光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第55話 迎えに来た人

一本先の角に、タクシーが停まっていた。

その横に、藤崎先生が立っている。

医局帰りなのだろう。

シャツにジャケット。

夜の街灯の下でも、相変わらず整っている。

及川は、思わず言いそうになった。

王子、回収お願いします。

もちろん、言わなかった。

「先生」

藤崎先生は綾瀬を見た。

その瞬間、ほんの少しだけ表情が変わった。

外から見れば、ほとんど分からない程度。

けれど、及川には分かった。

心配と、安堵と、少しの驚き。

「美月」

藤崎先生が静かに呼ぶ。

綾瀬は顔を上げた。

「りく」

及川は反射的に周囲を見た。

誰もいない。

よかった。

本当に、よかった。

藤崎先生は落ち着いた声で言った。

「迎えに来たよ」

「うん」

綾瀬はふわっと笑った。

及川は心の中で叫んだ。

先生、見ました?

これです。

これが今夜の綾瀬です。

藤崎先生は綾瀬の様子を見て、少しだけ目を細めた。

「結構飲んだね」

「飲んでない」

及川が即座に言う。

「飲んでます」

綾瀬が及川を見る。

「飲んでないよね?」

「飲んでます」

「及川くん、冷たい」

「冷静なだけです」

藤崎先生が小さく笑った。

「及川、ありがとう」

「いや、ほんと、大変でした」

及川は、綾瀬のバッグを差し出した。

「足元は大丈夫です。でも、気が緩んでます」

「うん」

藤崎先生はバッグを受け取り、綾瀬の肩にかかったストールを直した。

その手つきが自然すぎて、及川は少しだけ目を逸らした。

見てはいけないものを見ている気がした。

「美月、乗れる?」

藤崎先生が聞く。

「乗れる」

「足元、気をつけて」

「うん」

藤崎先生は綾瀬の背にそっと手を添え、タクシーへ促した。

綾瀬は素直に乗り込む。

藤崎先生がその後に続こうとした時、及川が小声で言った。

「先生」

「うん」

「店には戻ります。俺が急に消えると、逆に変なので」

藤崎先生はすぐに意味を察したように頷いた。

「分かった」

「中のことは、適当にごまかしておきます」

「任せる」

その一言で、及川は少しだけ肩の力を抜いた。

「あと」

「うん」

「高いやつ、覚えてます?」

藤崎先生がふっと笑った。

「覚えてる」

「かなり頑張りました」

「分かってる。今度ちゃんとご馳走する」

「本当にお願いします」

「ありがとう、及川」

その声があまりに素直で、及川は少しだけ困った。

真正面から礼を言われると、どうにも調子が狂う。

「綾瀬をお願いします」

「分かった」

藤崎先生はタクシーに乗り込んだ。

ドアが閉まる。

タクシーがゆっくり走り出す。

及川はその後ろ姿を見送って、しばらくその場に立っていた。

そして、どっと疲れた。

「……何だったんだ」

思わず呟く。

綾瀬の知られざる一面を見てしまった。

ふわっと笑う。

素直に頷く。

「優しい」なんて言う。

しかも、藤崎先生には自然に「りく」と呼ぶ。

及川は夜空を見上げた。

「いや、きついって……」

色々な意味で。

とにかく任務は完了した。

あとは戻るだけだ。

自分のグラスは、まだほとんど減っていない。

それなのに、もう一仕事終えたような疲労感だけがある。

及川は店へ向かって歩き出した。

* * *

タクシーの中で、美月は理久の隣に座っていた。

車内は静かだった。

窓の外を、夜の街の灯りが流れていく。

理久は、美月の肩にかかるストールをもう一度整えた。

「寒くない?」

「うん」

「気持ち悪くない?」

「うん」

「水、飲む?」

「あとで」

美月は、少しだけ理久の方へ身体を寄せた。

理久はそのまま受け止める。

及川の言っていた通りだった。

足取りはしっかりしている。

声も、ちゃんとしている。

けれど、普段の美月とは違う。

表情が柔らかい。

返事が素直すぎる。

普段なら必ず残している距離が、今だけ少しほどけている。

これは、確かに危ない。

理久は小さく息を吐いた。

及川には、ちゃんと礼をしなければいけない。

「りく」

「うん」

「今日ね」

「うん」

「香澄と玲奈に、結婚のこと話した」

「そっか」

「10Aを離れるかもしれないことも、話した」

「うん」

「言えた」

「うん」

「相手の名前は、まだ言ってない」

「うん」

「でも、祝ってくれた」

美月は少し嬉しそうに笑った。

その顔を見て、理久の胸が静かに温かくなる。

「よかったね」

「うん」

「怖かった?」

「うん」

「でも、言えた?」

「言えた」

理久は、美月の手にそっと触れた。

「美月」

「うん」

「頑張ったね」

美月は少しだけ目を開いた。

「頑張った?」

「うん。柏木さんと三浦さんに話すの、怖かったでしょ」

「怖かった」

「でも、ちゃんと話した」

「うん」

美月はぼんやり理久を見る。

それから、ふわっと笑った。

「りく、優しい」

理久は一瞬、動きを止めた。

これは。

本当に、危ない。

理久がこれを見てそう思うのだから、及川があの場で焦ったのも当然だった。

美月は、隣で小さく息を吐く。

「みんな、優しかった」

「うん」

「香澄も、玲奈も」

「うん」

「及川くんも、なんか、守ってくれた」

理久は少し笑った。

「そうみたいだね」

「高いやつって言ってた」

理久は目を細める。

「聞いてたんだ」

「聞いてた」

「じゃあ、そうする」

美月は満足そうに、小さく頷いた。

それから、目を閉じる。

完全に眠ったわけではない。

けれど、理久の肩に少しだけ頭を預けた。

理久は、美月の頭がずれないようにそっと支えながら、窓の外を見た。

香澄と玲奈に話せたこと。

10Aを離れるかもしれないこと。

結婚のこと。

留学のこと。

その全部が、少しずつ現実になっていく。

美月は、その一つ一つを自分の足で進もうとしている。

怖さも、寂しさも抱えながら。

それでも、ちゃんと前へ。

理久は、美月の手を包んだ。

「お疲れ様」

小さく呟く。

美月は目を閉じたまま、かすかに頷いた。

「高いやつ」

理久は思わず笑った。

「うん。高いやつにしよう」

車は、夜の街を静かに進んでいった。
< 55 / 68 >

この作品をシェア

pagetop