光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第43話 約束の形
ホテルを出ると、夕方の空はさらに深くなっていた。
街には、少しずつ夜の灯りが増えている。
タクシーの窓の外を流れていく景色を、美月はぼんやりと見つめていた。
さっきまで、あの部屋にいた。
理久に名前を呼ばれて。
結婚してください、と言われて。
自分の声で、はいと答えた。
たった二文字なのに、まだ胸の奥で震えている。
隣には理久がいた。
いつもと同じように静かに座っている。
けれど、もう何も変わっていないわけではなかった。
「大丈夫?」
理久が静かに聞いた。
美月は、少し遅れて顔を上げた。
「……大丈夫、ではないかもしれません」
「うん」
理久は、それ以上聞かなかった。
その沈黙が、今はありがたかった。
現実感はまだ遠い。
それでも、理久の隣にいると、浮き上がりそうな心が少しずつ戻ってくる。
タクシーが停まったのは、名の知れたハイジュエラーだった。
美月は店の前で足を止めた。
磨かれたガラス。
静かな光。
中に見えるショーケース。
そこだけ、街の喧騒から切り離されたように明るい。
美月は思わず、理久を見た。
「……指輪に負けそうです」
口にしてから、自分でも情けない声だと思った。
けれど本音だった。
理久は、美月を見て、王子みたいに微笑んだ。
外ではもう、夕方の光が薄れている。
その中で、理久の表情だけが妙に落ち着いて見えた。
「負ける人を、ここへ連れてきたつもりはないよ」
美月は眉を寄せた。
「それは、指輪の価値に値する女性ってことですか?」
「違う」
理久は少し笑った。
「美月に似合う形を探しに来たってこと」
美月は言葉に詰まった。
そういう言い方を、理久は本当に自然にする。
「……さらっと言いますね」
「本音だから」
美月は視線を逸らした。
心臓に悪い。
けれど、さっきより少しだけ息がしやすくなった。
理久は、店の扉へ視線を向けた。
「でも、もし負けそうだと思うなら」
「はい」
「これから、負けないくらいの未来にすればいい」
美月は目を瞬いた。
「未来込みですか」
「うん」
理久は、いつもの余裕を少しだけ戻して微笑んだ。
「だから、かなり奮発しないとね」
「理久」
思わず声が出た。
からかわれた。
けれど、嫌なからかい方ではなかった。
緊張で固まっていた胸が、少しだけほどける。
理久は、笑みを残したまま店の扉へ向かった。
「行こうか」
美月は小さく息を吸って、理久の隣に並んだ。
店内に入ると、すぐにスタッフが近づいてきた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
また予約。
もう驚くべきではないのかもしれない。
それでも、美月は小さく息を詰めた。
担当者が丁寧に挨拶し、奥へ案内してくれる。
店内は、外から見るよりずっと静かだった。
光は明るいのに、騒がしくない。
ショーケースの中で、リングが小さな光を返している。
憧れのエンゲージリングの一角は、目が眩むほどまぶしい光に包まれていた。
美月は、それをまともに見られなかった。
理久が担当者と話している。
石の大きさ。
デザイン。
アームの細さ。
爪の形。
日常的につけるかどうか。
担当者は丁寧に確認しているようだった。
けれど、美月の耳には、うまく入ってこなかった。
緊張しているからなのか。
現実感が追いつかないからなのか。
美月は、ただ並んだ指輪の光を見ていた。
小さな札に記された数字が目に入った瞬間、ますます気が遠くなりそうになった。
指輪。
約束の形。
理久の覚悟。
そのどれもが、美月にはまだ大きすぎた。
「美月」
呼ばれて、顔を上げる。
理久がこちらを見ていた。
「緊張してる?」
「も、もちろんです」
即答してしまった。
理久は少し笑った。
「俺も」
美月は目を瞬いた。
