光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第21話 触れてしまった夜
目を覚ました時、最初に感じたのは、手の温度だった。
リビングは、明るすぎなかった。
けれど、暗くもない。
少し落とされた照明と、つけっぱなしのテレビの明かりが、部屋の中をぼんやり照らしている。
音量は小さく、画面の中で誰かが話している声だけが、遠くに聞こえた。
雷は、もう鳴っていない。
雨の音も、さっきよりずっと静かだった。
美月はぼんやりと瞬きをする。
ここはどこだろう。
一瞬、そう思ってから、思い出す。
理久のマンション。
リビング。
雷。
ソファ。
クッション。
温かい飲み物。
そして。
手。
美月は、自分の手を見た。
理久の手と、繋がっていた。
一気に目が覚める。
しかも、自分は理久の肩にもたれていた。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
何をしているの、私。
寝た。
完全に寝た。
雷が怖くて、手を借りて、そのまま寝てしまった。
しかも、もたれている。
美月は慌てて体を起こそうとして、動きを止めた。
理久が眠っていた。
白いシャツのまま、ソファの背に軽く体を預けている。
片手は、美月の手を握ったまま。
もう片方の手は、ソファの上に力なく置かれていた。
眠っている。
本当に。
美月は息をひそめた。
起こしてはいけない。
そう思ったのに、視線が外せなかった。
いつもの藤崎先生ではなかった。
病棟で誰にでも穏やかに笑う顔でもない。
少し意地悪に美月を追い込む時の顔でもない。
整えられた王子の顔でもない。
ただ、眠っている顔だった。
少し乱れた前髪。
伏せられた睫毛。
力の抜けた口元。
白いシャツの襟元に落ちる、やわらかな光。
綺麗な人だと思った。
思ってしまった。
美月はすぐに視線を逸らそうとした。
でも、逸らせなかった。
仕事中の理久は、いつも隙がない。
誰に対しても感じがよく、穏やかで、余裕がある。
たぶん、見られることに慣れている。
期待される顔をすることにも慣れている。
でも今は、そのどれでもない。
美月だけが、見ている。
そう思った瞬間、胸の奥が変なふうに跳ねた。
違う。
これは寝ぼけているだけ。
雷で疲れて、眠って、頭がぼんやりしているだけ。
そう言い聞かせたのに、手が動いた。
空いている方の手が、そっと伸びる。
触れるつもりはなかった。
本当に。
ただ、前髪が少し乱れていて。
その影が、頬に落ちていて。
美月の指先が、理久の頬に触れた。
ほんの少し。
一瞬だけ。
温かい。
「……綺麗」
声が漏れた。
言った瞬間、美月の体が固まった。
何を言った。
今、何を。
美月は息を止めたまま、理久を見る。
眠っている。
起きていない。
たぶん。
きっと。
大丈夫。
大丈夫ではない。
美月は急いで手を引いた。
まずい。
非常にまずい。
今すぐ離れなければ。
繋がれた手をそっとほどこうとする。
けれど、美月が動いた瞬間、理久の指が反射的に軽く握り返した。
「……」
美月は動きを止める。
起きた?
