昨日、僕を殺したのは誰ですか
第三章 存在しない地下二階
第三章 存在しない地下二階
『神谷蓮 死亡確認済み』
0組の黒板に浮かび上がったその文字を、蓮はしばらく黙ったまま見つめていた。
意味が分からないわけではない。むしろ、書かれている内容があまりにも明確だからこそ、理解したくなかった。
「十七年前……俺が?」
現在、蓮は十七歳だ。
十七年前なら、生まれてすらいない。
それなのに、存在しないはずの地下二階、そのさらに奥に現れた0組の黒板には、確かに神谷蓮という名前が記され、生年月日も住所も現在の自分と一致していた。
そして最後には、
死亡日――九月一日
とまで書かれている。
「神谷君」
栞の声に振り返ると、彼女は不安そうに廊下を見ていた。
「ここにいちゃダメ。早く出よう」
「その前に聞かせて」
「何?」
「雨宮、お前は何を知ってる?」
栞は答えなかった。
「昨日の屋上にいたんだろ」
「……」
「三人の俺を見た」
「……うん」
「だったら教えてくれ。何があったんだ」
栞は目を逸らした。
「言えない」
「なんで」
「言ったら、神谷君が変わるから」
「もう十分変だよ!」
蓮の声が地下の廊下へ響いた。
「昨日死んだって写真が届いて、存在しないクラスメイトがいて、十七年前にも俺がいて、目の前には俺と同じ顔をした人間が何人もいる。これ以上、何が変わるんだよ」
廊下の奥には無数の神谷蓮が立っていて、全員が同じ顔でこちらを見ている。
栞はしばらく唇を噛んでいたが、やがて覚悟を決めたように蓮を見る。
「自分が誰なのか」
「え?」
「それを知ったら、たぶん今までと同じ神谷君ではいられなくなる」
◇
その時、廊下のスピーカーからノイズが流れた。
ザーッという音のあと、感情のない機械音声が響く。
『出席確認を続けます』
続いて。
『神谷蓮』
廊下に立つ無数の蓮が、一斉に返事をした。
「はい」
「はい」
「はい」
「はい」
同じ声が何重にも重なり、蓮は反射的に耳を塞いだ。
「何なんだよ、これ!」
三上がすぐに蓮の腕を掴む。
「返事するな」
「え?」
「何があっても、名前を呼ばれて返事をするな」
三上の顔は青ざめていた。
「なんでですか」
「十七年前……俺は返事をした」
「先生が?」
「ああ」
「何て呼ばれたんです?」
三上は答えようとしたが、そこで言葉が止まった。
「……思い出せない」
「自分の名前ですよ?」
「違う。俺の名前じゃなかった」
蓮は眉をひそめる。
「じゃあ何で返事したんですか」
「分からないんだ。ただ、その時は確かに自分の名前だと思った」
再びスピーカーから呼び声が響く。
『神谷蓮』
廊下の蓮たちが次々と返事をする中、三上は額を押さえた。
「その翌日、クラスから一人消えた」
◇
今度の呼び声は、少しだけ調子が違っていた。
『神谷蓮。返事をしてください』
蓮は黙る。
すると、廊下に立っていたもう一人の蓮が笑った。
「返事しろよ。名前呼ばれてるぞ」
「嫌だ」
「俺はもうしたよ」
相手は自分の胸を指す。
「だから俺は神谷蓮だ」
「何人いるんだよ、お前たちは」
「さあ」
「じゃあ何なんだ」
「神谷蓮」
「それは名前だろ」
相手は一歩近づいた。
「じゃあお前は、名前以外で自分が自分だって証明できる?」
蓮は答えられなかった。
「家族?」
もう一歩。
「記憶?」
「……」
「写真?」
「……」
「記録?」
相手は黒板に表示された**『死亡確認済み』**という文字へ視線を向け、薄く笑った。
「その全部が書き換えられるのに?」
◇
「もういい。戻るぞ」
三上が言った。
「でも0組の中をまだ見てません」
「見る必要はない」
「あります」
「神谷!」
「雨宮がここにいた理由も、十七年前の俺も、昨日の屋上も、全部ここにあるかもしれない」
三上は蓮を見つめた。
「真実を知ることが、いつでも正しいとは限らない」