「理久が?」
そんな素振りは、少しも見えなかった。
理久はいつも通り落ち着いていて、担当者との会話も自然で、こういう場に慣れている人のように見える。
けれど理久は、並んだリングへ視線を落とした。
「俺と一緒に人生を歩いてくれる人への、約束の形だよ」
その声は、静かだった。
「俺の覚悟を見せるのに、緊張しないわけないでしょ」
美月は、何も言えなくなった。
理久は、ただ高価な指輪を買いに来たのではない。
自分の覚悟を、形にしに来たのだ。
そして美月は、その形に、これから自分も向き合っていく。
指輪の値段に自分を合わせるのではない。
理久の本気から逃げずに、この約束を選び続ける。
指輪を選ぶということは、たぶん、そういうことなのだと思った。
担当者が、いくつか候補を用意してくれた。
案内されたのは、さらに奥の個室だった。
柔らかい照明の下、白いトレーにリングが並べられる。
美月は椅子に座った。
膝の上で手を重ねる。
自分の手が、少し震えているのが分かった。
理久は向かいではなく、斜め横に座った。
近すぎない。
でも、すぐそばにいる。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
最初のリングは、繊細で美しかった。
薬指に通された瞬間、白い光が指の上で小さく揺れる。
「……綺麗ですね」
思わず呟いた。
本当に綺麗だった。
けれど、どこか自分の手だけが置いていかれているような気がした。
二つ目は、少し華やかだった。
角度を変えるたびに光が強く返る。
確かに美しい。
けれど、少しだけ指輪の方が先に行ってしまう感じがした。
三つ目。
担当者が、細身のリングを美月の指に通した。
一粒のダイヤが、静かに光った。
派手ではない。
けれど、弱くもない。
主張しすぎず、でも確かにそこにある。
美月は、指先を少し動かした。
光が控えめに揺れる。
その瞬間、胸の奥がふっと静かになった。
不思議なくらい、違和感がなかった。
指輪が自分を変えるのではなく、自分の中にあるものを少しだけ照らしてくれるような気がした。
美月は、目を離せなくなった。
理久が、その横顔を見ていた。
「美月」
呼ばれて、顔を上げる。
「それがいい?」
美月はすぐには答えられなかった。
けれど、視線はまだ、その小さな光から離れなかった。
「……はい」
小さく答えると、理久は静かに頷いた。
少しだけ、嬉しそうに見えた。
「俺も、それだと思った」
美月は息を止めた。
「……理久も?」
「うん」
理久は、美月の左手を見た。
「最初に見た時から、たぶんこれだと思ってた」
美月は指輪を見る。
自分が目を離せなくなった光を、理久も同じように見ていた。
それが、どうしてこんなに胸を熱くするのか分からなかった。
指輪を選んだというより、二人で同じ光を見つけたような気がした。
担当者が穏やかに微笑んだ。
「とてもお似合いです」
美月は、少しだけ頬が熱くなった。
理久が担当者に向き直る。
「こちらにします」
その声は、迷いがなかった。
けれど、美月の答えを聞く前に決めた声ではなかった。
美月が選んだものを、理久が受け取った声だった。
担当者が丁寧に頷く。
「ありがとうございます。サイズはこのままでよろしいかと思います。刻印につきましては、後日お預かりする形でも承れます」
理久は少し考えた。
そして、美月を見た。
「刻印は、後日にしよう」
「……はい」
「そこも、一緒に考えたい」
美月は、胸の奥がまた少し熱くなるのを感じた。
指輪だけではない。
刻む言葉まで、これから二人で考える。
約束は、ひとつずつ形になっていくのだと思った。
担当者が一度席を外す。
個室に、静かな時間が流れた。
美月は左手を見下ろした。
まだ試着用のリングがそこにある。
正式に自分のものになったわけではない。
けれど、その光はもう、さっきまでとは違って見えた。
「……重いですね」
