光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第56話 高いやつ

病院から少し離れた通りに、その店はあった。

高級鉄板焼きの店。

大きな看板は出ていない。

入口も控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうなほど静かだった。

けれど、暖簾の奥からこぼれる柔らかな照明と、磨かれた木の扉だけで十分に分かる。

高い。

絶対に高い。

しかも、分かりやすく派手な高級感ではない。

静かで、落ち着いていて、こちらの背筋を勝手に伸ばしてくる種類の高級感だった。

及川は、店の前で足を止めた。

「先生、本当にここでいいんですか」

隣に立つ藤崎先生は、涼しい顔をしている。

「高いやつ、って言ったのは及川だよね」

「言いましたけど」

「だから、ここ」

「こういう静かな高級感は、想定してなかったです」

「静かな高級感……ね」

「一番緊張するやつです」

藤崎先生は少しだけ笑った。

「今日は気にしなくていいよ」

「気にしますよ。俺、今、扉開ける前から姿勢よくなってます」

「いいことだね」

「他人事みたいに」

及川はため息をつきながらも、店の扉をくぐった。

案内されたのは、カウンターの端の席だった。

目の前には磨き上げられた鉄板。

料理人が静かに準備をしている。

店内は落ち着いていて、必要以上に声を張る客はいない。

及川は椅子に座りながら、さらに姿勢を正した。

「……やっぱり緊張するな」

「及川でも?」

「俺を何だと思ってるんですか」

「緊張しない人」

「しますよ。高そうな店では」

藤崎先生はメニューを受け取り、自然に店員と会話をする。

慣れている。

明らかに慣れている。

及川はその様子を横目で見ながら思った。

本当に、育ちが違う。

大学病院には、いろいろな医師がいる。

派手な家の出の人間もいれば、家柄をひけらかす人間もいる。

けれど、藤崎先生はそういう種類ではない。

高い店に来ても、気負わない。

相手を萎縮させるような態度も取らない。

ただ、自然にその場にいる。

そういうところが、腹立つほど藤崎先生だった。

「及川」

「はい」

「飲む?」

「飲みます」

「即答だね」

「今日は奢りなので」

「いいよ」

「本当にいいんですか」

「もちろん」

「じゃあ、遠慮しません」

「する気あった?」

「一応」

藤崎先生は小さく笑った。

乾杯のグラスが軽く触れる。

最初の一口を飲んでから、及川は息を吐いた。

「いやー、生き返る」

その言葉が落ちたところで、藤崎先生が静かに言った。

「この前は、本当にありがとう」

及川は、箸を取ろうとしていた手を止めた。

いきなり真正面から言われると、少し困る。

「あれは、まあ……」

「美月を守ってくれたお礼だから」

藤崎先生の声は、冗談ではなかった。

及川は少し黙る。

軽く流そうとしたのに、流させてもらえない。

藤崎先生は、こういうところがある。

普段は涼しい顔で何でも受け流すくせに、時々、逃げ場のないくらいまっすぐな言葉を置いてくる。

「……ほんと、調子狂うな」

「何が?」

「真正面から礼を言われると、返しに困るんです」

「及川でも?」

「俺でもです」

藤崎先生は少し笑った。

及川はグラスを置き、息を吐く。

「あの日の綾瀬、先生も見たでしょう」

「見たよ」

「現場はもっと危なかったです」

「外科の連中?」

「完全にざわついてました」

及川は少し顔をしかめた。

「普段の綾瀬しか知らない奴らに、あれは刺激が強いと思います。両手で水持って、こくこく飲んで、全部うんって返事するんですから」

