だ。
今月中旬に予定されているハルモニア百周年の祝賀会を前に、彼は一段と精力的に活動している。
ちなみに十和企興への業務委託は、雑用としか言いようのない仕事ばかりらしい。一番目立った仕事でも、ミツセの仕事内容を紹介するリーフレット作成なのだから、事業規模を考えれば本来あり得ない話しだ。
そのため、声高に『俺の権力で仕事をもぎ取ってきてやった』と嘯いていた館野常務は、大恥をかいたのだという。
結果、ほとんど八つ当たりのような状況で、最初にこの件でハルモニアにコンタクトを取った亨介が責任を取る形で、仕事を任されたらしい。
本来営業である彼は、それを苦々しい顔でこなしているという。
萌依はそういったことを、友人の仁美から聞かされた。
そのため館野親子と亨介は、会社でかなり肩身が狭いのだとか。
蒼弥に言わせれば、それだけ痛い目をみれば、さすがにもう萌依にちょっかいをかけてくることはないだろうとのことだ。
お互いの愛を確認したことで、仁美には、公表を待たずに蒼弥と籍を入れたことを報告した。それを聞いた仁美は、萌依の結婚を自分のことのように喜んでくれた。
「指輪は休日とかはしていますよ。ただふたりの関係をオープンなものにするのは、ハルモニア百周年のイベントが一息ついてからの予定なので、それまでは控えています」
お互いの愛情を確かめ合った翌日、蒼弥はさっそくといった感じで萌依を買い物に連れだし、結婚指輪を選んでくれた。
ふたりの気持ちが固まった今、関係を隠しておく必要はないのだけれど、蒼弥が萌依の祖父母に結婚の報告をしてから公にしようと言ってくれたので、そうさせてもらうことにした。
萌依の地元は四国にあるため、直接会って結婚の報告をするのであれば、数日の纏まった休みがほしい。だからふたりの関係は、引き続き、身近な者以外には秘密にしている。
そして職場でよそよそしいのは、単に萌依が恥ずかしいからだ。
(蒼弥さん、油断すると情熱的過ぎるんだもん)
萌依は紙コップに口をつけて、心中でごちる。
もちろん蒼弥だって、公私の区別は付けている。それでもなんというか、萌依に向ける眼差しや、何気ない所作に、こちらへの慈しみを滲ませるので、なんとも恥ずかしい。
渥美たちの目もあるので、どう対応すればいいかわからず、職場では今まで以上にクールな態度で接することにした。
萌依がそうなので、蒼弥の方でも、職場ではこれまでと変わりない距離感で接してくれている。
そしてその分、自宅に戻ると、萌依にべったりで甘々だ。ベッドの中では特に。……というのは、絶対に夫婦の秘密である。
そのためかなり情報を絞って、萌依は渥美に、蒼弥との関係が良好であることを伝えた。
渥美は、萌依の報告にうれしそうにする。
「ほんと、人は変われば変わるもんだよな」
もともと渥美と蒼弥は気心の知れた同僚だったので、親しい間柄として、彼の変化を喜んでくれているようだ。
「早瀬社長って、自宅でも完璧ぶりは変わらない?」
渥美の質問に、萌依は苦い顔で肩をすくめた。
萌依にだけ家事を任せるのは気が引けると言って、蒼弥も料理や洗濯を引き受けてくれる。
しかしこれまで外食ばかりだった蒼弥は、味付けはもとより、ふたり分の食事に適切な量というのがわからないらしく、彼に任せると、なかなかなお味の料理を数日間食べ続けることになる。
先日は萌依がおかずを作るのでご飯だけ炊いておいてほしいと頼んだところ、食事の段になって炊飯器を開けてみたら、水に浸した米が温かくなっていたなんてもともあった。炊飯ではなく、保温ボタンを押したのが敗因らしい。
洗濯も同様に、ポケットの中を確かめずに洗濯機を回して、衣類がティッシュまみれりなるとか、白いシャツを色物と一緒に洗って色移りさせるとか、失敗はつきない。
