光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第19話 雷の夜
その日は日勤だった。
仕事が終わり、同僚と軽く夕飯を食べてから、理久のマンションへ戻る。
エントランスを抜けたところで、美月はふと足を止めた。
今、自分は何を思ったのだろう。
戻る。
いや。
帰る、と。
ほんの一瞬、そう思ってしまった。
避難先。
これは避難先。
そう言い聞かせながら、エレベーターに乗る。
高層階まで、音もなく上がっていく箱の中で、美月は自分の映った扉を見た。
少し疲れた顔。
けれど、最初の頃ほど緊張していない顔。
それが、また落ち着かなかった。
部屋の前に着き、鍵を取り出す。
金属製の鍵を差し込み、静かに回す。
小さな音とともに、ロックが外れた。
「……お邪魔します」
誰もいない玄関で、小さく言う。
返事はない。
理久はまだ帰っていなかった。
リビングは静かで、廊下の灯りだけが小さく点いている。
明るすぎない。
眠りを邪魔しない。
けれど、足元はちゃんと見える。
もう何度も見た光なのに、そのたびに胸の奥が少しだけ緩む。
美月は靴を脱ぎ、ゲストルームへ荷物を置いた。
今日は、もう何も考えたくない。
管理会社からの連絡も、保険会社の書類も、クリーニングの手配も、明日に回してしまいたい。
そう思いながら、先にシャワーを浴びた。
湯気の中で、仕事の疲れが少しずつほどけていく。
部屋着に着替え、化粧も落とした。
髪はざっと乾かしただけで、毛先にまだ少し湿り気が残っている。
もう寝るだけの格好だった。
誰かに見られる前提ではない。
理久が帰ってくる頃には、たぶん自分はゲストルームにいる。
そう思っていた。
リビングへ水を取りに出た時だった。
窓の外が、白く光った。
一瞬遅れて、低い雷鳴。
美月の手が止まる。
……雷。
もう一度、光る。
さっきより近い。
ごろごろ、というより、建物全体に低く響くような音だった。
美月は無意識に肩をすくめる。
小さい頃から、雷が苦手だった。
音も嫌いだし、突然光るのも嫌い。
理屈では安全だと分かっている。
高層マンションの中にいれば、外にいるよりずっと安全なことも分かっている。
けれど、体が先に反応してしまう。
広いリビング。
大きな窓。
高層階の夜景。
普段は綺麗な景色が、雷の日だけは怖い。
美月は、カーテンを閉めようと窓の方を見た。
閉めたい。
けれど、どう操作するのか分からない。
この部屋のカーテンは、普通に手で引くようなものではなさそうだった。
壁際にスイッチのようなものはある。
けれど、どれが照明で、どれがカーテンなのか分からない。
それに、窓際まで近づくのも嫌だった。
また外が白く光る。
美月は思わず一歩引いた。
無理。
これは無理。
結局、美月はソファへ戻り、クッションを抱えて端に座った。
リビングの照明を少しだけ明るくする。
それでも、雷鳴が響くたびに体が固まった。
大丈夫。
ここは室内。
窓から離れていればいい。
停電するわけでもない。
分かっている。
分かっているけれど、怖いものは怖い。
そう思った時、玄関が開いた。
理久が帰ってきた。
「ただいま」
いつもの声。
低すぎず、軽すぎず、夜の部屋に自然に落ちる声。
けれど、美月には返事をする余裕がなかった。
また光る。
雷鳴。
美月は反射的にクッションを抱きしめた。
玄関の方で、理久の動きが少し止まる気配がした。
靴を脱ぐ音。
鍵を置く音。
ジャケットを外す衣擦れの音。
それから、白いシャツのまま、理久がリビングへ入ってきた。
袖口は軽くまくられている。
仕事帰りの顔なのに、すでに少しだけ家の中の顔になっていた。
そこで初めて、美月の様子に気づいたように、理久は足を止めた。
「……綾瀬さん?」
美月は、化粧を落としていることも、髪の毛先がまだ湿っていることも、気にしている余裕がなかった。
理久がリビングに入ってくる。
「どうしたの」
また、窓の外が光った。
美月は小さく息を飲む。
それを見て、理久はすぐに察した。
「雷、怖いの?」