いや、まだ眠っている。
でも、手を離せない。
もう一度、慎重に体を引こうとした。
その時、膝の上に置いていたクッションが少しずれた。
「あ」
小さく声が出る。
落としそうになったクッションを押さえようとして、体勢が崩れた。
慌てて立て直そうとしたけれど、繋がれた手が邪魔になる。
次の瞬間、美月の体は理久の方へ倒れ込んでいた。
「っ……!」
理久の膝に、半分乗るような形になる。
近い。
近すぎる。
美月の心臓が、跳ねた。
その瞬間、理久の目が開いた。
一瞬、何が起きているのか分からないように、理久は瞬きをした。
そして、膝の上の美月を見た。
美月も、固まったまま理久を見る。
沈黙。
テレビの音だけが、遠くで流れている。
「……綾瀬さん?」
理久の声は、少し低かった。
完全に寝起きの声だった。
美月は答えられない。
理久はもう一度瞬きをしてから、自分の膝の上にいる美月と、繋いだままの手を見た。
ようやく状況を理解し始めたように、少しだけ目を細める。
「……逃げようとした?」
美月は即答できなかった。
逃げようとした。
完全に逃げようとした。
なぜなら、触れてしまったから。
見てしまったから。
綺麗だと思ってしまったから。
理久は、まだ少し寝起きの顔のまま、静かに聞いた。
「今、何か言った?」
美月の体が固まる。
「……言ってません」
「そう」
理久は少しだけ間を置いた。
その目が、ようやく焦点を結ぶように、美月を見る。
「綺麗、って聞こえた気がした」
美月の顔が、一気に熱くなった。
「聞き間違いです」
「そう?」
「寝ぼけていたんだと思います」
「俺が?」
「はい」
理久が、少しだけ笑った。
「じゃあ、そういうことにしておく」
その言い方が、絶対に信じていない。
美月は膝の上から降りようとした。
「降ります」
「うん」
でも理久は、すぐにはからかわなかった。
美月が体勢を整えられるように、ちゃんと支える。
そこがまた困る。
無事にソファへ戻った美月は、クッションを抱えて距離を取った。
「……すみませんでした」
理久は、軽く首を振る。
「俺もごめん。起きた時、びっくりしたでしょ」
「びっくりしました」
「手、離せばよかった」
美月は、繋いでいた手を見てしまう。
もう離れている。
離れているのに、まだ温度が残っている気がした。
「……いえ」
「ん?」
「雷が、怖かったので」
小さな声だった。
理久は、静かに聞いている。
「その……助かりました」
理久は少しだけ表情を和らげた。
「よかった」
美月はまた視線を落とす。
「でも、もう大丈夫です」
「うん」
「雷、止んでますし」
「うん」
「なので、もう……」
理久が少し笑う。
「手、いらない?」
美月は黙った。
本当は、もういらない。
雷は止んでいる。
でも、さっきまでの温度が残っている。
それを認めるのが悔しくて、恥ずかしい。
「……今は、いりません」
理久は、いつものように深追いしなかった。
「分かった」
その“分かった”が、少しだけ優しい。
美月はクッションに顔を半分隠す。
理久は、少し乱れた髪をかき上げながら、ようやく自分の状況に気づいたように笑った。
「俺、着替えてない」
「……そうですね」
「寝落ちした」
「私もです」
「お互い様?」
「同じにしないでください」
「厳しいな」
少しだけ、いつもの空気に戻る。
でも、完全には戻らない。
理久の顔が近かったこと。
手を握られたこと。
自分から頬に触れたこと。
「綺麗」と言ってしまったこと。
全部、なかったことにはできない。
美月は心の中で思った。
これは、雷のせい。
寝ぼけていたせい。
非常事態だったせい。
でも、どれだけ理由を並べても、指先にはまだ理久の頬の感触が残っていた。
それが一番、まずかった。
美月は、クッションを抱えたまま小さな声で言った。
「あ、ありがとうございました。お、おやすみなさい」
いつもの美月なら、もっと整った言い方をする。
失礼します。
もう大丈夫です。
本日はありがとうございました。
そうやって、きれいに距離を置く。
でも今の言葉は、全然整っていなかった。
美月はほとんど逃げるように立ち上がり、視線も合わせないままゲストルームへ戻っていった。
ドアが閉まる。
リビングに、静けさが戻った。
* * *
理久はしばらく動けなかった。
テレビの音だけが、やけに遠くに聞こえる。
さっきまで美月がいたソファの端。
まだ少しだけ沈んだクッション。
繋いでいた手の感触。
全部が残っている。
「……これは」
思わず、息が漏れた。
やばい。
非常にやばい。
反則だろ。
雷が怖くて、手を預けてきた時点で十分危なかった。
そのまま眠って、もたれかかってきた時も、かなり危なかった。
でも、今のは違う。
起きた後の、あの顔。
逃げようとして崩れた体勢。
真っ赤になって、言葉が整わないまま部屋へ戻っていく背中。
それを見て、何も思わない方がおかしい。
理久は片手で髪をかき上げた。
