光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第42話 約束の言葉
「食事の前に、少し話したいことがある」
その言葉で、美月の呼吸が止まった。
窓の向こうには、夕方の東京が広がっている。
淡い光の中で、ビルの輪郭が少しずつ夜へ沈んでいく。
遠くに見える東京タワーは、夕方の空の中で静かに赤く灯っていた。
美月は、理久を見た。
今日、理久がいつもより改まった服を着ていたこと。
ブティックに連れて行かれたこと。
自分に似合う服を、一緒に選んだこと。
そのままホテルへ来たこと。
レストランではなく、この静かなプライベートサロンに案内されたこと。
一つ一つが、今になって、胸の中でつながっていく。
分からないふりは、もうできなかった。
理久は、窓を背にして立っていた。
いつものように整っている。
けれど、いつものように余裕だけで立っているわけではない。
美月を見る目が、まっすぐだった。
それが怖かった。
けれど、目を逸らしたくなかった。
「この前、留学の話をした時」
理久が静かに口を開いた。
「一緒に考えてほしいって言ったよね」
美月は、小さく頷いた。
あの日のリビング。
テーブルに広げられていた資料。
留学候補。
研究テーマ。
期間。
帰国後。
理久の未来の中に、自分がどう関わるのか、まだ何も分からなかった。
けれど理久は、美月を置いて決めたくないと言った。
連れていく前提にもしたくないと言った。
「でも、あの言い方だけじゃ足りなかったと思う」
理久の声は穏やかだった。
けれど、いつもより少しだけ低かった。
「美月に、俺の未来の重さだけ渡すみたいだった」
美月の指先が、ワンピースの布を握る。
「ついてきてほしいとか、待っていてほしいとか、そういう話にしたくない」
理久は、美月を見た。
「俺は、美月を俺の予定に入れたいんじゃない」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
父の名前の下に置かれてきた人生。
期待される役割。
誰かの計画の中に、当然のように置かれる未来。
美月はずっと、そこから逃げたかった。
逃げて、逃げて、綾瀬宗一郎の娘ではなく、綾瀬美月として立とうとしてきた。
だからこそ、理久の言葉が苦しいほど胸に響いた。
「美月と、未来を選びたい」
美月は、息を止めた。
「留学も、仕事も、これからの生活も。簡単じゃないと思う」
理久は一度、言葉を切った。
「でも、難しいからこそ、美月を置いて決めたくない」
まっすぐな声だった。
「だから、ちゃんと言葉にする」
理久が、一歩近づいた。
大きな窓の外で、夕方の光が少しずつ薄くなる。
部屋の中の静けさが、急に深くなった気がした。
理久は、美月の前で立ち止まった。
「美月」
名前を呼ばれただけで、胸が震えた。
「結婚してください」
時間が、止まった。
そう思った。
けれど本当は、止まったのではない。
今まで避けてきたものが、一斉に動き出したのだと思った。
父の名前。
10A病棟で積み上げてきた仕事。
理久の留学。
知らない国で暮らすかもしれない未来。
それでも仕事を続けたいと思う自分。
そして、藤崎理久の隣に立つということ。
一つを選べば、一つを失うのかもしれない。
何を守れて、何を変えなければならないのか、まだ何も分からなかった。
美月は、理久を見上げた。
理久は、答えを急かさなかった。
何かを言い足すこともしなかった。
ただ、そこに立っていた。
覚悟を持って、言葉を差し出した人の顔で。
美月は、その顔を見ていた。
怖い。
あまりにも大きい。
自分にはまだ、何も分かっていない。
留学のことも。
父のことも。
これからどうなるのかも。
それでも。
ここで逃げたら、きっと一生、自分で何かを選んだとは言えなくなる。
父の名前から逃げてきた。
期待から逃げてきた。
誰かの視線から逃げてきた。
それでも、理久の本気からまで逃げたら、美月はどこにも進めない。
これは、父の盤面ではない。
理久が差し出した、本気だった。
美月は、小さく息を吸った。
声が震えそうだった。
それでも、言葉にしたかった。
「まだ、全部は分かりません」
理久が静かに聞いている。
「留学のことも、父のことも、これからどうなるのかも、分かりません」
自分の声が、思ったより頼りなく聞こえた。
けれど、止めなかった。
「怖いです」
言ってしまうと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「でも、逃げたくないです」
理久の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「理久の本気から、逃げたくないです」
美月は、まっすぐ理久を見た。
「一緒に考えたいです」
その言葉を言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
答えは、まだ全部出ていない。
それでも、今言えることは一つだけだった。
美月は、震える息を吐いた。
「……はい」
理久の表情が、静かに崩れた。
ほんの少し。
けれど、美月には分かった。
理久も、怖かったのだ。
完璧に見えて。
全部を整えて。
何もかも先に読んでいるように見えて。
それでも、今この瞬間だけは、答えを待つしかなかったのだ。
理久は、小さく息を吐いた。
