光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第22話 何もなかった顔
翌朝。
美月は、あまり眠れなかった。
目を閉じても、昨夜のことが何度も頭の中で繰り返される。
雷。
繋いだ手。
先生の寝顔。
頬に触れた指先。
「綺麗」と漏れてしまった声。
そして、膝の上に倒れ込んでしまった瞬間。
何度思い出しても、顔が熱くなる。
それでも、出勤しなければならない。
日勤。
いつも通り。
何もなかった顔で。
美月はベッドから起き上がり、髪を整えた。
鏡を見る。
少し寝不足の顔をしている。
けれど、病棟に立てないほどではない。
大丈夫。
仕事に入れば、いつもの自分に戻れる。
そう言い聞かせて、ゲストルームを出た。
洗面所へ向かい、ノブに手をかける。
けれど、回らなかった。
鍵がかかっている。
そうだった。
洗面所を使う時は、鍵をかける。
最初に決めたルールだ。
美月が一歩下がろうとした時、中から水音が止まった。
「綾瀬さん?」
理久の声だった。
美月の心臓が、跳ねる。
「すみません。使っているとは思わなくて」
少し間があって、理久が言った。
「待ってて」
すぐに、鍵の外れる音がした。
扉が開く。
理久がいた。
白いシャツに、黒のスラックス。
すでに仕事へ行く準備はほとんど整っているようで、昨夜のままの少し乱れた髪ではなく、いつものようにきちんと整えられていた。
洗顔を終えたところらしく、手には白いタオルを持っている。
美月の心臓が、また一つ跳ねた。
昨日の寝顔とは違う。
でも、近い。
同じ家の洗面所。
朝。
しかも自分はまだ、完全に気持ちを立て直せていない。
「おはよう。使う?」
その声は柔らかい。
けれど、どこか整いすぎていた。
「……おはようございます。使います」
「どうぞ。俺、もう終わったから」
理久は自然に場所を空けた。
距離も近づきすぎない。
視線も必要以上に向けない。
昨夜のことには触れない。
手を繋いでいたことにも。
膝の上に倒れ込んだことにも。
頬に触れてしまったことにも。
「綺麗」と言ってしまったことにも。
まるで、本当に何もなかったみたいに。
美月は洗面台の前に立った。
鏡越しに、理久が少し後ろを通るのが見える。
その顔は、病棟で見る藤崎先生の顔だった。
誰にでも優しく、感じがよく、隙がない。
完璧な距離感。
上品な笑顔。
踏み込ませない空気。
美月の胸が、ちくりと痛んだ。
あれ。
自分でも驚く。
なぜ痛いのか分からない。
昨日、あれだけ近かった。
あれだけ自然な顔を見た。
少し寝ぼけた声も、困ったような表情も、動揺した一瞬も見た。
なのに今朝の理久は、全部しまい込んでいる。
いつもの藤崎先生に戻っている。
それはきっと、正しい。
ここは彼の家だけれど、自分は避難しているだけ。
彼が距離を取るのは当然だ。
変に昨夜のことを持ち出さないのも、大人として正しい。
正しい。
正しいのに。
どうして、こんなにざわざわするんだろう。
身支度を終えて、美月はリビングへ向かった。
テーブルの上には、水のペットボトルと、簡単に食べられるものが置かれていた。
その横に、小さなメモがある。
『無理しないで』
それだけ。
美月はしばらく、その文字を見つめた。
昨夜のことは何も言わない。
でも、必要なことだけは置いてある。
踏み込まない。
でも、完全には放っておかない。
この距離が、ずるい。
美月はペットボトルをバッグに入れた。
理久はリビングでコーヒーを飲んでいた。
仕事に出る準備は、もうほとんど整っている。
「鍵、持った?」
「はい」
「何か困ったら連絡して」
「ありがとうございます」
「今日は日勤だよね」
「はい」
短い会話。
それだけ。
昨夜のことなど、一切なかったように。
美月は玄関へ向かった。
靴を履き、バッグを肩にかける。
ドアノブに手をかけた時、理久の声がした。
「いってらっしゃい」
美月の動きが止まる。
いってらっしゃい。
その言葉が、あまりにも自然に耳に入ってきた。
ここは自分の家ではない。
帰ってくる場所でもない。
そう言ってもらう立場でもない。
それなのに。
「……行ってきます」
言ってから、自分で驚いた。
行ってきます。
自然に出てしまった。
理久は少しだけ目を細めた。
けれど、何も言わない。
からかわない。
指摘しない。
笑いすぎもしない。
ただ、いつもの穏やかな顔で、
「うん」
とだけ言った。
美月は玄関を出た。
廊下を歩き、エレベーターに乗る。
胸の奥が、まだざわざわしている。
昨夜のことをからかわれたかったわけではない。