「先生は十七年間、知らないふりをしてきたんですよね」
三上の表情が変わる。
「それで終わりました?」
答えはなかった。
「終わってないから、俺がここにいるんです」
蓮は0組の扉へ視線を向けた。
◇
中へ入ると、0組は一見すると普通の教室だった。
机。
椅子。
黒板。
教卓。
時計。
ただし窓が一つもなく、机の数は三十三個。
「また三十三」
蓮が呟く。
「うちのクラスと同じ」
「違うよ」
栞が言った。
「何が?」
「机じゃなくて、椅子を数えて」
蓮はもう一度数える。
一つ。
二つ。
三つ。
そして最後まで。
「……三十四?」
一脚だけ多い。
しかも教室の一番後ろ、その椅子だけ机がなく、壁へ向けて置かれていた。
「何これ」
三上の顔色が変わる。
「……あった」
「十七年前も?」
「ああ」
「この教室に来たことあるんですね」
「一度だけ」
「消えた生徒と?」
三上は答えなかった。
蓮は最後尾まで近づいた。
椅子の正面にある壁には、爪か何かで削るように文字が刻まれている。
『ここに座ると忘れられる』
「……」
蓮が手を伸ばそうとすると、三上が叫んだ。
「触るな!」
「座りませんよ」
「本当に?」
「大丈夫です」
しかし、栞だけは椅子から目を離せずにいた。
「雨宮?」
「これ、知ってる」
「なんで」
栞は小さく息を吸った。
「私、昨日ここに座ったから」
◇
「それで消えたのか?」
「たぶん」
「なんで座ったんだよ!」
「仕方なかったの」
「何が?」
栞はようやく、昨日の屋上について話し始めた。
「神谷君からメッセージが来た」
「俺から?」
「うん。学校に来て、屋上で待ってるって」
第一章で、蓮自身の端末に残っていた悠真へのメッセージと同じ言葉だった。
「何時?」
「十一時四十分くらい」
「俺、覚えてない」
「分かってる」
「それでも何で行ったんだ」
栞は少し迷った。
「その前の日に、神谷君から相談されてたから」
「何を?」
「自分が……二人いるかもしれないって」
蓮は動けなくなった。
「俺が?」
「うん」
「いつ」
「八月三十一日」
「新学期が始まる前?」
「その日、神谷君は私に一枚の写真を見せた」
「どんな写真?」
「自分の部屋。ベッドで寝てる神谷君が写ってた」
「……」
「しかも、その写真を撮った場所は部屋の中だった」
蓮の背中に寒気が走る。
「誰が撮ったんだ」
「分からない」
「俺はその話をまったく覚えてない」
「そうだと思う」
「なんで?」
栞は蓮を見た。
「九月一日の朝、神谷君は全部忘れてたから」
◇
蓮は頭を押さえた。
「待って。九月一日、俺は普通に学校へ来た?」
「来た」
「お前とも話した?」
「話した」
「何を?」
「その写真のこと」
「俺は?」
「何も覚えてなかった」
「……」
「だから私も、前の日の話は冗談だったのかなって思った。でもその夜、また神谷君から屋上へ来てってメッセージが届いた」
「それで行った」
「うん」
蓮は息を呑んだ。
「そこに三人の俺がいた?」
栞は静かに頷いた。
三上も言葉を挟まず聞いている。
「詳しく教えて」
「一人目はフェンスの近くに立ってた。二人目は給水塔のそば。三人目は……倒れてた」
蓮は最初に届いた写真を思い出した。
「じゃあ最初の写真は、その三人目?」
「たぶん。でも顔までは分からない」
「三人とも同じ顔だった?」
「……うん」
「何してた?」
「言い争ってた」
「何を?」
栞は目を閉じた。
「どっちが本物か」
◇
昨日、午後十一時五十八分。
屋上には三人の神谷蓮がいた。
一人が、
『俺が先だ』
と言い、もう一人が、
『違う。お前は昨日作られた』
と返し、三人目は、
『二人とも違う』
と否定していた。
栞は階段の陰から、そのやり取りを見ていたという。
「そのあと?」
「一人が写真を出した」
「どんな?」
「十七年前の集合写真」