藤崎先生は黙った。

及川はその横顔を見て、少しだけ笑う。

「嫌そうな顔してますね」

「してない」

「してます」

「……少しだけ」

「正直でいいですね」

藤崎先生は苦笑した。

その顔は、病院で見る藤崎先生とは少し違っていた。

周囲に向けた穏やかな王子の顔ではない。

少しだけ面白くなさそうで、少しだけ困っていて、それでも隠しきれずに笑っている。

及川は、妙な気分になった。

王子扱いしているようで、実際にはしていない。

そう自分では思っていた。

けれど、こうして目の前で王子ではない顔を見せられると、少しだけ分かる。

綾瀬が、この人のどこに引っかかったのか。

鉄板の上で肉が焼ける音がする。

香りがふわりと上がった。

しばらく、二人は黙って料理を味わった。

高い。

当然ながら、うまい。

及川は思わず小さく唸った。

「これ、美味しいですね」

「よかった」

「先生、俺を買収しようとしてます?」

「そう見える?」

「ちょっと」

「口止めじゃなくて、お礼だよ」

及川は小さくため息をついた。

「その言い方、ずるいです」

「ずるい?」

「それ言われたら、俺がこれ以上ふざけにくいじゃないですか」

「ふざけてもいいよ」

「そういう問題じゃないんです」

藤崎先生は少し笑った。

及川は肉を一切れ口に入れた。

うまい。

悔しいくらいうまい。

「でも、あの日見て思いましたけど」

「うん」

「柏木さんと三浦さん、綾瀬のこと、かなり分かってると思いました」

藤崎先生が顔を上げる。

「そう見えた?」

「見えました。あの二人の前だと、綾瀬が全然違うんで」

「気が緩んでた?」

「緩んでました。まあ、緩みすぎて俺は汗かいたんですけど」

藤崎先生は小さく笑った。

「美月も、二人に話せたことを喜んでたよ」

「でしょうね」

及川は頷いた。

「たぶん、あの二人は新人の頃からそういう相手なんだと思います。綾瀬が隙を見せても大丈夫な相手というか」

「隙を見せても大丈夫な相手……か」

「はい。綾瀬にとっては、かなり貴重だと思います」

藤崎先生は黙って聞いていた。

及川は、少しだけグラスを回す。

「柏木さんも三浦さんも、雑ですけど」

「雑なんだ」

「かなり。でも、綾瀬のことは大事にしてますよ」

「そう」

「いい同期に恵まれてますよ、綾瀬は」

「そうだね」

「あと、俺もいます」

藤崎先生は及川を見る。

「自分で言う?」

「言わないと伝わらないんで」

藤崎先生は小さく笑った。

「そうだね。及川にも恵まれてるね」

「そこ、もう少し感情込めてもらっていいですか」

「十分込めてるよ」

「藤崎先生の感情は、薄いんですよ」

「そうかな」

「薄いです。でも肉は厚い」

藤崎先生が珍しく声を漏らして笑った。

及川も少し笑う。

料理が進む。

落ち着いた空気の中で、及川は少しずついつもの調子を取り戻していた。

藤崎先生もまた、病院で見る助教の顔とは少し違った。

病院では、若くしてスタッフになった外科医として、静かに周囲を見ている。

手術室では判断が速い。

言葉は少ないが、必要なところでは迷わない。

及川も、藤崎先生のオペに前立ちすることがあった。

まだ班が固定されているわけではないから、外科の中をあちこち回っている身ではある。

それでも、藤崎先生の手術には何度か入っていた。

藤崎先生は、上級医として無駄に威圧しない。

だけど、甘くもない。

できていないところは見逃さない。

及川はそういう医師が嫌いではなかった。

むしろ、やりやすい。

壁を作らず話せる相手でもあった。