「……まずいな」
声に出すと、余計に現実味が増した。
ここは彼女の避難先だ。
彼女は困って、理久の家に来ている。
それを忘れたら終わりだ。
分かっている。
分かっているのに、今夜の美月は、あまりにも近かった。
理久は、さっきまで繋いでいた手を見た。
まだ、彼女の手の冷たさと温度が残っている気がした。
しばらくして、理久はようやく立ち上がった。
テレビを消す。
テーブルの上のマグカップを片づける。
リビングの照明を少し落とす。
いつもの動作をひとつずつしているのに、頭の中はまったく整わなかった。
シャワーを浴びて、自分の部屋へ戻る。
ベッドに入っても、すぐには眠れなかった。
手の温度が、まだ残っている。
膝の上に落ちてきた重さも。
頬に触れた指先も。
綺麗、と漏れた声も。
全部、忘れた方がいい。
明日には、何もなかった顔をしなければならない。
そう分かっているのに。
理久は、目を閉じてから、もう一度だけ小さく息を吐いた。
本当に、まずい。
* * *
ゲストルームのドアを閉めた瞬間、美月はそのまま背中を預けた。
心臓がうるさい。
何をしているの、私。
ベッドまで歩いて、布団に潜り込む。
顔まで隠しても、全然落ち着かなかった。
綺麗って言った。
声に出した。
しかも、触った。
頬に。
ありえない。
本当に、ありえない。
先生は寝ていた。
たぶん、聞こえていない。
でも、起きた時のあの目。
少し低い声。
自分が膝の上にいると分かった時の、一瞬の沈黙。
聞こえていたのかもしれない。
そう思った瞬間、美月は布団の中で小さく呻いた。
雷が怖かったから。
だから、手を借りたのは仕方ない。
でも、頬に触れたのは雷のせいではない。
「綺麗」と言ってしまったのも、雷のせいではない。
美月は、さっきまで繋いでいた手を握りしめた。
先生の寝顔。
触れた頬の感触。
手の温度。
全部が、目を閉じても浮かんでくる。
明日から、どうしよう。
それだけが、何度も頭の中で繰り返された。
リビングは、明るすぎなかった。
けれど、暗くもない。
少し落とされた照明と、つけっぱなしのテレビの明かりが、部屋の中をぼんやり照らしている。
音量は小さく、画面の中で誰かが話している声だけが、遠くに聞こえた。
雷は、もう鳴っていない。
雨の音も、さっきよりずっと静かだった。
美月はぼんやりと瞬きをする。
ここはどこだろう。
一瞬、そう思ってから、思い出す。
理久のマンション。
リビング。
雷。
ソファ。
クッション。
温かい飲み物。
そして。
手。
美月は、自分の手を見た。
理久の手と、繋がっていた。
一気に目が覚める。
しかも、自分は理久の肩にもたれていた。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
何をしているの、私。
寝た。
完全に寝た。
雷が怖くて、手を借りて、そのまま寝てしまった。
しかも、もたれている。
美月は慌てて体を起こそうとして、動きを止めた。
理久が眠っていた。
白いシャツのまま、ソファの背に軽く体を預けている。
片手は、美月の手を握ったまま。
もう片方の手は、ソファの上に力なく置かれていた。
眠っている。
本当に。
美月は息をひそめた。
起こしてはいけない。
そう思ったのに、視線が外せなかった。
いつもの藤崎先生ではなかった。
病棟で誰にでも穏やかに笑う顔でもない。
少し意地悪に美月を追い込む時の顔でもない。
整えられた王子の顔でもない。
ただ、眠っている顔だった。
少し乱れた前髪。
伏せられた睫毛。
力の抜けた口元。
白いシャツの襟元に落ちる、やわらかな光。
綺麗な人だと思った。
思ってしまった。
美月はすぐに視線を逸らそうとした。
でも、逸らせなかった。
仕事中の理久は、いつも隙がない。
誰に対しても感じがよく、穏やかで、余裕がある。
たぶん、見られることに慣れている。
期待される顔をすることにも慣れている。
でも今は、そのどれでもない。
美月だけが、見ている。
そう思った瞬間、胸の奥が変なふうに跳ねた。
違う。
これは寝ぼけているだけ。
雷で疲れて、眠って、頭がぼんやりしているだけ。
そう言い聞かせたのに、手が動いた。
空いている方の手が、そっと伸びる。
触れるつもりはなかった。
本当に。
ただ、前髪が少し乱れていて。
その影が、頬に落ちていて。
美月の指先が、理久の頬に触れた。
ほんの少し。
一瞬だけ。
温かい。
「……綺麗」
声が漏れた。
言った瞬間、美月の体が固まった。
何を言った。
今、何を。
美月は息を止めたまま、理久を見る。
眠っている。
起きていない。
たぶん。
きっと。
大丈夫。
大丈夫ではない。
美月は急いで手を引いた。
まずい。
非常にまずい。
今すぐ離れなければ。
繋がれた手をそっとほどこうとする。
けれど、美月が動いた瞬間、理久の指が反射的に軽く握り返した。
「……」
美月は動きを止める。
起きた?