美月はクッションを抱えたまま、少しだけ視線を逸らした。
「……苦手です」
理久は一瞬だけ黙って、それから少し笑った。
「はは」
美月は睨む。
「笑いました?」
「ごめん。意外で」
「笑うところではありません」
「うん。ごめん」
でも、まだ少し笑っている。
美月はむっとした。
けれど、次の雷でまた肩が跳ねた。
その瞬間、理久の表情が変わった。
笑いが消える。
「ほんとに苦手なんだ」
「……だから言ったじゃないですか」
「うん」
理久はソファの横を通り、テーブルの上に置かれていたリモコンを取った。
何でもない顔でボタンを押す。
すると、大きな窓を覆うカーテンが、音もなくゆっくり閉じていった。
美月は思わずその動きを見つめる。
「……それで閉まるんですね」
「うん」
「分かりませんでした」
「分からない時は呼んで。ここの設備、初見には分かりにくいから」
「窓際まで行くのも嫌だったんです」
「それは、本当に苦手なんだね」
「だから言いました」
「うん。ごめん」
今度は笑わなかった。
理久は部屋の照明を少しだけ温かくする。
テレビをつけて、音量を少し上げる。
「音、紛れるでしょ」
美月は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
理久はキッチンへ行き、温かい飲み物を作った。
マグカップを美月の前に置く。
「カフェイン少なめ。寝る前だし」
美月はマグを両手で持った。
湯気が、指先にやわらかく触れる。
本当に、こういう時の段取りが早い。
どこまで隙がないのだろう。
でも今は、その隙のなさがありがたかった。
理久は少し離れたソファの端に腰を下ろした。
近づきすぎない。
その距離が、いつもの理久だった。
「こっち来る?」
美月は即答できなかった。
来る?
何それ。
どういう意味。
いや、でも怖い。
閉じたカーテン越しに、また白い光が滲む。
美月は、言葉より先に立ち上がっていた。
理久の隣に腰を下ろす。
ただし、身体が触れないように、クッションひとつ分ほど距離を空けて。
理久が小さく笑う。
「そこなんだ」
「安全圏です」
「雷から?」
「いろいろです」
理久は、それ以上からかわなかった。
美月は温かい飲み物に少しだけ口をつけ、マグカップをテーブルに戻した。
クッションを膝に抱え直す。
また雷が鳴る。
美月は反射的に目を閉じた。
理久が少しだけ手を伸ばしかけて、止める。
触れない。
代わりに、静かに言った。
「大丈夫。ここ、高層だけど避雷設備はある。建物の中にいれば安全」
「理屈は分かってます」
「うん。怖いものは怖いよね」
その言い方が、思ったより優しくて。
美月は少しだけ力が抜けた。
「……子どもみたいで、すみません」
「全然」
「笑ったくせに」
理久は少し困ったように笑った。
「可愛いと思っただけ」
美月が止まる。
「……今、何て」
「雷が苦手なの、可愛い」
「そういうの、弱ってる時に言わないでください」
「弱ってる時だから言った」
「最低です」
「二回言う?」
「言いません」
いつものやり取りが戻ってきて、美月は少し安心した。
でも、次の大きな雷で、またびくっとする。
理久が今度は、そっと手を差し出した。
「手、貸す?」
美月は、その手を見た。
いつもの美月なら断る。
必要ありません。
大丈夫です。
お気遣いなく。
いくらでも言える。
でも、今日は雷が怖い。
本当に、怖い。
そしてこの人は今、ふざけていない。
美月はしばらく迷ってから、そっと指先だけ預けた。
理久は何も言わない。
からかわない。
ただ、軽く握る。
「……少しだけです」
「うん」
「雷が鳴っている間だけです」
「うん」
「勘違いしないでください」
理久が少し笑う。
「今日はしない」
美月は、テーブルに置いたマグカップを見つめたまま、手を握られている。
外では雷が鳴っている。
でも、さっきより少しだけ怖くない。
理久はテレビを見ているふりをしながら、手を離さなかった。
美月は思う。
これは避難。
雷からの避難。
……本当に、避難ばかりしている。