もっとも、綾瀬のことが絡むと、話は少し違っていた。

「及川」

藤崎先生は、鉄板の上で肉が焼ける音を聞きながら、ふと口を開いた。

「はい」

「新人の頃の美月って、どんな感じだった?」

及川は箸を止めた。

「急ですね」

「前から聞きたかった」

「嫉妬ですか」

藤崎先生は少し間を置いた。

それから、あっさり頷いた。

「少しね」

及川は目を丸くする。

「認めるんですね」

「認めた方が早いかなと思って」

「先生、そういうところずるいですよね」

「どこが?」

「嫉妬しても、品が落ちないところです」

藤崎先生は少し笑った。

病棟で見せる、外科スタッフとしての笑みとは違う。

少し柔らかく、少しだけ力の抜けた顔だった。

「品があるかどうかは分からないけど、面白くなかった時期はあるよ」

「俺に?」

「うん」

「正直ですね」

「美月が、及川には遠慮なく言い返すから」

及川は少しだけ笑った。

「それ、嫉妬するところですか」

「するよ」

藤崎先生はグラスを置いた。

「俺にはまだ、少し構えるところがあったから」

及川は黙った。

その言い方には、責める響きがなかった。

ただ、少し寂しそうで、少し羨ましそうだった。

「でも、今は違うんですか」

「違うかな」

「婚約者の余裕?」

「それもある」

「それも、なんですね」

「及川と美月の間に、恋愛がないのは分かったし」

及川は肩をすくめた。

「そりゃないですよ」

「本当に?」

藤崎先生の声が、少しだけ意地悪くなる。

及川はそれに気づいて、にやりと笑った。

「先生、そういうこと聞くんですね」

「今なら聞けるからね」

「余裕あるなあ」

「余裕があるわけじゃないよ」

及川は少しだけ目を細めた。

そういうことを、そんな顔で言う。

本当にずるい。

余裕がないと言いながら、声は穏やかで、表情は崩れない。

でも、崩れていないのに、今の言葉だけは嘘じゃないと分かる。

王子の顔をしたまま、本音だけを少し差し出してくる。

そのやり方が、ずるい。

「やっぱり、先生はずるいです」

「また?」

「何度でも言います」

及川は水を飲んだ。

「気にならなかったと言えば、嘘です」

藤崎先生の目が、わずかに動いた。

「でも、それは先生が思ってるやつじゃないです」

「どう違うの?」

「放っておけなかったんです」

及川は、少しだけ視線を落とした。

「見た目は目立つ。仕事はできる。確認は鋭い。でも、ずっと刺々しくて、病棟に馴染めなくて、怒られても泣かない。というか、泣けない」

藤崎先生は黙って聞いていた。

「だから気にはなりました。こいつ、このままだと折れるんじゃないかって」

「……」

「でも俺には、その時から彼女がいましたし」

及川は藤崎先生を見る。

「俺、そういうところは間違えないんで」

藤崎先生の口元が少しだけ緩んだ。

「そこは信用してる」

「ありがとうございます」

及川は少し得意げに頷いた。

「それに、仮に俺がその気でも無理でしたよ」

「どうして?」

「綾瀬は俺を男として見てません」

藤崎先生は黙る。

及川はすぐに指摘した。

「そこで安心した顔しないでください」

「してないよ」

「してます」

「……少し」

「素直ですね」

藤崎先生は苦笑した。

及川は、皿の上の肉をひと切れ口に運んだ。

高いだけあって、腹立つほどうまい。

「俺は、綾瀬が病棟で息できればいいと思ってました」

藤崎先生は静かに及川を見た。

「最初は本当に、息苦しそうだったんで。だから、たまにこっちに引っ張ったり、柏木さんが声をかけてるのを見たりして、ああいう相手がいるなら大丈夫かもしれないって思ったりはしました」