いや、まだ眠っている。
でも、手を離せない。
もう一度、慎重に体を引こうとした。
その時、膝の上に置いていたクッションが少しずれた。
「あ」
小さく声が出る。
落としそうになったクッションを押さえようとして、体勢が崩れた。
慌てて立て直そうとしたけれど、繋がれた手が邪魔になる。
次の瞬間、美月の体は理久の方へ倒れ込んでいた。
「っ……!」
理久の膝に、半分乗るような形になる。
近い。
近すぎる。
美月の心臓が、跳ねた。
その瞬間、理久の目が開いた。
一瞬、何が起きているのか分からないように、理久は瞬きをした。
そして、膝の上の美月を見た。
美月も、固まったまま理久を見る。
沈黙。
テレビの音だけが、遠くで流れている。
「……綾瀬さん?」
理久の声は、少し低かった。
完全に寝起きの声だった。
美月は答えられない。
理久はもう一度瞬きをしてから、自分の膝の上にいる美月と、繋いだままの手を見た。
ようやく状況を理解し始めたように、少しだけ目を細める。
「……逃げようとした?」
美月は即答できなかった。
逃げようとした。
完全に逃げようとした。
なぜなら、触れてしまったから。
見てしまったから。
綺麗だと思ってしまったから。
理久は、まだ少し寝起きの顔のまま、静かに聞いた。
「今、何か言った?」
美月の体が固まる。
「……言ってません」
「そう」
理久は少しだけ間を置いた。
その目が、ようやく焦点を結ぶように、美月を見る。
「綺麗、って聞こえた気がした」
美月の顔が、一気に熱くなった。
「聞き間違いです」
「そう?」
「寝ぼけていたんだと思います」
「俺が?」
「はい」
理久が、少しだけ笑った。
「じゃあ、そういうことにしておく」
その言い方が、絶対に信じていない。
美月は膝の上から降りようとした。
「降ります」
「うん」
でも理久は、すぐにはからかわなかった。
美月が体勢を整えられるように、ちゃんと支える。
そこがまた困る。
無事にソファへ戻った美月は、クッションを抱えて距離を取った。
「……すみませんでした」
理久は、軽く首を振る。
「俺もごめん。起きた時、びっくりしたでしょ」
「びっくりしました」
「手、離せばよかった」
美月は、繋いでいた手を見てしまう。
もう離れている。
離れているのに、まだ温度が残っている気がした。
「……いえ」
「ん?」
「雷が、怖かったので」
小さな声だった。
理久は、静かに聞いている。
「その……助かりました」
理久は少しだけ表情を和らげた。
「よかった」
美月はまた視線を落とす。
「でも、もう大丈夫です」
「うん」
「雷、止んでますし」
「うん」
「なので、もう……」
理久が少し笑う。
「手、いらない?」
美月は黙った。
本当は、もういらない。
雷は止んでいる。
でも、さっきまでの温度が残っている。
それを認めるのが悔しくて、恥ずかしい。
「……今は、いりません」
理久は、いつものように深追いしなかった。
「分かった」
その“分かった”が、少しだけ優しい。
美月はクッションに顔を半分隠す。
理久は、少し乱れた髪をかき上げながら、ようやく自分の状況に気づいたように笑った。
「俺、着替えてない」
「……そうですね」
「寝落ちした」
「私もです」
「お互い様?」
「同じにしないでください」
「厳しいな」
少しだけ、いつもの空気に戻る。
でも、完全には戻らない。
理久の顔が近かったこと。
手を握られたこと。
自分から頬に触れたこと。