蓮は地下二階の壁に掛かっていた写真を思い出す。
「そこにも神谷君がいた」
「俺が?」
「うん。三人とも、自分がその写真に写ってる神谷蓮だって言ってた」
「……」
「それから倒れてた人なんだけど」
「神谷蓮じゃなかった」
「そう」
「第二章で見せられた、知らない男子?」
「うん」
「誰なの?」
栞は答えられなかった。
「私も、名前だけ思い出せない」
◇
「顔は?」
「覚えてる」
「髪は?」
「黒」
「学年は?」
「同じくらい」
「制服は?」
「この学校」
「名前だけが消えてる?」
「うん」
蓮は嫌な予感を覚え、鞄から写真を取り出した。
「この人?」
屋上。
三人の神谷蓮。
倒れている知らない男子。
栞が写真を見る。
「そう、この人」
蓮も同じ場所を見る。
しかし。
「……あれ?」
「どうした?」
「顔が」
さっきまで確かに写っていたはずの男子生徒の顔が、薄くぼやけている。
「消えてる」
三上も近づく。
数秒見ているうちに、その輪郭はさらに薄くなった。
「待って」
蓮は写真そのものをスマートフォンで撮影し、すぐ保存画像を開いた。
表示された写真。
屋上。
三人の蓮。
しかし。
倒れていた男子生徒はいない。
「……」
「消えた」
栞が小さく呟く。
「完全に忘れられたんだ」
その瞬間、0組の黒板に白い文字が浮かび上がった。
『欠席者 一名』
続いて。
『氏名――未登録』
◇
「この人が十七年前に消えた生徒?」
蓮が尋ねると、三上は首を横に振った。
「分からない」
「でも、この人を見て何か感じません?」
三上は、ほとんど人影しか残っていない写真を見つめた。
「……」
「先生?」
突然、三上の目から涙が落ちた。
「え?」
三上自身が驚いている。
「なんで……」
「知ってる人なんですか?」
「分からない」
「でも」
「分からない!」
三上は写真から目を逸らし、自分の胸を押さえた。
「顔も名前も何も覚えてないのに……悲しいんだ」
蓮は何も言えなかった。
記憶そのものは消えている。
けれど、その人物に向けていた感情だけは残っている。
「友達だったんじゃないですか」
「……かもしれない」
◇
教卓の引き出しを開けると、古びた紙の束が出てきた。
「出席簿?」
三上が手に取る。
表紙には、
平成21年度
と書かれている。
「十七年前」
ページを開く。
学年は二年。
組は。
0組
「0組って、本当に正式なクラスだったんですか」
「いや、そんなクラスは存在してない」
「じゃあ、これは何なんですか」
生徒一覧には一番から三十二番まで名前が並び、その最後に三十三番。
神谷蓮
「……」
現在の蓮と同じ名前。
さらに住所は現在の自宅。
保護者欄には、
神谷香織
「母さん?」
十七年前なら、現在の香織もまだ高校生くらいのはずだ。
「ありえない」
「続き見て」
栞が言う。
生年月日まで、現在の蓮と完全に一致していた。
「全部同じ……」
しかし蓮は、別の欄に気づいた。
「出席日数」
四月。
0。
五月。
0。
六月。
0。
七月。
0。
そして九月一日だけ。
1
「一日しか学校に来てない」
三上の表情が変わった。
「俺が消えた日?」
「違う」
「何が?」
三上は頭を押さえた。
「十七年前、消えたのは九月二日だった」
蓮は出席簿を見る。
九月一日。
神谷蓮、出席。
翌日。
一人消える。
「同じだ」
栞が言った。
「今回と」
◇
蓮はさらにページをめくり、最後の備考欄を開いた。
『転入処理未完了』
その下。
『既存生徒との重複を確認』
「重複?」
さらに。
『氏名・生年月日・家族構成・住所――完全一致』
蓮は思わず顔を上げた。
「同じ人間が二人いた?」
次の行だけは赤い文字。
『一名を削除してください。』
栞が息を呑む。
三上も一歩後ろへ下がった。
「誰がこんなことを書いたんだ」
しかし答えはない。