「大丈夫かもしれない?」

「本人には余計なお世話って言われそうですけど。柏木さんは当時10Aにいましたし、三浦さんも同期で、綾瀬のことを放っておかない感じだったので」

藤崎先生は少し笑った。

「美月が聞いたら、怒りそうだね」

「怒りますね。絶対」

及川も笑った。

それから、少しだけ真面目な声に戻る。

「でも先生は、たぶんその先を見てるんですよね」

「その先?」

「病棟で息ができるとか、そういうところじゃなくて」

及川は言葉を探すように、少しだけ黙った。

「綾瀬が、病棟の外でもちゃんと息できる場所を作ろうとしてる感じです」

藤崎先生は何も言わなかった。

「それなら、俺とは役割が違います」

藤崎先生はしばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

「そうできたらいいと思ってる」

「できますよ」

「簡単に言うね」

「俺、軽いんで」

及川は少し笑った。

「でも、先生は軽く考えてないでしょう」

藤崎先生は頷いた。

「軽くは考えてないよ」

「なら、いいです」

及川はグラスを持ち上げる。

「ちゃんと幸せにしてくださいよ」

藤崎先生は迷わず答えた。

「もちろん」

「即答ですね」

「そこは悩まない」

「そういうところですよ」

及川は呆れたように笑った。

けれど、その顔は少しだけ安心していた。

料理の最後に、ガーリックライスが出てきた。

及川は一口食べて、目を閉じる。

「うわ……さすがに美味しいです」

藤崎先生が笑う。

「よかった」

「先生」

「うん」

「俺、また綾瀬守ったら、ここでいいです」

「守らなくていい状況が一番いいんだけど」

「それはその通りですね」

「でも、また何かあったら」

「はい」

「頼むかもしれない」

及川は少しだけ真面目な顔になった。

「任せてください」

そして、すぐにいつもの顔に戻る。

「高いやつ付きで」

「そこは変わらないんだ」

「理念なんで」

「理念なら仕方ないね」

藤崎先生はまた笑った。

及川も笑った。

外では夜が深くなっている。

病院の中では言えないこと。

立場上、見せられない感情。

綾瀬をめぐる少しの嫉妬と、信頼と、病棟で積み重ねてきた時間。

その全部が、鉄板の上で立ち上がる湯気に少しずつほどけていく。

帰り際、及川は店の外で藤崎先生に頭を下げた。

「ご馳走さまでした。本当に高いやつでした」

「満足した?」

「しました」

「それならよかった」

藤崎先生がそう言うと、及川は少しだけ真面目な顔になった。

「先生」

「うん」

「綾瀬のこと、お願いします」

藤崎先生はまっすぐ及川を見た。

「必ず」

及川は一瞬だけ黙り、それから苦笑した。

「またそういう即答する」

「悩むところじゃないから」

「その方がいいです」

及川は軽く息を吐いてから、いつもの調子に戻した。

「じゃあ俺も、高いやつ食べた分、働きます」

「次のオペ?」

「前立ち入ったら、厳しめにお願いします」

藤崎先生は少し笑った。

「分かった。遠慮なく」

「そこは少し遠慮してください」

「しない」

「ですよね」

及川は肩をすくめて、駅の方へ歩き出した。

* * *

理久はその背中を見送った。

軽くて、うるさくて、掴みどころがない。

けれど、美月の新人時代を知っている男。

そして、美月を恋愛ではなく、戦友のように守ってきた男。

少し前なら、面白くなかったかもしれない。

今も、まったく何も感じないわけではない。

けれど、それ以上に思う。

美月には、ちゃんと居場所があった。

自分がその内側に入る前から。

新人の頃、病棟で息を詰めながら、それでも毎日そこに立っていた美月。

その横に、柏木さんがいて、三浦さんがいて、及川がいた。

理久は、その時間を知らない。

知らないまま、美月の隣に立とうとしている。

だからこそ。

美月が積み重ねてきたものを、置き去りにさせるのではなく。

抱えたまま、一緒に進みたい。

理久は駅とは反対の方へ歩き出した。

美月に、あとで連絡しよう。

今日は及川に奢ったこと。

新人の頃の話を少し聞いたこと。

そして。

自分が知らなかった美月も、やっぱり好きだと思ったこと。

それは、たぶん言わない。

言えばきっと、美月は困った顔をする。

その顔も見たい気はしたけれど。

理久は小さく笑い、夜の街へ歩いていった。
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