光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第20話 手を離さない夜
雷は、まだ時々鳴っていた。
大きな音の間隔は、少しずつ空いてきている。
それでも、カーテン越しに白い光が滲むたび、美月の肩は小さく跳ねた。
理久は、握った手にほんの少し力が入るのを感じていた。
意外だった。
病棟では落ち着いている。
こちらが何を言っても、基本的には表情を崩さない。
困っても、すぐに言葉で距離を取る。
その綾瀬さんが、今はクッションを膝の上に置き、雷のたびに息を詰めている。
笑ったのは、悪かったと思う。
でも、正直に言えば、少し可愛かった。
もちろん本人に言えば怒られる。
実際、怒られた。
「弱ってる時に言わないでください」
そう言いながら、それでも彼女は理久の隣に来た。
ただし、身体が触れるほど近くではない。
クッションひとつ分、きっちり距離を空けた場所。
安全圏、と言っていた。
雷から。
理久から。
それとも、今の自分の感情から。
たぶん、全部だ。
手を差し出した時も、断られると思った。
でも、美月は少し迷ってから、指先だけを預けてきた。
「少しだけです」
「雷が鳴っている間だけです」
「勘違いしないでください」
全部、いつもの綾瀬さんだった。
けれど、その手は思ったより冷たくて、少しだけ力が入っていた。
だから、何も言わずに握った。
からかうのはやめた。
マグカップは、少し口をつけたあと、テーブルに戻されている。
クッションは膝の上。
片手でその端を掴みながら、もう片方の手だけを理久に預けている。
全部を預けるわけではない。
でも、一人ではいられない。
その中途半端な頼り方が、いかにも綾瀬さんらしかった。
テレビをつけると、深夜のドラマの再放送が流れていた。
内容はほとんど頭に入ってこない。
画面の中では、誰かが雨の中で何かを言い合っている。
大げさすぎる音楽と台詞が、雷の音を少しだけ誤魔化してくれた。
美月は最初、真剣に見るでもなく、ただ音があることに安心しているようだった。
時々、雷が鳴る。
そのたびに、美月の手に少しだけ力が入る。
そのたびに、理久は同じ強さで握り返した。
大丈夫、と言葉にはしなかった。
言ったところで、彼女はきっと、
「理屈は分かってます」
と返すだろうから。
そういうところが、綾瀬さんらしい。
怖いのに。
ちゃんと怖がっているのに。
それでも、最後の一線だけは自分で守ろうとする。
弱っているところを見せたくない。
甘えていると思われたくない。
頼っていると認めたくない。
それなのに、今は理久の手を離さない。
いや。
離せないのは、どちらだろう。
理久は、自分の手元に視線を落としそうになって、やめた。
見ない方がいい。
見たら、たぶん余計なことを考える。
美月は、化粧を落としていた。
髪の毛先も、まだ少し湿っている。
部屋着の袖口から、細い手首が少しだけ見えている。
それは色気というより、生活の内側だった。
人に見せるつもりのない顔。
整える前の髪。
眠る前の服。
本来なら、理久が見るはずのないもの。
だから、余計に見ない方がいい。
そう思ったのに、視界の端には入ってくる。
本人は、それどころではないのだろう。
雷が怖くて、クッションを膝に置き、片手だけをこちらに預けている。
完全に油断しているわけではない。
でも、いつもの綾瀬さんよりは、ずっと近い。
これは、かなりまずい。
理久はテレビの画面に視線を固定した。
画面の中の二人は、まだ雨の中で何かを言い合っている。
何をそんなに揉めているのか、まったく分からない。
けれど、その音があるおかげで、美月の息遣いを意識しすぎずに済んだ。
雷の間隔は、少しずつ空いていった。
カーテン越しの光も、さっきほど強くない。
美月の手に入る力も、少しずつ弱くなる。
テレビの音に紛れるように、彼女の呼吸がゆっくり整っていった。
理久は声をかけなかった。
眠れるなら、そのまま眠った方がいい。
そう思ったから。
しばらくして、ドラマが終わった。
エンディング曲が流れる。
外の雷も、だいぶ遠くなっている。
美月の手に入る力は、もうほとんど抜けていた。
「綾瀬さん?」
小さく声をかける。
返事はない。
美月はテレビの方を向いたまま、目を閉じていた。
膝の上のクッションを抱えた腕も、ゆるんでいる。
眠っている。
理久は動きを止めた。
「……寝た?」
もちろん返事はない。
美月は、静かに寝息を立てていた。