その下には、さらに小さな文字が残っている。
『削除基準――記憶保持人数』
「記憶?」
栞が眉をひそめる。
蓮は少し考えた。
「覚えてる人間が多い方が残るってこと?」
「じゃあ、少ない方は?」
三上が言った瞬間、黒板へ新しい文字が現れた。
『欠席扱い』
さらに。
『欠席が七日間継続した場合、在籍記録を削除します。』
◇
「七日……」
蓮が呟いた。
「何?」
栞が見る。
「雨宮、お前が消えたのは昨日だ」
「……うん」
「なら今日が一日目?」
その瞬間、黒板に名前が表示された。
雨宮栞
続いて。
欠席日数 1
栞が後ずさる。
「七日後には、お前は完全に消えるのか?」
「やめて」
「でも」
「言わないで!」
黒板。
残り6日
「神谷君……」
「大丈夫」
「何が大丈夫なの!」
「俺が覚えてる」
「一人じゃ足りない」
蓮は止まった。
「知ってるの?」
栞は口元を押さえた。
「何人必要なんだ」
「……」
「雨宮」
栞は小さな声で答えた。
「三十三人」
「え?」
「クラス全員」
◇
「だから三十三?」
「うん」
「三十三人全員が覚えてれば、お前は残れる?」
「たぶん」
「だったら簡単じゃん」
「無理だよ」
「なんで」
「もう私の席がない」
「作ればいい」
「名簿にもいない」
「書けばいい」
「みんなの記憶にも私はいない!」
栞の目に涙が浮かぶ。
「神谷君だけなの。今、私を覚えてるのは」
「だったら――」
「無理だよ」
「まだやってないだろ!」
「やった!」
栞が叫んだ。
「昨日、クラスのみんなに一人ずつ電話した!」
蓮は何も言えなくなる。
「誰も私を覚えてなかった。お母さんも、お父さんも。家に帰ったら、私の部屋もなくなってた」
声が震える。
「家族写真にも私がいなかった」
それでも栞は無理に笑おうとした。
「だからもう、私は存在してないんだよ」
「ここにいる!」
蓮の声が教室へ響いた。
栞が顔を上げる。
「俺には見えてる。話せる。覚えてる」
蓮は黒板を見る。
雨宮栞 欠席日数1
「六日ある」
「神谷君」
「六日もあるんだ。戻す方法を探す」
◇
その時、教室の時計が止まった。
午後六時十三分。
一秒後。
秒針が逆回転し始める。
十二。
十一。
十。
「先生」
「教室を出るぞ!」
三上が扉へ向かったが、開かない。
「開かない!」
窓もない。
逃げ道はない。
そしてスピーカーから再び機械音が流れた。
『出席確認を再開します』
「返事するな!」
『雨宮栞』
栞が震える。
『雨宮栞』
沈黙。
『欠席』
黒板。
1。
続いて。
『高城悠真』
蓮が顔を上げた。
「なんで悠真?」
『高城悠真』
誰も返事をしていないのに。
黒板には、
出席
「いないのに出席?」
三上も眉をひそめる。
次。
『三上智也』
三上の顔が変わる。
「俺?」
「返事しないでください」
三上は黙った。
数秒後。
『欠席』
三上智也 欠席日数1
「先生!」
「大丈夫だ」
そして。
『神谷蓮』
教室が静まり返った。
『神谷蓮』
蓮は黙る。
しかし教室の後ろから。
「はい」
声。
いつの間にか最後列に、もう一人の蓮が座っている。
『出席』
黒板。
神谷蓮 出席
「……待て」
蓮が呟く。
再び。
『神谷蓮』
「はい」
別の席。
もう一人。
『出席』
さらに。
『神谷蓮』
「はい」
一人、また一人と神谷蓮が増えていく。
そして最後。
『神谷蓮』
今度は現在の蓮へ向けられた呼び声だった。
誰も返事をしない。
『神谷蓮。返事をしてください』
栞が蓮の腕を掴んだ。
「ダメ」
「分かってる」
黒板。
未確認
続いて。
欠席処理を開始します
「まずい!」
三上が叫んだ。
蓮の机が、ゆっくりと薄くなり始める。
自分の体はまだそこにある。
しかし胸ポケットから学生証を取り出すと、神谷蓮という文字が少しずつ消えかけていた。
蓮は理解する。
返事をすれば、ここにいる数多くの神谷蓮の一人として登録される。