むしろ、触れられたら困る。
けれど、完全に何もなかったようにされると、今度は苦しい。
自分だけが意識しているみたいで。
自分だけが昨夜のことを大事に抱えているみたいで。
美月はエレベーターの鏡に映る自分を見た。
少し疲れた顔。
でも、昨日までとは違う顔。
私、何を期待していたんだろう。
先生の自然な顔。
寝起きの声。
困ったような表情。
手の温度。
もう一度、見たいと思ってしまった。
その他大勢に向ける仮面ではない顔を。
自分だけが知っていると思ってしまった顔を。
美月は小さく息を吐いた。
警戒ではない。
でも、安心とも少し違う。
名前をつけたくない感情が、胸の奥で形になりかけていた。
まずい。
本当に、まずい。
* * *
病院に着く頃には、美月はいつもの顔に戻っていた。
少なくとも、そう見えるようにはできていた。
申し送り。
バイタル確認。
点滴。
検査出し。
記録。
患者対応。
やるべきことはいくらでもある。
忙しさはありがたかった。
考えなくて済むから。
藤崎先生の顔。
手の温度。
今朝の「いってらっしゃい」。
全部を、仕事の中へ押し込められる。
そう思っていた。
昼前。
検査出しを終え、後輩と一緒に外来棟へつながる連絡通路を歩いていた時だった。
前方から、外科医たちが数人歩いてくる。
白衣。
名札。
手に持った資料。
低い声で交わされる仕事の話。
その中に、藤崎先生がいた。
美月の足が、一瞬だけ止まりそうになる。
止まらない。
今は勤務中。
病院の中。
藤崎先生と綾瀬さん。
それだけ。
理久は同僚の医師と何かを話しながら歩いていた。
美月に気づいていない、はずがない。
すれ違う直前、ほんの一瞬だけ視線が合った。
けれど、理久は何も変えなかった。
表情も。
歩く速度も。
声の調子も。
視線の戻し方も。
他のスタッフとすれ違う時と同じように、外科医として、ほんのわずかに頭を下げる。
美月も、同じように頭を下げた。
言葉は交わさない。
そのまま、すれ違う。
振り返らない。
呼び止めない。
目で追わない。
気づいていた。
たぶん、確実に。
それでも、何もない。
何も起きていない。
完璧だった。
本当に、完璧だった。
誰にも気づかれない。
昨日の夜、同じソファで手を繋いでいたことも。
寝顔を見てしまったことも。
頬に触れたことも。
今朝、同じ家から出勤してきたことも。
何ひとつ、表には出ない。
それでいい。
そういう約束だった。
病院では、余計な顔をしない。
職場では、今まで通り。
そうしてほしいと思っていた。
見ないでほしい。
話しかけないでほしい。
気づかないでほしい。
ずっと、そう思っていた。
それなのに。
隣を歩いていた後輩が、小さく言った。
「藤崎先生、今日も爽やかですね」
美月は少し遅れて返事をした。
「……そうだね」
「でも、綾瀬さんって藤崎先生にも普通ですよね。私、ちょっと緊張します」
「普通だよ。先生だから」
そう言った声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
後輩は笑った。
「綾瀬さんらしいです」
美月も小さく笑う。
そう。
これでいい。
自分は綾瀬さんらしく、普通にしていればいい。
藤崎先生にも、他の医師にも、同じように。
それで、いいはずなのに。
胸の奥が、まだ落ち着かない。
気づいていなかったわけではない。
気づいていた。
それなのに、何も変えなかった。
それはきっと、理久なりの線引きだった。
美月が困らないように。
誰にも気づかれないように。
分かっている。
分かっているのに。
本当に、何もなかったみたい。
そう思った瞬間、胸が少しだけ苦しくなった。
午後の業務に戻ってからも、美月はいつも通りに動いた。
指示を確認し、記録を書き、患者の訴えを聞く。
誰も何も気づかない。
当たり前だ。
気づかれるようなことは、何もしていない。
なのに、ナースステーションで電子カルテを打っている時、ふと自分の手元を見てしまった。
昨夜、繋いでいた手。
雷が怖くて借りた手。
そして、今朝にはもう離れていた手。
美月は指先を軽く握った。
見ないでほしい。
話しかけないでほしい。
気づかないでほしい。
そう思っていたはずだった。
なのに、今は。
気づいているのに何も変わらなかったことに、少しだけ傷ついている。
何もなかった顔をしてくれる人だから、安心できる。
なのに。
何もなかったことにされるのが、こんなに苦しいなんて。
美月は、自分の変化に気づいてしまった。
まずい。
本当に、まずい。
勤務中。
便利な言葉を、心の中で呟く。