雷が怖くて、緊張して、ようやく眠れたのだろう。
起こす気にはなれなかった。
ブランケットを取りたい。
けれど、立ち上がれば手が離れる。
手が離れれば、起きるかもしれない。
いや、起きた方がいいのかもしれない。
ゲストルームで寝た方が、彼女のためにはいい。
そう思う。
思うのに、動けなかった。
ふと、肩に重みを感じた。
美月の体が、少しずつこちらに傾いてきている。
理久は反射的に息を止めた。
そのまま、美月の頭が理久の肩に触れる。
軽い。
でも、どうしようもなく重い。
理久は、しばらく動けなかった。
彼女は、完全に油断している。
理久の隣で。
それが分かった瞬間、胸の奥が少しだけ危うくなる。
ここは彼女の避難先だ。
雷が怖くて、ようやく眠れた人を、こちらの都合で起こしてはいけない。
それに、今この距離に余計な意味を持たせたら、全部が壊れる。
理久は静かに息を吐いた。
美月の頭がずれないように、少しだけ姿勢を変える。
握ったままだった手を、ほんの少し緩める。
でも、離さない。
起きたら、たぶん怒る。
「寝てません」
「もたれてません」
「不可抗力です」
そう言うに決まっている。
少し笑いそうになった。
でも、今は笑わない。
見ないようにした。
テレビの画面を見る。
エンディングの後、次の番組が始まっていた。
内容は、やっぱり頭に入ってこない。
見ないようにした。
……でも、見えてしまっただけ。
そう言い訳しながら、結局もう一度だけ横顔を見た。
ほんと、危ないな。
声には出さない。
出したら、きっと本当にまずい。
理久は、彼女の手をもう一度、少しだけ握り直した。
雷はもう遠い。
部屋の中では、落とした照明とテレビの明かりだけが、静かに揺れている。
帰宅したままの白いシャツ。
まだ浴びていないシャワー。
机の上に置いたままのタブレット。
返しきれていない仕事の連絡。
本当なら、やることはいくつもあった。
けれど、そのどれもが、今は遠かった。
美月の呼吸が、肩越しにゆっくり伝わってくる。
規則的で、静かで、少し安心したような寝息。
理久は動かなかった。
起こさないように。
離さないように。
余計な意味を持たせないように。
それだけを考えていたはずだった。
けれど、雷の音が遠くなる頃、理久の意識も少しずつ沈んでいった。
手は、繋いだままだった。
大きな音の間隔は、少しずつ空いてきている。
それでも、カーテン越しに白い光が滲むたび、美月の肩は小さく跳ねた。
理久は、握った手にほんの少し力が入るのを感じていた。
意外だった。
病棟では落ち着いている。
こちらが何を言っても、基本的には表情を崩さない。
困っても、すぐに言葉で距離を取る。
その綾瀬さんが、今はクッションを膝の上に置き、雷のたびに息を詰めている。
笑ったのは、悪かったと思う。
でも、正直に言えば、少し可愛かった。
もちろん本人に言えば怒られる。
実際、怒られた。
「弱ってる時に言わないでください」
そう言いながら、それでも彼女は理久の隣に来た。
ただし、身体が触れるほど近くではない。
クッションひとつ分、きっちり距離を空けた場所。
安全圏、と言っていた。
雷から。
理久から。
それとも、今の自分の感情から。
たぶん、全部だ。
手を差し出した時も、断られると思った。
でも、美月は少し迷ってから、指先だけを預けてきた。
「少しだけです」
「雷が鳴っている間だけです」
「勘違いしないでください」
全部、いつもの綾瀬さんだった。
けれど、その手は思ったより冷たくて、少しだけ力が入っていた。
だから、何も言わずに握った。
からかうのはやめた。
マグカップは、少し口をつけたあと、テーブルに戻されている。
クッションは膝の上。
片手でその端を掴みながら、もう片方の手だけを理久に預けている。
全部を預けるわけではない。
でも、一人ではいられない。
その中途半端な頼り方が、いかにも綾瀬さんらしかった。
テレビをつけると、深夜のドラマの再放送が流れていた。
内容はほとんど頭に入ってこない。
画面の中では、誰かが雨の中で何かを言い合っている。
大げさすぎる音楽と台詞が、雷の音を少しだけ誤魔化してくれた。
美月は最初、真剣に見るでもなく、ただ音があることに安心しているようだった。
時々、雷が鳴る。
そのたびに、美月の手に少しだけ力が入る。
そのたびに、理久は同じ強さで握り返した。
大丈夫、と言葉にはしなかった。
言ったところで、彼女はきっと、
「理屈は分かってます」
と返すだろうから。