でも、その避難先が理久の隣になっていることには、今は気づかないふりをした。
仕事が終わり、同僚と軽く夕飯を食べてから、理久のマンションへ戻る。
エントランスを抜けたところで、美月はふと足を止めた。
今、自分は何を思ったのだろう。
戻る。
いや。
帰る、と。
ほんの一瞬、そう思ってしまった。
避難先。
これは避難先。
そう言い聞かせながら、エレベーターに乗る。
高層階まで、音もなく上がっていく箱の中で、美月は自分の映った扉を見た。
少し疲れた顔。
けれど、最初の頃ほど緊張していない顔。
それが、また落ち着かなかった。
部屋の前に着き、鍵を取り出す。
金属製の鍵を差し込み、静かに回す。
小さな音とともに、ロックが外れた。
「……お邪魔します」
誰もいない玄関で、小さく言う。
返事はない。
理久はまだ帰っていなかった。
リビングは静かで、廊下の灯りだけが小さく点いている。
明るすぎない。
眠りを邪魔しない。
けれど、足元はちゃんと見える。
もう何度も見た光なのに、そのたびに胸の奥が少しだけ緩む。
美月は靴を脱ぎ、ゲストルームへ荷物を置いた。
今日は、もう何も考えたくない。
管理会社からの連絡も、保険会社の書類も、クリーニングの手配も、明日に回してしまいたい。
そう思いながら、先にシャワーを浴びた。
湯気の中で、仕事の疲れが少しずつほどけていく。
部屋着に着替え、化粧も落とした。
髪はざっと乾かしただけで、毛先にまだ少し湿り気が残っている。
もう寝るだけの格好だった。
誰かに見られる前提ではない。
理久が帰ってくる頃には、たぶん自分はゲストルームにいる。
そう思っていた。
リビングへ水を取りに出た時だった。
窓の外が、白く光った。
一瞬遅れて、低い雷鳴。
美月の手が止まる。
……雷。
もう一度、光る。
さっきより近い。
ごろごろ、というより、建物全体に低く響くような音だった。
美月は無意識に肩をすくめる。
小さい頃から、雷が苦手だった。
音も嫌いだし、突然光るのも嫌い。
理屈では安全だと分かっている。
高層マンションの中にいれば、外にいるよりずっと安全なことも分かっている。
けれど、体が先に反応してしまう。
広いリビング。
大きな窓。
高層階の夜景。
普段は綺麗な景色が、雷の日だけは怖い。
美月は、カーテンを閉めようと窓の方を見た。
閉めたい。
けれど、どう操作するのか分からない。
この部屋のカーテンは、普通に手で引くようなものではなさそうだった。
壁際にスイッチのようなものはある。
けれど、どれが照明で、どれがカーテンなのか分からない。
それに、窓際まで近づくのも嫌だった。
また外が白く光る。
美月は思わず一歩引いた。
無理。
これは無理。
結局、美月はソファへ戻り、クッションを抱えて端に座った。
リビングの照明を少しだけ明るくする。
それでも、雷鳴が響くたびに体が固まった。
大丈夫。
ここは室内。
窓から離れていればいい。
停電するわけでもない。
分かっている。
分かっているけれど、怖いものは怖い。
そう思った時、玄関が開いた。
理久が帰ってきた。
「ただいま」
いつもの声。
低すぎず、軽すぎず、夜の部屋に自然に落ちる声。
けれど、美月には返事をする余裕がなかった。
また光る。
雷鳴。
美月は反射的にクッションを抱きしめた。
玄関の方で、理久の動きが少し止まる気配がした。
靴を脱ぐ音。
鍵を置く音。
ジャケットを外す衣擦れの音。
それから、白いシャツのまま、理久がリビングへ入ってきた。
袖口は軽くまくられている。
仕事帰りの顔なのに、すでに少しだけ家の中の顔になっていた。
そこで初めて、美月の様子に気づいたように、理久は足を止めた。
「……綾瀬さん?」
美月は、化粧を落としていることも、髪の毛先がまだ湿っていることも、気にしている余裕がなかった。
理久がリビングに入ってくる。
「どうしたの」
また、窓の外が光った。
美月は小さく息を飲む。
それを見て、理久はすぐに察した。
「雷、怖いの?」
美月はクッションを抱えたまま、少しだけ視線を逸らした。
「……苦手です」