しかし返事をしなければ、自分の存在そのものが欠席扱いにされる。
「どうすればいい……」
スピーカー。
『最終確認』
返事。
名前。
出席。
記録。
重複。
記憶。
蓮は急に顔を上げた。
「……そうか」
「神谷君?」
「雨宮、名前って本人が答えなくてもいいんじゃないか?」
「え?」
蓮は栞を見る。
「俺がお前を呼ぶ」
そして大きな声で叫んだ。
「雨宮栞!」
黒板に変化はない。
「雨宮栞!」
「神谷君」
「雨宮栞!」
三回。
四回。
「雨宮栞!」
栞は泣きながら返事をした。
「はい!」
黒板。
エラー。
欠席。
出席。
また欠席。
点滅する。
スピーカー。
『登録されていない生徒です』
「登録しろ!」
『登録できません』
「なんで!」
『記憶保持人数が不足しています』
「何人いる!」
『現在――1名』
「俺だけ……」
蓮は歯を食いしばった。
その時。
「雨宮栞」
三上の声。
蓮が振り返る。
「先生?」
三上は栞をまっすぐ見た。
「俺も覚える」
「でも先生、私を知らない」
「今知った。それなら記憶は記憶だろ」
もう一度。
「雨宮栞」
黒板。
記憶保持人数 2
「増えた!」
栞も驚いて画面を見る。
三上は蓮へ言った。
「神谷、一人ずつ覚えさせるんだ」
「三十三人」
「ああ」
「六日で」
「できるか」
「やります」
栞は泣きながら、ほんの少し笑った。
「無茶苦茶」
「知ってる」
◇
再びスピーカーが鳴る。
『神谷蓮』
蓮は自分の名前が表示された黒板を見る。
未確認。
しかし教室内にいる他の神谷蓮は全員出席扱いになっている。
「俺も同じなのか……」
「何が?」
栞が尋ねる。
「俺も誰かに覚えてもらわないと存在できない?」
黒板の端に、新しい項目が表示された。
記憶保持人数
その下。
神谷蓮――32
蓮は近づく。
「……三十二」
「何が?」
「俺を覚えてる人間の数」
「クラスの人数?」
「たぶん。でも三十三じゃない」
「一人足りない」
その一人は誰なのか。
悠真。
母。
美月。
三上。
栞。
少なくとも今は、みんな蓮のことを覚えている。
「三十三人目が、十七年前に消えた人間だとしたら?」
三上が言った。
「え?」
「お前という存在を完全にするには、十七年前の誰かの記憶が必要なのかもしれない」
蓮は集合写真を思い出した。
顔を黒く塗り潰された男子生徒。
「まさか……」
その瞬間。
教室最後尾にある、机のない椅子が軋んだ音を立てた。
ギィ。
壁へ向いていた椅子が、自分で動くようにこちらへ向く。
そこに。
一人の男子生徒が座っていた。
顔が黒く、見えない。
三上が息を呑む。
男子生徒はゆっくり顔を上げる。
「三上」
三上の体が震えた。
「俺を……思い出した?」
その瞬間、三上の目から涙が落ちた。
「お前……」
「先生?」
蓮が見る。
三上は頭を押さえる。
「名前……」
「分かるんですか?」
「もう少し」
男子生徒は静かに首を横に振った。
「思い出さなくていい」
「なんで」
「思い出したら、今度は神谷蓮が消える」
◇
「どういう意味だ」
蓮が尋ねる。
男子生徒は答えた。
「名前には席がある。一人分しかない」
「何の話だよ」
「十七年前、俺の席に神谷蓮が座った」
「俺が?」
「そう」
「でも俺は生まれてない!」
「今のお前はな」
蓮は言葉を失った。
「じゃあ、誰なんだよ」
男子生徒は答えない。
代わりに机の上へ古い新聞記事を置いた。
十七年前。
見出し。
『高校生失踪事件』
九月二日、市内の高校へ通う二年生男子が行方不明となり、家族から届け出が出された。学校から帰宅しなかったという。
しかし氏名だけが黒く消えている。
「名前が読めない」
三上が新聞へ近づく。
「待て」
「何です?」
「俺、この事件覚えてる」
「名前を?」
「違う。失踪した日だ」
三上の声が震えた。