「ありがとう」
その声は、少し掠れていた。
美月は、目を伏せた。
涙が出そうで、でも泣いてしまったら、今の自分が崩れてしまいそうだった。
理久が、そっと美月の手に触れた。
強く握らない。
ただ、確かめるように。
その手の温度に触れた瞬間、ようやく少しだけ現実が戻ってきた。
美月は、はいと言った。
言ってしまった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
怖さは消えていない。
分からないことも、何一つ減っていない。
それでも、理久の前で逃げなかった自分が、今ここにいる。
そのことだけが、静かに胸の奥へ残っていた。
「美月」
「はい」
「約束の形を、一緒に選びに行こうか」
美月は瞬きをした。
「……今から、ですか」
「うん」
「食事は」
「この部屋に戻ってくる」
理久は、少しだけいつもの顔で言った。
「押さえてあるから」
美月は、言葉を失った。
プロポーズのためだけではなかった。
この部屋は、戻ってくる場所として用意されていたのだ。
相変わらず、段取りがいい。
けれど今は、その段取りに追い詰められている感じはしなかった。
むしろ、プロポーズのあと、自分が夢の中に置き去りにされないように、次に歩く場所まで用意されていたように思えた。
「……本当に、抜かりないですね」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めているのか、呆れているのか、自分でも分かりません」
理久がようやく少し笑った。
その笑顔を見て、美月の胸も少しだけ緩んだ。
美月は、窓の外を見た。
夕方の東京は、少しずつ夜に変わっていく。
さっきまで見ていた景色と同じはずなのに、もう同じものには見えなかった。
理久の言葉を受け取った。
自分の言葉で、返事をした。
それだけで、世界の輪郭がほんの少し変わって見える。
「行ける?」
理久が静かに聞いた。
美月は、窓の外から視線を戻した。
まだ胸は高鳴っている。
足元も、少し頼りない。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
美月は小さく頷いた。
「はい」
理久が、美月の手を取った。
今度は、確かに。
強く引くのではなく、隣を歩くための手だった。
二人で扉へ向かう。
サロンを出る前に、美月は一度だけ振り返った。
夕方の光を含んだ窓。
静かなソファ。
控えめに飾られた花。
理久が言葉をくれた場所。
自分が逃げずに受け取った場所。
この部屋に、また戻ってくる。
その時には、きっと今とは違う自分で。
美月は、理久の手を握り返した。
胸の奥に、まだ言葉の余韻が残っている。
結婚してください。
その一言は、指輪より先に、美月の中へ静かに残っていた。
その言葉で、美月の呼吸が止まった。
窓の向こうには、夕方の東京が広がっている。
淡い光の中で、ビルの輪郭が少しずつ夜へ沈んでいく。
遠くに見える東京タワーは、夕方の空の中で静かに赤く灯っていた。
美月は、理久を見た。
今日、理久がいつもより改まった服を着ていたこと。
ブティックに連れて行かれたこと。
自分に似合う服を、一緒に選んだこと。
そのままホテルへ来たこと。
レストランではなく、この静かなプライベートサロンに案内されたこと。
一つ一つが、今になって、胸の中でつながっていく。
分からないふりは、もうできなかった。
理久は、窓を背にして立っていた。
いつものように整っている。
けれど、いつものように余裕だけで立っているわけではない。
美月を見る目が、まっすぐだった。
それが怖かった。
けれど、目を逸らしたくなかった。
「この前、留学の話をした時」
理久が静かに口を開いた。
「一緒に考えてほしいって言ったよね」
美月は、小さく頷いた。
あの日のリビング。
テーブルに広げられていた資料。
留学候補。
研究テーマ。
期間。
帰国後。
理久の未来の中に、自分がどう関わるのか、まだ何も分からなかった。
けれど理久は、美月を置いて決めたくないと言った。
連れていく前提にもしたくないと言った。
「でも、あの言い方だけじゃ足りなかったと思う」
理久の声は穏やかだった。
けれど、いつもより少しだけ低かった。
「美月に、俺の未来の重さだけ渡すみたいだった」
美月の指先が、ワンピースの布を握る。
「ついてきてほしいとか、待っていてほしいとか、そういう話にしたくない」
理久は、美月を見た。
「俺は、美月を俺の予定に入れたいんじゃない」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
父の名前の下に置かれてきた人生。
期待される役割。
誰かの計画の中に、当然のように置かれる未来。
美月はずっと、そこから逃げたかった。
逃げて、逃げて、綾瀬宗一郎の娘ではなく、綾瀬美月として立とうとしてきた。
だからこそ、理久の言葉が苦しいほど胸に響いた。
「美月と、未来を選びたい」
美月は、息を止めた。
「留学も、仕事も、これからの生活も。簡単じゃないと思う」
理久は一度、言葉を切った。
「でも、難しいからこそ、美月を置いて決めたくない」
まっすぐな声だった。
「だから、ちゃんと言葉にする」
理久が、一歩近づいた。
大きな窓の外で、夕方の光が少しずつ薄くなる。
部屋の中の静けさが、急に深くなった気がした。
理久は、美月の前で立ち止まった。