理久は一瞬だけ黙って、それから少し笑った。
「はは」
美月は睨む。
「笑いました?」
「ごめん。意外で」
「笑うところではありません」
「うん。ごめん」
でも、まだ少し笑っている。
美月はむっとした。
けれど、次の雷でまた肩が跳ねた。
その瞬間、理久の表情が変わった。
笑いが消える。
「ほんとに苦手なんだ」
「……だから言ったじゃないですか」
「うん」
理久はソファの横を通り、テーブルの上に置かれていたリモコンを取った。
何でもない顔でボタンを押す。
すると、大きな窓を覆うカーテンが、音もなくゆっくり閉じていった。
美月は思わずその動きを見つめる。
「……それで閉まるんですね」
「うん」
「分かりませんでした」
「分からない時は呼んで。ここの設備、初見には分かりにくいから」
「窓際まで行くのも嫌だったんです」
「それは、本当に苦手なんだね」
「だから言いました」
「うん。ごめん」
今度は笑わなかった。
理久は部屋の照明を少しだけ温かくする。
テレビをつけて、音量を少し上げる。
「音、紛れるでしょ」
美月は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
理久はキッチンへ行き、温かい飲み物を作った。
マグカップを美月の前に置く。
「カフェイン少なめ。寝る前だし」
美月はマグを両手で持った。
湯気が、指先にやわらかく触れる。
本当に、こういう時の段取りが早い。
どこまで隙がないのだろう。
でも今は、その隙のなさがありがたかった。
理久は少し離れたソファの端に腰を下ろした。
近づきすぎない。
その距離が、いつもの理久だった。
「こっち来る?」
美月は即答できなかった。
来る?
何それ。
どういう意味。
いや、でも怖い。
閉じたカーテン越しに、また白い光が滲む。
美月は、言葉より先に立ち上がっていた。
理久の隣に腰を下ろす。
ただし、身体が触れないように、クッションひとつ分ほど距離を空けて。
理久が小さく笑う。
「そこなんだ」
「安全圏です」
「雷から?」
「いろいろです」
理久は、それ以上からかわなかった。
美月は温かい飲み物に少しだけ口をつけ、マグカップをテーブルに戻した。
クッションを膝に抱え直す。
また雷が鳴る。
美月は反射的に目を閉じた。
理久が少しだけ手を伸ばしかけて、止める。
触れない。
代わりに、静かに言った。
「大丈夫。ここ、高層だけど避雷設備はある。建物の中にいれば安全」
「理屈は分かってます」
「うん。怖いものは怖いよね」
その言い方が、思ったより優しくて。
美月は少しだけ力が抜けた。
「……子どもみたいで、すみません」
「全然」
「笑ったくせに」
理久は少し困ったように笑った。
「可愛いと思っただけ」
美月が止まる。
「……今、何て」
「雷が苦手なの、可愛い」
「そういうの、弱ってる時に言わないでください」
「弱ってる時だから言った」
「最低です」
「二回言う?」
「言いません」
いつものやり取りが戻ってきて、美月は少し安心した。
でも、次の大きな雷で、またびくっとする。
理久が今度は、そっと手を差し出した。
「手、貸す?」
美月は、その手を見た。
いつもの美月なら断る。
必要ありません。
大丈夫です。
お気遣いなく。
いくらでも言える。
でも、今日は雷が怖い。
本当に、怖い。
そしてこの人は今、ふざけていない。
美月はしばらく迷ってから、そっと指先だけ預けた。
理久は何も言わない。
からかわない。
ただ、軽く握る。
「……少しだけです」
「うん」
「雷が鳴っている間だけです」
「うん」
「勘違いしないでください」
理久が少し笑う。
「今日はしない」
美月は、テーブルに置いたマグカップを見つめたまま、手を握られている。
外では雷が鳴っている。
でも、さっきより少しだけ怖くない。
理久はテレビを見ているふりをしながら、手を離さなかった。
美月は思う。
これは避難。
雷からの避難。
……本当に、避難ばかりしている。
でも、その避難先が理久の隣になっていることには、今は気づかないふりをした。