乾杯はふたりだけの秘密

あの頃の記憶とあの日の真実

「賢吾――」
「えっ」
「嘘だよね?」
 賢吾は目を見開いて固まっている。
「え、もしかしてバレてる?」
 突然ため口になった賢吾が、バツの悪そうな顔を見せた。
「うん。何やったの?」
「え? いや、何が? つーか、俺の正体バレてる?」
「え? ああ、そっち? うん、バレてる」
「いつから?」
「忘年会の夜、賢吾が寝言で『結衣姉』って言ったの」
「マジか……どんな夢見てんだよ俺」
 賢吾が下唇を噛んで照れ臭そうに笑う。
 不意に歩き出したと思えば、数メートル先のベンチに腰を下ろした。結衣も隣に並ぶ。
「それって結構前だよな」
「うん」
「毎日会社で顔合わせてるのに、なんで言わねえんだよ。ひとり相撲取ってたみたいで、すげえ恥ずかしいんだけど」
 賢吾は視線を泳がせ、気まずそうに鼻先をいじっている。
「だって、隠してるってことは、何か理由があるんだろうと思って」
「なんかコンビニでたむろしてるガキ見てたら、無性に結衣に会いたくなったんだよな」
「いや、全然理由になってないから。会いたくなったから入社とかおかしいでしょ。普通に会いにきたら良かったじゃん」
 もっと納得できるような理由を聞かせてほしい。
「ちょうど仕事やめようと思ってたとこでさ」
「もしかして、あの噂のせいで?」
「はあ? さっきから何言ってんだよ」
「何って……賢吾に黒い噂があるって話だよ」
「なんだよそれ。ねえよそんなの。俺、すげえ真面目に働いてきたのに」
「ほんとに? だって佐々木君が――」
「ほら、お前また騙されてんじゃん」
「え、これも嘘なの?」
「どっちを信じんだよ」
 賢吾が呆れたように目を細める。
「それはもちろん賢吾だけど……」
「前の会社辞めたのは、俺の勝手な都合。みんなすげえ良くしてくれてたけど、良くも悪くも年功序列制ってとこが、なーんかつまんねえって思ったんだよな。安定はするんだろうけど、俺の性分には合わねえなと思って」
 人見知りのくせに、社交性がある。人を見極める能力もきちんと持っている。例え先輩であろうと上司であろうと、イエスとノーがはっきり言えるし、媚を売ることもしない。そんな賢吾は誰からの信頼も厚く、取引先からの評判も良かった。
「だいたい、私がここで働いてるってよくわかったよね」
「そんくらい余裕。俺を誰だと思ってんだよ。俺の情報網なめんなって」
 賢吾が言うと、冗談に聞こえないから笑えない。
「俺、連れ多いし」
「うん、それは知ってる。昔からだよね」
「連れの連れも当然連れだから、それでいくと、な?」
「え?」
「人の数だけ情報もあるっつーか」
「……そう」
 きっと賢吾の周りには、助け合える仲間がたくさんいるのだろう。
「今の仕事は、すげえ楽しい。成果主義だから、やればやるだけ評価してもらえるし、俺にピッタリかもって思ってる。伸び代しかねえって感じ」
 自信満々なところも変わらない。けれど、その自信を、今は仕事の実力がきちんと支えている。
「確かにそうかもね」
 ただの演技でここまで出来るわけがない。それは、賢吾の実力だと認めざるを得ない。
「まあ今の仕事が楽しい一番の理由は、結衣がいるからだけど」
「やめてよ。なんか照れる」
「このままずっと正体隠し続けるのは無理だってわかってたし、いつかちゃんと話すつもりだった」
 不意に真剣な眼差しを向けられた。
「いつかって、いつ?」
「結衣が彼女になったら」
「どういうこと?」
「だって結衣が俺の正体知ったら、今の俺を知る前に、付き合えねえって言うだろうと思ったから」
「ああ……」
 なるほど。
 確かに、初めから賢吾だとわかっていたら、恋愛感情は抱かなかったかもしれない。
「結衣が知ってる俺はすげえガキだったし、そのイメージがずっと残ってるだろうから、多分恋愛対象としては見てもらえねえだろうと思って。同じ土俵で、ひとりの男として見てほしかったから、正体隠して入社したんだ」
 結衣はふと、あの頃のことを思い出した。
 中学三年の冬。初めて出来た彼氏に浮気されて公園のベンチでベソをかいていたところを、たまたま通りかかった賢吾に見られてしまった。真面目で誠実だったはずの彼氏に裏切られたことで、十五歳にして人間の二面性を知った。
「結衣姉を泣かす奴なんて許さねえ」と、あの頃まだ小学六年生だった賢吾が怒り狂うのを目にして、ふっと気持ちが軽くなった。
 真面目で誠実であることが、必ずしも人の優しさや信頼に直結するわけではないと知った。言葉遣いが悪くても、少しくらい気性が荒くても、相手を思いやれるほんの少しの優しさがあれば、それで十分なのかもしれないと思えた。
「俺が大人になるまで待ってて」
 あの時、賢吾は眉を寄せて切なげな表情でそう言った。それがまさか現実になるなんて。
< 50 / 58 >

この作品をシェア

pagetop