けれど今日は、その言葉だけでは、胸のざわつきまでは押し込められなかった。
美月は、あまり眠れなかった。
目を閉じても、昨夜のことが何度も頭の中で繰り返される。
雷。
繋いだ手。
先生の寝顔。
頬に触れた指先。
「綺麗」と漏れてしまった声。
そして、膝の上に倒れ込んでしまった瞬間。
何度思い出しても、顔が熱くなる。
それでも、出勤しなければならない。
日勤。
いつも通り。
何もなかった顔で。
美月はベッドから起き上がり、髪を整えた。
鏡を見る。
少し寝不足の顔をしている。
けれど、病棟に立てないほどではない。
大丈夫。
仕事に入れば、いつもの自分に戻れる。
そう言い聞かせて、ゲストルームを出た。
洗面所へ向かい、ノブに手をかける。
けれど、回らなかった。
鍵がかかっている。
そうだった。
洗面所を使う時は、鍵をかける。
最初に決めたルールだ。
美月が一歩下がろうとした時、中から水音が止まった。
「綾瀬さん?」
理久の声だった。
美月の心臓が、跳ねる。
「すみません。使っているとは思わなくて」
少し間があって、理久が言った。
「待ってて」
すぐに、鍵の外れる音がした。
扉が開く。
理久がいた。
白いシャツに、黒のスラックス。
すでに仕事へ行く準備はほとんど整っているようで、昨夜のままの少し乱れた髪ではなく、いつものようにきちんと整えられていた。
洗顔を終えたところらしく、手には白いタオルを持っている。
美月の心臓が、また一つ跳ねた。
昨日の寝顔とは違う。
でも、近い。
同じ家の洗面所。
朝。
しかも自分はまだ、完全に気持ちを立て直せていない。
「おはよう。使う?」
その声は柔らかい。
けれど、どこか整いすぎていた。
「……おはようございます。使います」
「どうぞ。俺、もう終わったから」
理久は自然に場所を空けた。
距離も近づきすぎない。
視線も必要以上に向けない。
昨夜のことには触れない。
手を繋いでいたことにも。
膝の上に倒れ込んだことにも。
頬に触れてしまったことにも。
「綺麗」と言ってしまったことにも。
まるで、本当に何もなかったみたいに。
美月は洗面台の前に立った。
鏡越しに、理久が少し後ろを通るのが見える。
その顔は、病棟で見る藤崎先生の顔だった。
誰にでも優しく、感じがよく、隙がない。
完璧な距離感。
上品な笑顔。
踏み込ませない空気。
美月の胸が、ちくりと痛んだ。
あれ。
自分でも驚く。
なぜ痛いのか分からない。
昨日、あれだけ近かった。
あれだけ自然な顔を見た。
少し寝ぼけた声も、困ったような表情も、動揺した一瞬も見た。
なのに今朝の理久は、全部しまい込んでいる。
いつもの藤崎先生に戻っている。
それはきっと、正しい。
ここは彼の家だけれど、自分は避難しているだけ。
彼が距離を取るのは当然だ。
変に昨夜のことを持ち出さないのも、大人として正しい。
正しい。
正しいのに。
どうして、こんなにざわざわするんだろう。
身支度を終えて、美月はリビングへ向かった。
テーブルの上には、水のペットボトルと、簡単に食べられるものが置かれていた。
その横に、小さなメモがある。
『無理しないで』
それだけ。
美月はしばらく、その文字を見つめた。
昨夜のことは何も言わない。
でも、必要なことだけは置いてある。
踏み込まない。
でも、完全には放っておかない。
この距離が、ずるい。
美月はペットボトルをバッグに入れた。
理久はリビングでコーヒーを飲んでいた。
仕事に出る準備は、もうほとんど整っている。
「鍵、持った?」
「はい」
「何か困ったら連絡して」
「ありがとうございます」
「今日は日勤だよね」
「はい」
短い会話。
それだけ。
昨夜のことなど、一切なかったように。
美月は玄関へ向かった。
靴を履き、バッグを肩にかける。
ドアノブに手をかけた時、理久の声がした。
「いってらっしゃい」
美月の動きが止まる。
いってらっしゃい。
その言葉が、あまりにも自然に耳に入ってきた。
ここは自分の家ではない。
帰ってくる場所でもない。
そう言ってもらう立場でもない。
それなのに。
「……行ってきます」
言ってから、自分で驚いた。
行ってきます。
自然に出てしまった。
理久は少しだけ目を細めた。
けれど、何も言わない。
からかわない。
指摘しない。
笑いすぎもしない。
ただ、いつもの穏やかな顔で、
「うん」
とだけ言った。
美月は玄関を出た。
廊下を歩き、エレベーターに乗る。
胸の奥が、まだざわざわしている。
昨夜のことをからかわれたかったわけではない。
むしろ、触れられたら困る。
けれど、完全に何もなかったようにされると、今度は苦しい。
