光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第54話 守るべき秘密

及川は、水のグラスを両手で持っている綾瀬を見ながら、スマートフォンを握りしめた。

倒れそうなほど酔っているわけではない。

会話は成立している。

顔色も悪くない。

声を荒げるわけでも、眠そうにしているわけでもない。

だから、柏木も三浦も笑っている。

外科レジデントたちも、珍しいものを見たように盛り上がっている。

けれど、及川には分かる。

問題は、そこではない。

普段の綾瀬美月なら、医師との距離をこんなに詰めない。

日本酒を勧められて、ふわっと笑ったりしない。

水を渡されて、素直に両手で受け取ったりしない。

酔うと、綾瀬はこうなるのか。

騒ぐわけではない。

泣くわけでもない。

ただ、普段なら必ず残している距離が、少しだけ消える。

それが、いちばん危ない。

「綾瀬」

及川が声をかけると、綾瀬は素直に顔を上げた。

「はい」

その返事だけで、及川は少し頭を抱えたくなった。

素直すぎる。

「一回、お手洗い行ってこい」

「うん。行ってくる」

綾瀬はこくんと頷いた。

普段なら、絶対にこんな返事はしない。

それが、今は素直に立ち上がる。

柏木も少し腰を浮かせた。

「美月、一緒に行こうか?」

綾瀬は首を振る。

「大丈夫」

そのまま通路へ出た。

足取りは、思ったよりしっかりしていた。

少なくとも、誰かに支えられなければ歩けない状態ではない。

だから柏木も三浦も、それ以上は止めなかった。

及川はすぐに席を立つ。

「俺も電話あるから、廊下出るわ」

柏木が目を細める。

「及川先生が?」

「何だよ、その顔」

「珍しくちゃんとしてるなと思って」

「俺はいつもちゃんとしてる」

三浦が笑った。

「どうでしょう」

「三浦まで評価厳しいな」

場が笑う。

及川は、その笑いに紛れるように店の奥へ向かった。

綾瀬は通路を歩いていく。

背筋は伸びている。

歩幅も乱れていない。

酔っていると断言するには、あまりにもちゃんとしている。

けれど、振り返った時の表情が柔らかい。

「及川くん、電話?」

「そう」

「仕事?」

「仕事じゃない」

「そっか」

綾瀬はそれだけ言って、また前を向いた。

その素直さが怖い。

本当に怖い。

綾瀬がお手洗いの方へ曲がったのを確認してから、及川は廊下の隅へ移動した。

スマートフォンを開く。

藤崎先生。

名前を見つけて、一瞬だけためらう。

いや。

ためらっている場合ではない。

及川は発信ボタンを押した。

数コールでつながる。

『及川?』

低く落ち着いた声だった。

及川は声を落とした。

「先生、すみません。緊急です」

『患者?』

即座に声が変わった。

医師の声だった。

及川は慌てて否定する。

「違います。患者じゃないです。綾瀬です」

電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。

『美月?』

その呼び方に、及川は妙に現実を感じた。

そうだよな。

先生にとっては、綾瀬じゃなくて美月なんだよな。

『どうして及川が?』

「中川たちが偶然居合わせたらしくて、合流したみたいです。俺が来た時には、もう一緒に飲んでました」

『中川たち?』

「外科レジデントです。中川、相澤、佐伯」

電話の向こうで、ほんの少しだけ間が空いた。

『……なるほど』

藤崎先生の声は落ち着いていた。

けれど、少しだけ低くなった気がした。

『美月は酔っているの?』

「歩けます。会話もできます。顔色も悪くないです」

『なら、何が緊急なの?』

責めるでもなく、急かすでもない。

だからこそ、及川も要点だけを言った。

「普段の綾瀬じゃないです」

『具体的に』

「笑います」

短い沈黙が落ちた。

「ふわっと笑います。トゲがないです。中川に日本酒を勧められて、普通に笑って返してました」

『……』

「中川たちが、“綾瀬さん可愛い”って盛り上がってます」

また、短い沈黙。

それから藤崎先生が言った。

『場所は』

即答だった。

及川は店の名前と場所を伝える。

「ただ、先生が店に来たらまずいです。相手が先生だとは、柏木さんたちにもまだ言ってないかもしれません。中川たちもいます」

『分かってる。店には入らないよ』

「少し離れたところまで、綾瀬を連れていきます。店には、タクシーに乗せてくるって言って出ます」

『分かった。タクシーで向かう』

「助かります」

『美月は、自分で歩けるんだね』

「歩けます。そこは大丈夫です。でも、気が緩んでます」

『帰り先とか、相手のことを聞かれたら危ない?』

「言うかもしれません。言わないかもしれません。でも、今日の綾瀬は止めにくいです」

『分かった』

藤崎先生の声が少し低くなる。

『及川』

「はい」

『ありがとう』

及川は一瞬、言葉に詰まった。

真正面から礼を言われると、どうにも調子が狂う。