思わず言うと、理久が美月を見た。
「うん」
「でも」
美月は指輪を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「外したい重さではないです」
理久は少しだけ目を細めた。
「美月らしいね」
「褒めてますか」
「かなり」
理久が静かに笑った。
美月も、ほんの少し笑った。
プロポーズの時には泣きそうだったのに、今は少しだけ笑えている。
それが不思議だった。
でも、たぶん、これでいいのだと思った。
大きな約束をしたからといって、急に強くなれるわけではない。
怖さが消えるわけでもない。
それでも、理久とこうして並んでいれば、怖いままでも少しずつ進める気がした。
* * *
指輪の手続きを終え、店を出た時には、街はほとんど夜になっていた。
美月の手には、小さな箱が入った紙袋があった。
理久が持とうとしたけれど、美月は首を振った。
「自分で持ちます」
理久は少しだけ驚いた顔をした。
それから、柔らかく頷いた。
「うん」
紙袋は軽い。
けれど、軽くはなかった。
ホテルへ戻るタクシーの中で、美月は紙袋を膝の上に置いていた。
理久は何も言わない。
けれど、隣にいる気配が静かに伝わってくる。
窓の外に、夜の東京が流れていく。
さっきサロンから見た景色とは違う。
同じ街なのに、もう違って見えた。
ホテルに戻ると、スタッフは自然に二人を迎えた。
エレベーターで上層階へ上がる。
先ほどのプライベートサロンに戻ると、部屋の印象は変わっていた。
夕方の光は消え、窓の外には東京の夜景が広がっている。
東京タワーは、先ほどよりもはっきりと赤く灯っていた。
テーブルには、食事の支度が整えられていた。
美月は窓の前で足を止めた。
さっきここで、理久にプロポーズされた。
その時と同じ部屋なのに、もう同じ場所ではないように見えた。
美月は、紙袋をそっと胸に抱いた。
理久が隣に立つ。
「疲れた?」
「疲れた、というより」
美月は少し考えた。
「現実感がありません」
理久が小さく笑う。
「俺も、少し」
「理久も?」
「うん」
理久は窓の外を見た。
「考えてきた時間の方が長かったから。今日が本当に来た感じが、まだ少ししない」
美月は、その横顔を見た。
完璧に整えていた人が、今だけ少し遠くを見る。
それだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
食事の時間は、ゆっくりと過ぎていった。
理久は、美月のグラスが空きそうになると自然に気づき、食べる速度を合わせた。
何か特別な言葉を重ねるわけではない。
ただ、張りつめていた時間が、少しずつほどけていく。
食事の終わりに、理久が紙袋を見た。
「開けてみる?」
美月は少し迷った。
そして頷いた。
箱を取り出す。
濃い色の小さな箱。
指先が震える。
理久は急かさなかった。
美月はゆっくり箱を開けた。
中で、小さな光が静かに待っていた。
さっき自分の指に通した時と同じ光。
派手ではない。
けれど、確かにそこにある。
美月は、その光を見つめた。
理久が、箱の中の指輪にそっと触れた。
けれど、すぐには取り出さなかった。
「つけてもいい?」
その一言で、胸の奥がまた静かに揺れた。
美月は、指輪を見た。
それから、理久を見た。
「……はい」
理久が箱から指輪を取り出す。
美月は左手を差し出した。
薬指に、ひんやりとした感触が触れる。
ゆっくりと、指輪が通された。
光が、指の上に収まる。
美月は、息を止めてそれを見た。
さっきよりも少しだけ、その重さを知っている気がした。
理久が、美月の左手にそっと触れた。
強く握らない。
ただ、そこにある光を確かめるように。
「一緒に考えよう」
理久が言った。
美月は、指輪を見つめたまま頷いた。
「はい」
窓の向こうで、東京タワーの赤い光が夜の中に滲んでいた。
指輪の光は小さい。