「美月」
名前を呼ばれただけで、胸が震えた。
「結婚してください」
時間が、止まった。
そう思った。
けれど本当は、止まったのではない。
今まで避けてきたものが、一斉に動き出したのだと思った。
父の名前。
10A病棟で積み上げてきた仕事。
理久の留学。
知らない国で暮らすかもしれない未来。
それでも仕事を続けたいと思う自分。
そして、藤崎理久の隣に立つということ。
一つを選べば、一つを失うのかもしれない。
何を守れて、何を変えなければならないのか、まだ何も分からなかった。
美月は、理久を見上げた。
理久は、答えを急かさなかった。
何かを言い足すこともしなかった。
ただ、そこに立っていた。
覚悟を持って、言葉を差し出した人の顔で。
美月は、その顔を見ていた。
怖い。
あまりにも大きい。
自分にはまだ、何も分かっていない。
留学のことも。
父のことも。
これからどうなるのかも。
それでも。
ここで逃げたら、きっと一生、自分で何かを選んだとは言えなくなる。
父の名前から逃げてきた。
期待から逃げてきた。
誰かの視線から逃げてきた。
それでも、理久の本気からまで逃げたら、美月はどこにも進めない。
これは、父の盤面ではない。
理久が差し出した、本気だった。
美月は、小さく息を吸った。
声が震えそうだった。
それでも、言葉にしたかった。
「まだ、全部は分かりません」
理久が静かに聞いている。
「留学のことも、父のことも、これからどうなるのかも、分かりません」
自分の声が、思ったより頼りなく聞こえた。
けれど、止めなかった。
「怖いです」
言ってしまうと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「でも、逃げたくないです」
理久の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「理久の本気から、逃げたくないです」
美月は、まっすぐ理久を見た。
「一緒に考えたいです」
その言葉を言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
答えは、まだ全部出ていない。
それでも、今言えることは一つだけだった。
美月は、震える息を吐いた。
「……はい」
理久の表情が、静かに崩れた。
ほんの少し。
けれど、美月には分かった。
理久も、怖かったのだ。
完璧に見えて。
全部を整えて。
何もかも先に読んでいるように見えて。
それでも、今この瞬間だけは、答えを待つしかなかったのだ。
理久は、小さく息を吐いた。
「ありがとう」
その声は、少し掠れていた。
美月は、目を伏せた。
涙が出そうで、でも泣いてしまったら、今の自分が崩れてしまいそうだった。
理久が、そっと美月の手に触れた。
強く握らない。
ただ、確かめるように。
その手の温度に触れた瞬間、ようやく少しだけ現実が戻ってきた。
美月は、はいと言った。
言ってしまった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
怖さは消えていない。
分からないことも、何一つ減っていない。
それでも、理久の前で逃げなかった自分が、今ここにいる。
そのことだけが、静かに胸の奥へ残っていた。
「美月」
「はい」
「約束の形を、一緒に選びに行こうか」
美月は瞬きをした。
「……今から、ですか」
「うん」
「食事は」
「この部屋に戻ってくる」
理久は、少しだけいつもの顔で言った。
「押さえてあるから」
美月は、言葉を失った。
プロポーズのためだけではなかった。
この部屋は、戻ってくる場所として用意されていたのだ。
相変わらず、段取りがいい。
けれど今は、その段取りに追い詰められている感じはしなかった。
むしろ、プロポーズのあと、自分が夢の中に置き去りにされないように、次に歩く場所まで用意されていたように思えた。
「……本当に、抜かりないですね」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めているのか、呆れているのか、自分でも分かりません」
理久がようやく少し笑った。
その笑顔を見て、美月の胸も少しだけ緩んだ。
美月は、窓の外を見た。
夕方の東京は、少しずつ夜に変わっていく。
さっきまで見ていた景色と同じはずなのに、もう同じものには見えなかった。
理久の言葉を受け取った。
自分の言葉で、返事をした。
それだけで、世界の輪郭がほんの少し変わって見える。
「行ける?」
理久が静かに聞いた。
美月は、窓の外から視線を戻した。
まだ胸は高鳴っている。
足元も、少し頼りない。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
美月は小さく頷いた。
「はい」
理久が、美月の手を取った。
今度は、確かに。
強く引くのではなく、隣を歩くための手だった。
二人で扉へ向かう。
サロンを出る前に、美月は一度だけ振り返った。
夕方の光を含んだ窓。
静かなソファ。
控えめに飾られた花。
理久が言葉をくれた場所。
自分が逃げずに受け取った場所。
この部屋に、また戻ってくる。
その時には、きっと今とは違う自分で。
美月は、理久の手を握り返した。
胸の奥に、まだ言葉の余韻が残っている。
結婚してください。
その一言は、指輪より先に、美月の中へ静かに残っていた。