「いや、まだ何もしてないです」

『十分してる』

「じゃあ、あとで高いやつ奢ってください」

『分かった』

即答だった。

及川は思わず目を丸くする。

「え、本当に?」

『本当に』

「限度、確認しません?」

『しなくていいよ』

「先生、そういうところが本当に」

『何?』

「いえ。じゃあ、頑張ります」

『頼む』

電話を切る。

及川は深く息を吐いた。

藤崎先生は来る。

あとは、どうやって自然に綾瀬を店から出すか。

* * *

及川が席に戻ると、綾瀬はすでに戻っていた。

なぜか、柏木と手を取り合って笑っている。

「香澄、救急すごいよね」

「急に褒めてくれるじゃん」

「すごいと思ってる」

「美月、酔うと褒めるタイプだったっけ?」

「違う」

「今めちゃくちゃ褒めてるよ」

三浦が笑っている。

外科レジデントたちも完全に楽しんでいた。

中川はまだ、綾瀬の近くにいる。

危ない。

すぐ回収。

及川は、わざと明るく言った。

「はいはい、綾瀬。今日はもうタクシー乗れ」

綾瀬が顔を上げる。

「……まだ大丈夫」

その声が、いつもより柔らかい。

及川は眉間を押さえたくなった。

「大丈夫かどうかは俺が決める」

「及川くんが決めるの?」

「今だけな」

柏木が笑う。

「及川先生、完全に保護者じゃん」

「保護者だから」

及川は即答した。

「タクシー乗せてくる」

三浦が聞く。

「戻ってくる?」

「戻る。店の前で乗せるだけ」

そこは大事だった。

及川が綾瀬を家まで送るように見えるのは、それはそれでまずい。

あくまで、タクシーに乗せて戻る。

そういう形にしておく必要があった。

中川が手を上げた。

「え、俺、送りますよ」

及川は即座に遮る。

「お前は座ってろ」

「何でだよ」

「危険だから」

「また俺が危険認定されてる」

「今日は特に危険」

相澤が笑う。

「中川、振られてる」

「振られてないだろ」

佐伯が静かに言った。

「たぶん、及川に任せた方がいい」

「佐伯まで?」

「お前、さっきから顔に出すぎ」

中川が黙る。

柏木が綾瀬を見る。

「美月、今日はもう帰ろうか」

三浦も頷く。

「そうだね。明日休みでも、今日はここまで」

「でも、楽しい」

綾瀬が言った。

その声が柔らかくて、場が少しだけ和む。

柏木が困ったように笑った。

「楽しいなら、また飲もう」

「うん」

「今日は帰る」

「うん」

及川は、綾瀬のバッグを持ち上げた。

「綾瀬、立てる?」

「立てる」

綾瀬は普通に立ち上がった。

ふらつかない。

足元はしっかりしている。

けれど、いつもより動きが柔らかい。

「及川くん、私のバッグ」

「持ってやってるんだよ」

「優しい」

及川は固まった。

やめろ。

その顔で言うな。

俺じゃなくて藤崎先生に言え。

外科レジデントたちがまたざわつく。

「及川、照れてる」

「照れてねぇ」

「綾瀬さん、今のは可愛い」

「中川、黙れ」

「何で俺だけ」

「お前が一番危険だから」

柏木と三浦が笑う。

三浦が綾瀬の肩に軽く手を置いた。

「美月、ちゃんと帰ったら連絡して」

「うん」

柏木も言う。

「水飲んで寝るんだよ」

「うん」

「返事だけいいね」

「うん」

及川はもう一度思った。

返事だけが良すぎる。

本当に危ない。

「じゃあ、タクシー乗せてくる」

及川はそう言って、綾瀬を店の外へ促した。

「及川、戻ってこいよ」

相澤が言う。

「戻るって」

及川は振り返らずに返した。

「俺の酒、飲むなよ」

「そこ?」

「そこ大事」

場に笑いが起きる。

その笑いを背中に受けながら、及川は綾瀬を連れて店を出た。

外の空気は、少し冷たかった。

綾瀬が小さく息を吸う。

「寒い」

及川は一瞬、自分の上着に手をかけかけた。

けれど、すぐにやめる。

それは違う。

「羽織るもの、持ってる?」

「バッグにある」

「出していい?」

「うん」

及川は綾瀬のバッグを開け、薄いストールを取り出した。

肩にかける手つきは、少しぎこちない。

「これでいい?」

「うん。ありがとう」

「そういうの、酔ってない時に言え」

「うん」

「返事だけいいな」

「うん」

及川は空を見上げた。

本当に、どうしたんだ。

綾瀬はふらつかない。

段差も自分で越える。

歩道の端にも寄りすぎない。

でも、返事が素直すぎる。

声が柔らかすぎる。

気が緩みすぎている。

「綾瀬、段差」

「うん」

「そこ、右」

「うん」

「バッグ、俺が持ってるから探すな」

「うん」

「返事だけは完璧だな」

「うん」

及川は深く息を吐いた。

一本先の角に、タクシーが停まっていた。

その横に、藤崎先生が立っている。

医局帰りなのだろう。

シャツにジャケット。

夜の街灯の下でも、相変わらず整っている。
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