けれど、確かにそこにある。
父の名前から逃げてきた自分が、初めて自分の手で選んだ約束。
それが美月の左手に、静かに残っていた。
街には、少しずつ夜の灯りが増えている。
タクシーの窓の外を流れていく景色を、美月はぼんやりと見つめていた。
さっきまで、あの部屋にいた。
理久に名前を呼ばれて。
結婚してください、と言われて。
自分の声で、はいと答えた。
たった二文字なのに、まだ胸の奥で震えている。
隣には理久がいた。
いつもと同じように静かに座っている。
けれど、もう何も変わっていないわけではなかった。
「大丈夫?」
理久が静かに聞いた。
美月は、少し遅れて顔を上げた。
「……大丈夫、ではないかもしれません」
「うん」
理久は、それ以上聞かなかった。
その沈黙が、今はありがたかった。
現実感はまだ遠い。
それでも、理久の隣にいると、浮き上がりそうな心が少しずつ戻ってくる。
タクシーが停まったのは、名の知れたハイジュエラーだった。
美月は店の前で足を止めた。
磨かれたガラス。
静かな光。
中に見えるショーケース。
そこだけ、街の喧騒から切り離されたように明るい。
美月は思わず、理久を見た。
「……指輪に負けそうです」
口にしてから、自分でも情けない声だと思った。
けれど本音だった。
理久は、美月を見て、王子みたいに微笑んだ。
外ではもう、夕方の光が薄れている。
その中で、理久の表情だけが妙に落ち着いて見えた。
「負ける人を、ここへ連れてきたつもりはないよ」
美月は眉を寄せた。
「それは、指輪の価値に値する女性ってことですか?」
「違う」
理久は少し笑った。
「美月に似合う形を探しに来たってこと」
美月は言葉に詰まった。
そういう言い方を、理久は本当に自然にする。
「……さらっと言いますね」
「本音だから」
美月は視線を逸らした。
心臓に悪い。
けれど、さっきより少しだけ息がしやすくなった。
理久は、店の扉へ視線を向けた。
「でも、もし負けそうだと思うなら」
「はい」
「これから、負けないくらいの未来にすればいい」
美月は目を瞬いた。
「未来込みですか」
「うん」
理久は、いつもの余裕を少しだけ戻して微笑んだ。
「だから、かなり奮発しないとね」
「理久」
思わず声が出た。
からかわれた。
けれど、嫌なからかい方ではなかった。
緊張で固まっていた胸が、少しだけほどける。
理久は、笑みを残したまま店の扉へ向かった。
「行こうか」
美月は小さく息を吸って、理久の隣に並んだ。
店内に入ると、すぐにスタッフが近づいてきた。
「藤崎様、お待ちしておりました」
また予約。
もう驚くべきではないのかもしれない。
それでも、美月は小さく息を詰めた。
担当者が丁寧に挨拶し、奥へ案内してくれる。
店内は、外から見るよりずっと静かだった。
光は明るいのに、騒がしくない。
ショーケースの中で、リングが小さな光を返している。
憧れのエンゲージリングの一角は、目が眩むほどまぶしい光に包まれていた。
美月は、それをまともに見られなかった。
理久が担当者と話している。
石の大きさ。
デザイン。
アームの細さ。
爪の形。
日常的につけるかどうか。
担当者は丁寧に確認しているようだった。
けれど、美月の耳には、うまく入ってこなかった。
緊張しているからなのか。
現実感が追いつかないからなのか。
美月は、ただ並んだ指輪の光を見ていた。
小さな札に記された数字が目に入った瞬間、ますます気が遠くなりそうになった。
指輪。
約束の形。
理久の覚悟。
そのどれもが、美月にはまだ大きすぎた。
「美月」
呼ばれて、顔を上げる。
理久がこちらを見ていた。
「緊張してる?」
「も、もちろんです」
即答してしまった。
理久は少し笑った。
「俺も」
美月は目を瞬いた。
「理久が?」
そんな素振りは、少しも見えなかった。
理久はいつも通り落ち着いていて、担当者との会話も自然で、こういう場に慣れている人のように見える。