ずっと家事を自分でこなしてきた萌依には、どれも衝撃的な出来事である。
萌依がいくつかの実例をあげ、蒼弥が、あまり家事が得意でないことを話すと、渥美は楽しそうに笑う。
「そんなんじゃ、百年の恋も冷めるね」
渥美はそう言うが、萌依としては、そんなこと全くない。
「私としては、そのくらいの方がホッとします。支え合うために一緒にいるんだから、私の方が彼より得意なこともないと」
「朝比奈さんが、そう言ってくれてよかったよ。君がそういう人だからこそ、早瀬社長は変われたんだろうな。急に結婚したとときは驚かされたけど、最近は纏う空気が柔らかくなったのを感じるよ」
「そう言ってもらえて、よかったです」
「優秀すぎる人間はどうしても孤独になりがちだだから、アイツの……」
渥美がそこまで話したところで、廊下に面したドアが勢いよく開いた。
ノックもなく乱暴に社長室のドアを開けられ、驚いて視線を向けると、そこには蒼弥の祖父である重之が立っていた。
「会長、どうされたんですか?」
驚いて声も出ない萌依に代わって、渥美が聞く。
このハルモニアの会長である重之が、事前連絡もなしに社長室に押しかけてくるのはいつものことだ。
だけど今日の彼は、いつもとは違う。
右手にクシャクシャにした書類を握りしめ、顔を憤怒の色に染めている。
渥美の質問に答えることなく、重之は室内をぐるりと見渡す。
そして萌依に視線を止めると、足早に距離を詰めてきた。
「お前、自分がなにをしたかわかっているのか?」
こちらへと近付く重之の勢いに驚きつつ、萌依は立ち上がった。
重之は既に自分たちの結婚を知っていると、蒼弥から聞かされている。それでもこれまで、そのことについてなにか言われた記憶はなく、無関心を決め込むことで、ふたりの関係を認める気がないと意思表示しているのだと蒼弥が話していた。
だからこのタイミングで、重之が、結婚対する不満を萌依にぶつけにきたとは思えない。
そのため萌依は、重之がなにに対して怒っているのかがわからない。
「私が、ですか?」
萌依が戸惑いの声を漏らすと、重之は忌々しげに手にしていた紙を萌依のデスクに叩き付けた。
バンッと重之手が机を叩く音が、室内に響く。
「よくも勝手なことをしてくれたな、この疫病神が」
「あの……」
本当になにを言われているのかがわからない。
「これだけのことをしでかしたんだ。蒼弥とは離婚してもらう。この会社に、お前の居場所があると思うなっ!」
重之は、それだけ告げると、理解が追いつかない萌依を置き去りにして踵を返して社長室を出て行く。
「会長、お待ちください」
状況が飲み込めないまま、半ば条件反射のように渥美がその後を追いかけていった。
社長室にひとり残された萌依は、混乱した頭のまま重之が残していった紙を手に取った。
A4サイズのその紙は、複数枚あり、しわくちゃになているだけでなく、一部が破れている。おそらく、重之がこの紙に怒りをぶつけた結果なのだろう。
ここに書かれているなにが、彼をそこまで怒らせたのか。その答えを探すべく、そこに書かれている内容に目を走らせて、萌依は息を呑んだ。
萌依がハルモニアの社長室でパソコンとにらみ合っていると、傍らからそんな声が聞こえてきた。
同時にデスクに紙コップが置かれた。休憩スペースに置かれている自動販売機のものだ。
視線を上げると、同じ柄の紙コップを手にした渥美と目が合った。一緒に少し休憩をしようと誘ってくれているのだ。
「ありがとうございます」
萌依はお礼を言って紙コップを手にする。
今年も猛暑が厳しく、いつまでも夏を引きずっているような日が続いていた。
だけど十一月が始まったとたん秋が深まり、月初めの月曜日である今日は、紙コップから指に伝わる温かさが心地よい。
「新婚生活はどう?」