自分だけが意識しているみたいで。
自分だけが昨夜のことを大事に抱えているみたいで。
美月はエレベーターの鏡に映る自分を見た。
少し疲れた顔。
でも、昨日までとは違う顔。
私、何を期待していたんだろう。
先生の自然な顔。
寝起きの声。
困ったような表情。
手の温度。
もう一度、見たいと思ってしまった。
その他大勢に向ける仮面ではない顔を。
自分だけが知っていると思ってしまった顔を。
美月は小さく息を吐いた。
警戒ではない。
でも、安心とも少し違う。
名前をつけたくない感情が、胸の奥で形になりかけていた。
まずい。
本当に、まずい。
* * *
病院に着く頃には、美月はいつもの顔に戻っていた。
少なくとも、そう見えるようにはできていた。
申し送り。
バイタル確認。
点滴。
検査出し。
記録。
患者対応。
やるべきことはいくらでもある。
忙しさはありがたかった。
考えなくて済むから。
藤崎先生の顔。
手の温度。
今朝の「いってらっしゃい」。
全部を、仕事の中へ押し込められる。
そう思っていた。
昼前。
検査出しを終え、後輩と一緒に外来棟へつながる連絡通路を歩いていた時だった。
前方から、外科医たちが数人歩いてくる。
白衣。
名札。
手に持った資料。
低い声で交わされる仕事の話。
その中に、藤崎先生がいた。
美月の足が、一瞬だけ止まりそうになる。
止まらない。
今は勤務中。
病院の中。
藤崎先生と綾瀬さん。
それだけ。
理久は同僚の医師と何かを話しながら歩いていた。
美月に気づいていない、はずがない。
すれ違う直前、ほんの一瞬だけ視線が合った。
けれど、理久は何も変えなかった。
表情も。
歩く速度も。
声の調子も。
視線の戻し方も。
他のスタッフとすれ違う時と同じように、外科医として、ほんのわずかに頭を下げる。
美月も、同じように頭を下げた。
言葉は交わさない。
そのまま、すれ違う。
振り返らない。
呼び止めない。
目で追わない。
気づいていた。
たぶん、確実に。
それでも、何もない。
何も起きていない。
完璧だった。
本当に、完璧だった。
誰にも気づかれない。
昨日の夜、同じソファで手を繋いでいたことも。
寝顔を見てしまったことも。
頬に触れたことも。
今朝、同じ家から出勤してきたことも。
何ひとつ、表には出ない。
それでいい。
そういう約束だった。
病院では、余計な顔をしない。
職場では、今まで通り。
そうしてほしいと思っていた。
見ないでほしい。
話しかけないでほしい。
気づかないでほしい。
ずっと、そう思っていた。
それなのに。
隣を歩いていた後輩が、小さく言った。
「藤崎先生、今日も爽やかですね」
美月は少し遅れて返事をした。
「……そうだね」
「でも、綾瀬さんって藤崎先生にも普通ですよね。私、ちょっと緊張します」
「普通だよ。先生だから」
そう言った声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
後輩は笑った。
「綾瀬さんらしいです」
美月も小さく笑う。
そう。
これでいい。
自分は綾瀬さんらしく、普通にしていればいい。
藤崎先生にも、他の医師にも、同じように。
それで、いいはずなのに。
胸の奥が、まだ落ち着かない。
気づいていなかったわけではない。
気づいていた。
それなのに、何も変えなかった。
それはきっと、理久なりの線引きだった。
美月が困らないように。
誰にも気づかれないように。
分かっている。
分かっているのに。
本当に、何もなかったみたい。
そう思った瞬間、胸が少しだけ苦しくなった。
午後の業務に戻ってからも、美月はいつも通りに動いた。
指示を確認し、記録を書き、患者の訴えを聞く。
誰も何も気づかない。
当たり前だ。
気づかれるようなことは、何もしていない。
なのに、ナースステーションで電子カルテを打っている時、ふと自分の手元を見てしまった。
昨夜、繋いでいた手。
雷が怖くて借りた手。
そして、今朝にはもう離れていた手。
美月は指先を軽く握った。
見ないでほしい。
話しかけないでほしい。
気づかないでほしい。
そう思っていたはずだった。
なのに、今は。
気づいているのに何も変わらなかったことに、少しだけ傷ついている。
何もなかった顔をしてくれる人だから、安心できる。
なのに。
何もなかったことにされるのが、こんなに苦しいなんて。
美月は、自分の変化に気づいてしまった。
まずい。
本当に、まずい。
勤務中。
便利な言葉を、心の中で呟く。
けれど今日は、その言葉だけでは、胸のざわつきまでは押し込められなかった。