「俺、その日にそいつと一緒に地下へ来た」
◇
十七年前。
三上と、名前の消えた男子生徒。
二人で0組へ来た。
B2・0の鍵を使って。
「それから?」
蓮が尋ねる。
「ここで出席を取られた」
「先生が知らない名前に返事したんですよね」
「ああ」
「その名前は?」
三上の目が大きくなる。
「……神谷」
「え?」
「神谷蓮」
蓮の心臓が跳ねた。
「先生が神谷蓮って呼ばれて返事をした?」
「ああ」
「じゃあ……」
三上は頭を押さえた。
「でも、その瞬間、隣にいた奴が俺に何か言った」
椅子に座る男子生徒が首を横に振る。
「やめろ」
三上は続ける。
「お前、俺に言った」
「三上、やめろ!」
そして、十七年前の言葉を思い出した。
『それ、俺の名前だ』
蓮の体が凍りついた。
◇
男子生徒の顔を覆っていた黒い部分が、少しずつ剥がれていく。
口。
鼻。
目。
髪。
そして顔。
蓮は息を止めた。
「……俺?」
十七年前に消えた男子生徒の顔は、現在の蓮によく似ていた。
しかし完全に同じではない。
三上は涙を流しながら呟く。
「思い出した」
「名前を?」
三上はその男子生徒を見る。
「お前は……神谷蓮じゃない」
蓮の表情が変わる。
「え?」
「お前の本当の名前は――」
その瞬間、警報が鳴り響いた。
ビーッ!
黒板へ赤い文字。
記憶復元を検知
削除処理を開始します
「先生!」
「何だこれ!」
男子生徒が立ち上がる。
「逃げろ!」
「名前!」
蓮は叫んだ。
「本当の名前は何なんだ!」
「聞くな!」
「なんで!」
「知ったら、お前の記憶が戻る!」
「戻って何が悪い!」
教室の壁に亀裂のような線が走る。
男子生徒が叫んだ。
「昨日、人を殺したのが誰かまで思い出す!」
蓮は固まった。
屋上。
三人の自分。
知らない男子。
栞。
血痕。
「俺が?」
「違う!」
「じゃあ誰なんだよ!」
男子生徒は蓮を見た。
「それを、お前自身が忘れることを選んだんだ!」
◇
床が大きく揺れた。
「走れ!」
三上が扉を開ける。
栞、蓮、三上の三人は教室を飛び出した。
後ろでは無数の神谷蓮たちが一斉に席を立つ。
「追ってくる!」
「見るな!」
三人は階段を駆け上がる。
B2。
B1。
しかし。
「先生!」
どれだけ上がっても、階数表示がB2へ戻る。
「ループしてる!」
「別の道を探すぞ!」
廊下。
資料室。
機械室。
突き当たり。
そこで栞が立ち止まった。
「ここ」
「何?」
「昨日通った」
「どこへ?」
「屋上」
蓮は理解できなかった。
「地下から?」
「うん」
栞が壁の一部を押すと、そこに隠された扉が開いた。
「なんで地下と屋上が繋がってるんだよ」
「分からない!」
三人は暗い階段へ飛び込み、ひたすら上へ走った。
◇
扉を開けた瞬間、冷たい夜風が吹き込んできた。
「……屋上」
時刻は午後六時三十分。
空にはまだ夕暮れの色が残っている。
「戻った……」
三上が息を整える。
「本当に?」
蓮は周囲を見回した。
フェンス。
給水塔。
ベンチ。
最初の写真と同じ場所。
「ここ、昨日の……」
栞が呟く。
蓮はフェンスの近くまで歩いた。
血痕はもう残っていない。
「何もない」
その時。
「神谷君」
「何?」
栞が床を指している。
そこには一枚の写真が落ちていた。
「……またか」
蓮が拾う。
写真に写っているのは現在の屋上。
蓮。
栞。
三上。
三人が並んでいる。
「誰が撮ったんだ」
端に記された撮影日時。
九月三日 18:31
蓮はスマートフォンの時計を見る。
18:30
「一分後?」
三上が写真を覗く。
「未来の写真か?」
写真の中では、栞が何かを指差している。
「何を指してる?」
現在の栞は首を振る。
「知らない」
指の先は屋上の入り口。
蓮たちは振り返った。
まだ誰もいない。
「一分前だから……」
蓮が時刻を見る。
18:30:42。