萌依が紙コップに口をつけると、渥美が言う。
その口調に、こちらを探るような意図はなく、気心の知れた同僚の世間話だとわかる。
だから萌依も、正直な思いを返す。
「怖いぐらいに幸せです」
萌依の言葉に、渥美はくすぐったそうに笑う。
「そう。よかった。朝比奈さんも早瀬社長も結婚指輪もしなければ、職場では相変わらずよそよそしいから、少し気になってた」
そう呟く渥美の眼差しは、現在主不在の蒼弥専用の執務室へと向けられている。
蒼弥はもうひとりの秘書である塩井と共に、視察に出掛けている。その後は、企業の経営陣を招いての懇親会に出席するとのことで、今日はこのまま社に戻ることなく直帰予定だ。
今月中旬に予定されているハルモニア百周年の祝賀会を前に、彼は一段と精力的に活動している。
ちなみに十和企興への業務委託は、雑用としか言いようのない仕事ばかりらしい。一番目立った仕事でも、ミツセの仕事内容を紹介するリーフレット作成なのだから、事業規模を考えれば本来あり得ない話しだ。
そのため、声高に『俺の権力で仕事をもぎ取ってきてやった』と嘯いていた館野常務は、大恥をかいたのだという。
結果、ほとんど八つ当たりのような状況で、最初にこの件でハルモニアにコンタクトを取った亨介が責任を取る形で、仕事を任されたらしい。
本来営業である彼は、それを苦々しい顔でこなしているという。
萌依はそういったことを、友人の仁美から聞かされた。
そのため館野親子と亨介は、会社でかなり肩身が狭いのだとか。
蒼弥に言わせれば、それだけ痛い目をみれば、さすがにもう萌依にちょっかいをかけてくることはないだろうとのことだ。
お互いの愛を確認したことで、仁美には、公表を待たずに蒼弥と籍を入れたことを報告した。それを聞いた仁美は、萌依の結婚を自分のことのように喜んでくれた。
「指輪は休日とかはしていますよ。ただふたりの関係をオープンなものにするのは、ハルモニア百周年のイベントが一息ついてからの予定なので、それまでは控えています」
お互いの愛情を確かめ合った翌日、蒼弥はさっそくといった感じで萌依を買い物に連れだし、結婚指輪を選んでくれた。
ふたりの気持ちが固まった今、関係を隠しておく必要はないのだけれど、蒼弥が萌依の祖父母に結婚の報告をしてから公にしようと言ってくれたので、そうさせてもらうことにした。
萌依の地元は四国にあるため、直接会って結婚の報告をするのであれば、数日の纏まった休みがほしい。だからふたりの関係は、引き続き、身近な者以外には秘密にしている。
そして職場でよそよそしいのは、単に萌依が恥ずかしいからだ。
(蒼弥さん、油断すると情熱的過ぎるんだもん)
萌依は紙コップに口をつけて、心中でごちる。
もちろん蒼弥だって、公私の区別は付けている。それでもなんというか、萌依に向ける眼差しや、何気ない所作に、こちらへの慈しみを滲ませるので、なんとも恥ずかしい。
渥美たちの目もあるので、どう対応すればいいかわからず、職場では今まで以上にクールな態度で接することにした。
萌依がそうなので、蒼弥の方でも、職場ではこれまでと変わりない距離感で接してくれている。
そしてその分、自宅に戻ると、萌依にべったりで甘々だ。ベッドの中では特に。……というのは、絶対に夫婦の秘密である。
そのためかなり情報を絞って、萌依は渥美に、蒼弥との関係が良好であることを伝えた。
渥美は、萌依の報告にうれしそうにする。
「ほんと、人は変われば変わるもんだよな」
もともと渥美と蒼弥は気心の知れた同僚だったので、親しい間柄として、彼の変化を喜んでくれているようだ。
「早瀬社長って、自宅でも完璧ぶりは変わらない?」
渥美の質問に、萌依は苦い顔で肩をすくめた。
萌依にだけ家事を任せるのは気が引けると言って、蒼弥も料理や洗濯を引き受けてくれる。