「綺麗」と言ってしまったこと。
全部、なかったことにはできない。
美月は心の中で思った。
これは、雷のせい。
寝ぼけていたせい。
非常事態だったせい。
でも、どれだけ理由を並べても、指先にはまだ理久の頬の感触が残っていた。
それが一番、まずかった。
美月は、クッションを抱えたまま小さな声で言った。
「あ、ありがとうございました。お、おやすみなさい」
いつもの美月なら、もっと整った言い方をする。
失礼します。
もう大丈夫です。
本日はありがとうございました。
そうやって、きれいに距離を置く。
でも今の言葉は、全然整っていなかった。
美月はほとんど逃げるように立ち上がり、視線も合わせないままゲストルームへ戻っていった。
ドアが閉まる。
リビングに、静けさが戻った。
* * *
理久はしばらく動けなかった。
テレビの音だけが、やけに遠くに聞こえる。
さっきまで美月がいたソファの端。
まだ少しだけ沈んだクッション。
繋いでいた手の感触。
全部が残っている。
「……これは」
思わず、息が漏れた。
やばい。
非常にやばい。
反則だろ。
雷が怖くて、手を預けてきた時点で十分危なかった。
そのまま眠って、もたれかかってきた時も、かなり危なかった。
でも、今のは違う。
起きた後の、あの顔。
逃げようとして崩れた体勢。
真っ赤になって、言葉が整わないまま部屋へ戻っていく背中。
それを見て、何も思わない方がおかしい。
理久は片手で髪をかき上げた。
「……まずいな」
声に出すと、余計に現実味が増した。
ここは彼女の避難先だ。
彼女は困って、理久の家に来ている。
それを忘れたら終わりだ。
分かっている。
分かっているのに、今夜の美月は、あまりにも近かった。
理久は、さっきまで繋いでいた手を見た。
まだ、彼女の手の冷たさと温度が残っている気がした。
しばらくして、理久はようやく立ち上がった。
テレビを消す。
テーブルの上のマグカップを片づける。
リビングの照明を少し落とす。
いつもの動作をひとつずつしているのに、頭の中はまったく整わなかった。
シャワーを浴びて、自分の部屋へ戻る。
ベッドに入っても、すぐには眠れなかった。
手の温度が、まだ残っている。
膝の上に落ちてきた重さも。
頬に触れた指先も。
綺麗、と漏れた声も。
全部、忘れた方がいい。
明日には、何もなかった顔をしなければならない。
そう分かっているのに。
理久は、目を閉じてから、もう一度だけ小さく息を吐いた。
本当に、まずい。
* * *
ゲストルームのドアを閉めた瞬間、美月はそのまま背中を預けた。
心臓がうるさい。
何をしているの、私。
ベッドまで歩いて、布団に潜り込む。
顔まで隠しても、全然落ち着かなかった。
綺麗って言った。
声に出した。
しかも、触った。
頬に。
ありえない。
本当に、ありえない。
先生は寝ていた。
たぶん、聞こえていない。
でも、起きた時のあの目。
少し低い声。
自分が膝の上にいると分かった時の、一瞬の沈黙。
聞こえていたのかもしれない。
そう思った瞬間、美月は布団の中で小さく呻いた。
雷が怖かったから。
だから、手を借りたのは仕方ない。
でも、頬に触れたのは雷のせいではない。
「綺麗」と言ってしまったのも、雷のせいではない。
美月は、さっきまで繋いでいた手を握りしめた。
先生の寝顔。
触れた頬の感触。
手の温度。
全部が、目を閉じても浮かんでくる。
明日から、どうしよう。
それだけが、何度も頭の中で繰り返された。