乾杯はふたりだけの秘密

償い

 翌日の社内は、朝からどこか落ち着かない空気に包まれていた。行き交う社員たちが交わす小声が重なり、いつもと違うざわめきがあちこちに広がっている。
「結衣ちゃん、掲示板見た?」
 まさやんが浮かない表情で尋ねた。
「え、見てないけど、どうしたの?」
「佐々木、辞めるみたい」
「えぇっ? 何で?」
「わかんねえけど」
 結衣は佐々木のデスクに目を向けた。
「佐々木君は?」
「今日は休みだって。なんか昨日の夜、突然部長に連絡あったみたいで」
「昨日?」
「そう。多分、あの後だと思う」 
「そうなんだ。でも、辞めるなんて話、今まで全くしてなかったよね?」
「だよな」
 結衣は胸騒ぎを覚えた。
 まさやんの視線は、おそらく賢吾を探している。彼も同じことを考えたのかもしれない。

 昼休みに賢吾と部長が休憩所で話しているところを見かけた。深刻そうに話す様子から、佐々木のことが関係しているように思えた。突然辞めるなんて、どう考えてもおかしい。
 昨日、本当は賢吾と佐々木の間で何かトラブルがあったのかもしれない。
 それは結衣の勝手な憶測だったが、まさやんもきっとそう考えたに違いない。
 もしも、賢吾も辞めることになったら。
 そんなことを考えていると、急に不安が押し寄せ、胸の奥に焦りがじわりと広がった。今は、賢吾と恋人同士になれたことを喜んでいられる状況ではなのかもしれない。

 その日は、運良く賢吾と一緒に帰ることができた。
 会社を出ると、結衣は朝からずっと胸につかえていた不安を吐き出した。
「佐々木君、辞めるって聞いたでしょ?」
「おう。部長から聞いた」
 賢吾は表情ひとつ変えない。
「昨日佐々木君と話した時、何か言ってたの?」
「いや、何も」
「賢吾さぁ、昨日説教したとかって言ってたけど、佐々木君に何て言ったの?」
「何てって……もうこんなことは止めるようにって言っただけ」
「それだけ?」
「それ以外に何があんだよ」
 そんなひとことで、佐々木が引き下がるとは到底思えない。
 結衣はふと、さっきから自分が、賢吾を質問責めにしていることに気付いた。
「気になるなら、あいつに直接聞けよ。俺もあいつが何で辞めるかなんてわかんねえし、別に興味もねえから」
 賢吾の機嫌を損ねてしまったような気がした。
「まあ、そうだよね」
「辞めてくれたほうが、結衣も良かったんじゃねえの? それとも、佐々木がいなくなったら寂しいわけ?」
「そんなわけないじゃん! ただ、あまりにも急だから、何かあったのかと思って」
 賢吾は苦々しげに眉をひそめた。
「心配してんの? どんだけお人好しなんだよ。あんな奴、放っておきゃいいじゃん」
「そうだけど……」
 佐々木のことを気に掛けているわけではない。賢吾のことが心配で仕方ないだけだ。
 喧嘩したいわけじゃないのに。
 結衣は言葉に詰まり、伏し目がちに歩いた。
「結衣?」
 顔を上げると、賢吾の手の甲がそっと手首に触れた。
「誰かに見られちゃうから」
「俺は別に構わねえけど」
 不意に涙が溢れた。
「賢吾、ごめんね」
「何泣いてんだよ。別に怒ってねえよ」
 賢吾は躊躇いもせずに手を握ると、そのままコートのポケットに潜り込ませた。
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