そういうところが、綾瀬さんらしい。
怖いのに。
ちゃんと怖がっているのに。
それでも、最後の一線だけは自分で守ろうとする。
弱っているところを見せたくない。
甘えていると思われたくない。
頼っていると認めたくない。
それなのに、今は理久の手を離さない。
いや。
離せないのは、どちらだろう。
理久は、自分の手元に視線を落としそうになって、やめた。
見ない方がいい。
見たら、たぶん余計なことを考える。
美月は、化粧を落としていた。
髪の毛先も、まだ少し湿っている。
部屋着の袖口から、細い手首が少しだけ見えている。
それは色気というより、生活の内側だった。
人に見せるつもりのない顔。
整える前の髪。
眠る前の服。
本来なら、理久が見るはずのないもの。
だから、余計に見ない方がいい。
そう思ったのに、視界の端には入ってくる。
本人は、それどころではないのだろう。
雷が怖くて、クッションを膝に置き、片手だけをこちらに預けている。
完全に油断しているわけではない。
でも、いつもの綾瀬さんよりは、ずっと近い。
これは、かなりまずい。
理久はテレビの画面に視線を固定した。
画面の中の二人は、まだ雨の中で何かを言い合っている。
何をそんなに揉めているのか、まったく分からない。
けれど、その音があるおかげで、美月の息遣いを意識しすぎずに済んだ。
雷の間隔は、少しずつ空いていった。
カーテン越しの光も、さっきほど強くない。
美月の手に入る力も、少しずつ弱くなる。
テレビの音に紛れるように、彼女の呼吸がゆっくり整っていった。
理久は声をかけなかった。
眠れるなら、そのまま眠った方がいい。
そう思ったから。
しばらくして、ドラマが終わった。
エンディング曲が流れる。
外の雷も、だいぶ遠くなっている。
美月の手に入る力は、もうほとんど抜けていた。
「綾瀬さん?」
小さく声をかける。
返事はない。
美月はテレビの方を向いたまま、目を閉じていた。
膝の上のクッションを抱えた腕も、ゆるんでいる。
眠っている。
理久は動きを止めた。
「……寝た?」
もちろん返事はない。
美月は、静かに寝息を立てていた。
雷が怖くて、緊張して、ようやく眠れたのだろう。
起こす気にはなれなかった。
ブランケットを取りたい。
けれど、立ち上がれば手が離れる。
手が離れれば、起きるかもしれない。
いや、起きた方がいいのかもしれない。
ゲストルームで寝た方が、彼女のためにはいい。
そう思う。
思うのに、動けなかった。
ふと、肩に重みを感じた。
美月の体が、少しずつこちらに傾いてきている。
理久は反射的に息を止めた。
そのまま、美月の頭が理久の肩に触れる。
軽い。
でも、どうしようもなく重い。
理久は、しばらく動けなかった。
彼女は、完全に油断している。
理久の隣で。
それが分かった瞬間、胸の奥が少しだけ危うくなる。
ここは彼女の避難先だ。
雷が怖くて、ようやく眠れた人を、こちらの都合で起こしてはいけない。
それに、今この距離に余計な意味を持たせたら、全部が壊れる。
理久は静かに息を吐いた。
美月の頭がずれないように、少しだけ姿勢を変える。
握ったままだった手を、ほんの少し緩める。
でも、離さない。
起きたら、たぶん怒る。
「寝てません」
「もたれてません」
「不可抗力です」
そう言うに決まっている。
少し笑いそうになった。
でも、今は笑わない。
見ないようにした。
テレビの画面を見る。
エンディングの後、次の番組が始まっていた。
内容は、やっぱり頭に入ってこない。
見ないようにした。
……でも、見えてしまっただけ。
そう言い訳しながら、結局もう一度だけ横顔を見た。
ほんと、危ないな。
声には出さない。
出したら、きっと本当にまずい。
理久は、彼女の手をもう一度、少しだけ握り直した。
雷はもう遠い。
部屋の中では、落とした照明とテレビの明かりだけが、静かに揺れている。
帰宅したままの白いシャツ。
まだ浴びていないシャワー。
机の上に置いたままのタブレット。
返しきれていない仕事の連絡。
本当なら、やることはいくつもあった。
けれど、そのどれもが、今は遠かった。
美月の呼吸が、肩越しにゆっくり伝わってくる。
規則的で、静かで、少し安心したような寝息。
理久は動かなかった。
起こさないように。
離さないように。
余計な意味を持たせないように。
それだけを考えていたはずだった。
けれど、雷の音が遠くなる頃、理久の意識も少しずつ沈んでいった。
手は、繋いだままだった。