けれど理久は、並んだリングへ視線を落とした。
「俺と一緒に人生を歩いてくれる人への、約束の形だよ」
その声は、静かだった。
「俺の覚悟を見せるのに、緊張しないわけないでしょ」
美月は、何も言えなくなった。
理久は、ただ高価な指輪を買いに来たのではない。
自分の覚悟を、形にしに来たのだ。
そして美月は、その形に、これから自分も向き合っていく。
指輪の値段に自分を合わせるのではない。
理久の本気から逃げずに、この約束を選び続ける。
指輪を選ぶということは、たぶん、そういうことなのだと思った。
担当者が、いくつか候補を用意してくれた。
案内されたのは、さらに奥の個室だった。
柔らかい照明の下、白いトレーにリングが並べられる。
美月は椅子に座った。
膝の上で手を重ねる。
自分の手が、少し震えているのが分かった。
理久は向かいではなく、斜め横に座った。
近すぎない。
でも、すぐそばにいる。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
最初のリングは、繊細で美しかった。
薬指に通された瞬間、白い光が指の上で小さく揺れる。
「……綺麗ですね」
思わず呟いた。
本当に綺麗だった。
けれど、どこか自分の手だけが置いていかれているような気がした。
二つ目は、少し華やかだった。
角度を変えるたびに光が強く返る。
確かに美しい。
けれど、少しだけ指輪の方が先に行ってしまう感じがした。
三つ目。
担当者が、細身のリングを美月の指に通した。
一粒のダイヤが、静かに光った。
派手ではない。
けれど、弱くもない。
主張しすぎず、でも確かにそこにある。
美月は、指先を少し動かした。
光が控えめに揺れる。
その瞬間、胸の奥がふっと静かになった。
不思議なくらい、違和感がなかった。
指輪が自分を変えるのではなく、自分の中にあるものを少しだけ照らしてくれるような気がした。
美月は、目を離せなくなった。
理久が、その横顔を見ていた。
「美月」
呼ばれて、顔を上げる。
「それがいい?」
美月はすぐには答えられなかった。
けれど、視線はまだ、その小さな光から離れなかった。
「……はい」
小さく答えると、理久は静かに頷いた。
少しだけ、嬉しそうに見えた。
「俺も、それだと思った」
美月は息を止めた。
「……理久も?」
「うん」
理久は、美月の左手を見た。
「最初に見た時から、たぶんこれだと思ってた」
美月は指輪を見る。
自分が目を離せなくなった光を、理久も同じように見ていた。
それが、どうしてこんなに胸を熱くするのか分からなかった。
指輪を選んだというより、二人で同じ光を見つけたような気がした。
担当者が穏やかに微笑んだ。
「とてもお似合いです」
美月は、少しだけ頬が熱くなった。
理久が担当者に向き直る。
「こちらにします」
その声は、迷いがなかった。
けれど、美月の答えを聞く前に決めた声ではなかった。
美月が選んだものを、理久が受け取った声だった。
担当者が丁寧に頷く。
「ありがとうございます。サイズはこのままでよろしいかと思います。刻印につきましては、後日お預かりする形でも承れます」
理久は少し考えた。
そして、美月を見た。
「刻印は、後日にしよう」
「……はい」
「そこも、一緒に考えたい」
美月は、胸の奥がまた少し熱くなるのを感じた。
指輪だけではない。
刻む言葉まで、これから二人で考える。
約束は、ひとつずつ形になっていくのだと思った。
担当者が一度席を外す。
個室に、静かな時間が流れた。
美月は左手を見下ろした。
まだ試着用のリングがそこにある。
正式に自分のものになったわけではない。
けれど、その光はもう、さっきまでとは違って見えた。
「……重いですね」
思わず言うと、理久が美月を見た。
「うん」
「でも」