しかしこれまで外食ばかりだった蒼弥は、味付けはもとより、ふたり分の食事に適切な量というのがわからないらしく、彼に任せると、なかなかなお味の料理を数日間食べ続けることになる。
先日は萌依がおかずを作るのでご飯だけ炊いておいてほしいと頼んだところ、食事の段になって炊飯器を開けてみたら、水に浸した米が温かくなっていたなんてもともあった。炊飯ではなく、保温ボタンを押したのが敗因らしい。
洗濯も同様に、ポケットの中を確かめずに洗濯機を回して、衣類がティッシュまみれりなるとか、白いシャツを色物と一緒に洗って色移りさせるとか、失敗はつきない。
ずっと家事を自分でこなしてきた萌依には、どれも衝撃的な出来事である。
萌依がいくつかの実例をあげ、蒼弥が、あまり家事が得意でないことを話すと、渥美は楽しそうに笑う。
「そんなんじゃ、百年の恋も冷めるね」
渥美はそう言うが、萌依としては、そんなこと全くない。
「私としては、そのくらいの方がホッとします。支え合うために一緒にいるんだから、私の方が彼より得意なこともないと」
「朝比奈さんが、そう言ってくれてよかったよ。君がそういう人だからこそ、早瀬社長は変われたんだろうな。急に結婚したとときは驚かされたけど、最近は纏う空気が柔らかくなったのを感じるよ」
「そう言ってもらえて、よかったです」
「優秀すぎる人間はどうしても孤独になりがちだだから、アイツの……」
渥美がそこまで話したところで、廊下に面したドアが勢いよく開いた。
ノックもなく乱暴に社長室のドアを開けられ、驚いて視線を向けると、そこには蒼弥の祖父である重之が立っていた。
「会長、どうされたんですか?」
驚いて声も出ない萌依に代わって、渥美が聞く。
このハルモニアの会長である重之が、事前連絡もなしに社長室に押しかけてくるのはいつものことだ。
だけど今日の彼は、いつもとは違う。
右手にクシャクシャにした書類を握りしめ、顔を憤怒の色に染めている。
渥美の質問に答えることなく、重之は室内をぐるりと見渡す。
そして萌依に視線を止めると、足早に距離を詰めてきた。
「お前、自分がなにをしたかわかっているのか?」
こちらへと近付く重之の勢いに驚きつつ、萌依は立ち上がった。
重之は既に自分たちの結婚を知っていると、蒼弥から聞かされている。それでもこれまで、そのことについてなにか言われた記憶はなく、無関心を決め込むことで、ふたりの関係を認める気がないと意思表示しているのだと蒼弥が話していた。
だからこのタイミングで、重之が、結婚対する不満を萌依にぶつけにきたとは思えない。
そのため萌依は、重之がなにに対して怒っているのかがわからない。
「私が、ですか?」
萌依が戸惑いの声を漏らすと、重之は忌々しげに手にしていた紙を萌依のデスクに叩き付けた。
バンッと重之手が机を叩く音が、室内に響く。
「よくも勝手なことをしてくれたな、この疫病神が」
「あの……」
本当になにを言われているのかがわからない。
「これだけのことをしでかしたんだ。蒼弥とは離婚してもらう。この会社に、お前の居場所があると思うなっ!」
重之は、それだけ告げると、理解が追いつかない萌依を置き去りにして踵を返して社長室を出て行く。
「会長、お待ちください」
状況が飲み込めないまま、半ば条件反射のように渥美がその後を追いかけていった。
社長室にひとり残された萌依は、混乱した頭のまま重之が残していった紙を手に取った。
A4サイズのその紙は、複数枚あり、しわくちゃになているだけでなく、一部が破れている。おそらく、重之がこの紙に怒りをぶつけた結果なのだろう。
ここに書かれているなにが、彼をそこまで怒らせたのか。その答えを探すべく、そこに書かれている内容に目を走らせて、萌依は息を呑んだ。