43。
44。
「待つな。帰るぞ」
三上が言う。
50。
51。
「先生」
「見る必要はない!」
55。
56。
57。
58。
59。
18:31。
その瞬間、栞が息を呑んだ。
「神谷君」
「何?」
栞の右手がゆっくり上がる。
「私、動かしてない」
「どうした?」
「勝手に……」
指が屋上入り口へ向く。
写真とまったく同じ。
次の瞬間。
ギィ、と音を立てて扉が開いた。
◇
一人の男子生徒が入ってきた。
制服。
黒い髪。
蓮によく似た顔。
「また俺……?」
しかし、それまで現れていた神谷蓮とは少し違う。
左頬に小さな傷がある。
そして手には一枚の学生証を持っていた。
「誰だ」
相手は何も答えず、学生証を蓮へ投げた。
拾う。
名前。
神谷蓮
生年月日も住所も同じ。
しかし写真に写っている顔は、今の蓮ではない。
「何人いるんだよ」
蓮が尋ねる。
相手は静かに答えた。
「俺で最後」
「何?」
「昨日は三人いた」
相手が一歩近づく。
「今日は二人になった」
蓮の顔色が変わる。
「一人は?」
「消えた」
「誰が消した」
「お前」
「またそれかよ!」
「思い出せ」
「何を!」
「昨日、お前は自分で自分の記憶を消した」
「なんで」
「犯人を守るため」
「誰を?」
相手は答えない。
「雨宮?」
栞が驚いた顔をする。
「俺の家族?」
沈黙。
「悠真?」
沈黙。
「先生?」
三上も息を呑む。
男子生徒はゆっくり笑った。
「違う」
「じゃあ誰なんだよ!」
男は蓮を指差した。
「お前が守ったのは神谷蓮だ」
「……俺?」
「だからお前は忘れたんだ」
一歩。
「自分が、どの神谷蓮なのかを」
◇
その瞬間、蓮の頭の中を一つの映像が走った。
昨日の屋上。
三人の神谷蓮。
栞。
名前の分からない男子。
誰かが叫ぶ。
『やめろ! そいつは神谷蓮じゃない!』
別の誰かが泣いている。
『だったら誰なの!』
そして自分の声。
『忘れてくれ』
誰に言っている?
栞ではない。
『俺のことを』
続いて自分の手が、誰かの学生証を握っている。
そこには神谷蓮ではない別の名前。
最初の一文字。
高
「……高?」
蓮が顔を上げる。
目の前の男子の表情が変わった。
「思い出すな」
「高……何?」
「やめろ」
「俺の名前?」
「やめろ!」
「俺は神谷蓮じゃ――」
その瞬間、頭を割られるような痛みに蓮は顔を歪めた。
そして同時にスマートフォンが鳴る。
着信。
高城悠真
「悠真?」
すぐに出る。
「もしもし」
『……』
「悠真?」
『蓮』
「どうした」
悠真の声は震えていた。
『今どこ?』
「学校」
『誰といる』
「雨宮と三上先生」
『雨宮?』
「説明はあと」
『蓮』
「何?」
悠真は少し間を置いて言った。
『俺、さっき家で昔の写真を見つけた』
「昔?」
『幼稚園の』
「それが?」
『俺と、お前が写ってる』
「普通じゃん」
『違うんだよ』
「何が」
『写真の裏に、母さんの字で名前が書いてある』
蓮は嫌な予感を覚えた。
「何て」
悠真は息を整える。
『俺の隣にいるお前、神谷蓮じゃない』
蓮の指が震えた。
「じゃあ何て書いてある」
悠真は答えた。
『高城悠真』
「……は?」
『それで』
悠真の声は泣きそうに震えていた。
『俺の方には、神谷蓮って書いてある』
世界が止まったように感じた。
蓮は何も言えない。
目の前に立っていた、左頬に傷のあるもう一人の神谷蓮が静かに笑った。
「ようやく」
そして。
「名前が逆だったことに気づいたな」
◇
夕暮れの屋上。
神谷蓮。
高城悠真。
二つの名前。
二人の幼なじみ。
十七年前の失踪事件。
0組。
そして昨日の屋上。
今まで別々に見えていたものが、少しずつ同じ一本の線につながり始めている。
蓮はスマートフォンを握ったまま、初めて自分自身へ本気で問いかけた。
もし自分が神谷蓮ではないのなら。