美月は指輪を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「外したい重さではないです」
理久は少しだけ目を細めた。
「美月らしいね」
「褒めてますか」
「かなり」
理久が静かに笑った。
美月も、ほんの少し笑った。
プロポーズの時には泣きそうだったのに、今は少しだけ笑えている。
それが不思議だった。
でも、たぶん、これでいいのだと思った。
大きな約束をしたからといって、急に強くなれるわけではない。
怖さが消えるわけでもない。
それでも、理久とこうして並んでいれば、怖いままでも少しずつ進める気がした。
* * *
指輪の手続きを終え、店を出た時には、街はほとんど夜になっていた。
美月の手には、小さな箱が入った紙袋があった。
理久が持とうとしたけれど、美月は首を振った。
「自分で持ちます」
理久は少しだけ驚いた顔をした。
それから、柔らかく頷いた。
「うん」
紙袋は軽い。
けれど、軽くはなかった。
ホテルへ戻るタクシーの中で、美月は紙袋を膝の上に置いていた。
理久は何も言わない。
けれど、隣にいる気配が静かに伝わってくる。
窓の外に、夜の東京が流れていく。
さっきサロンから見た景色とは違う。
同じ街なのに、もう違って見えた。
ホテルに戻ると、スタッフは自然に二人を迎えた。
エレベーターで上層階へ上がる。
先ほどのプライベートサロンに戻ると、部屋の印象は変わっていた。
夕方の光は消え、窓の外には東京の夜景が広がっている。
東京タワーは、先ほどよりもはっきりと赤く灯っていた。
テーブルには、食事の支度が整えられていた。
美月は窓の前で足を止めた。
さっきここで、理久にプロポーズされた。
その時と同じ部屋なのに、もう同じ場所ではないように見えた。
美月は、紙袋をそっと胸に抱いた。
理久が隣に立つ。
「疲れた?」
「疲れた、というより」
美月は少し考えた。
「現実感がありません」
理久が小さく笑う。
「俺も、少し」
「理久も?」
「うん」
理久は窓の外を見た。
「考えてきた時間の方が長かったから。今日が本当に来た感じが、まだ少ししない」
美月は、その横顔を見た。
完璧に整えていた人が、今だけ少し遠くを見る。
それだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
食事の時間は、ゆっくりと過ぎていった。
理久は、美月のグラスが空きそうになると自然に気づき、食べる速度を合わせた。
何か特別な言葉を重ねるわけではない。
ただ、張りつめていた時間が、少しずつほどけていく。
食事の終わりに、理久が紙袋を見た。
「開けてみる?」
美月は少し迷った。
そして頷いた。
箱を取り出す。
濃い色の小さな箱。
指先が震える。
理久は急かさなかった。
美月はゆっくり箱を開けた。
中で、小さな光が静かに待っていた。
さっき自分の指に通した時と同じ光。
派手ではない。
けれど、確かにそこにある。
美月は、その光を見つめた。
理久が、箱の中の指輪にそっと触れた。
けれど、すぐには取り出さなかった。
「つけてもいい?」
その一言で、胸の奥がまた静かに揺れた。
美月は、指輪を見た。
それから、理久を見た。
「……はい」
理久が箱から指輪を取り出す。
美月は左手を差し出した。
薬指に、ひんやりとした感触が触れる。
ゆっくりと、指輪が通された。
光が、指の上に収まる。
美月は、息を止めてそれを見た。
さっきよりも少しだけ、その重さを知っている気がした。
理久が、美月の左手にそっと触れた。
強く握らない。
ただ、そこにある光を確かめるように。
「一緒に考えよう」
理久が言った。
美月は、指輪を見つめたまま頷いた。
「はい」
窓の向こうで、東京タワーの赤い光が夜の中に滲んでいた。
指輪の光は小さい。
けれど、確かにそこにある。
父の名前から逃げてきた自分が、初めて自分の手で選んだ約束。
それが美月の左手に、静かに残っていた。