本当の神谷蓮は誰なのか。
そして、自分は本当は誰なのか。
電話の向こうで悠真が続ける。
『蓮』
「……何」
『もう一枚ある』
「何が?」
『写真』
「……」
『十七年前の学校の写真』
蓮の胸がざわつく。
『そこに俺たち二人が写ってる』
あり得ない。
二人とも十七年前にはまだ生まれていない。
それでも蓮の頭には、地下二階で見た集合写真が蘇っていた。
十七年前。
三十三人。
顔を黒く塗り潰された一人。
そして神谷蓮。
もしその写真の中に高城悠真までいるのなら、名前が入れ替わったのは幼い頃ではなく、もっとずっと前から繰り返されてきた可能性がある。
自分たちが生まれるよりも前から。
神谷蓮と高城悠真という二つの名前が、この学校で誰かから誰かへ渡され続けていたのだとしたら。
十七年前に消えた人物を見つけなければならない。
その人物が誰だったのかを思い出さなければ、自分たちの名前がなぜ入れ替わっているのかも、昨日の屋上で何が起きたのかも分からない。
そして、その答えはきっと。
十七年前の集合写真の中にある。
――第四章「0組」へ続く。
『神谷蓮 死亡確認済み』
0組の黒板に浮かび上がったその文字を、蓮はしばらく黙ったまま見つめていた。
意味が分からないわけではない。むしろ、書かれている内容があまりにも明確だからこそ、理解したくなかった。
「十七年前……俺が?」
現在、蓮は十七歳だ。
十七年前なら、生まれてすらいない。
それなのに、存在しないはずの地下二階、そのさらに奥に現れた0組の黒板には、確かに神谷蓮という名前が記され、生年月日も住所も現在の自分と一致していた。
そして最後には、
死亡日――九月一日
とまで書かれている。
「神谷君」
栞の声に振り返ると、彼女は不安そうに廊下を見ていた。
「ここにいちゃダメ。早く出よう」
「その前に聞かせて」
「何?」
「雨宮、お前は何を知ってる?」
栞は答えなかった。
「昨日の屋上にいたんだろ」
「……」
「三人の俺を見た」
「……うん」
「だったら教えてくれ。何があったんだ」
栞は目を逸らした。
「言えない」
「なんで」
「言ったら、神谷君が変わるから」
「もう十分変だよ!」
蓮の声が地下の廊下へ響いた。
「昨日死んだって写真が届いて、存在しないクラスメイトがいて、十七年前にも俺がいて、目の前には俺と同じ顔をした人間が何人もいる。これ以上、何が変わるんだよ」
廊下の奥には無数の神谷蓮が立っていて、全員が同じ顔でこちらを見ている。
栞はしばらく唇を噛んでいたが、やがて覚悟を決めたように蓮を見る。
「自分が誰なのか」
「え?」
「それを知ったら、たぶん今までと同じ神谷君ではいられなくなる」
◇
その時、廊下のスピーカーからノイズが流れた。
ザーッという音のあと、感情のない機械音声が響く。
『出席確認を続けます』
続いて。
『神谷蓮』
廊下に立つ無数の蓮が、一斉に返事をした。
「はい」
「はい」
「はい」
「はい」
同じ声が何重にも重なり、蓮は反射的に耳を塞いだ。
「何なんだよ、これ!」
三上がすぐに蓮の腕を掴む。
「返事するな」
「え?」
「何があっても、名前を呼ばれて返事をするな」
三上の顔は青ざめていた。
「なんでですか」
「十七年前……俺は返事をした」
「先生が?」
「ああ」
「何て呼ばれたんです?」
三上は答えようとしたが、そこで言葉が止まった。
「……思い出せない」
「自分の名前ですよ?」
「違う。俺の名前じゃなかった」
蓮は眉をひそめる。
「じゃあ何で返事したんですか」
「分からないんだ。ただ、その時は確かに自分の名前だと思った」
再びスピーカーから呼び声が響く。
『神谷蓮』
廊下の蓮たちが次々と返事をする中、三上は額を押さえた。
「その翌日、クラスから一人消えた」
◇
今度の呼び声は、少しだけ調子が違っていた。
『神谷蓮。返事をしてください』
蓮は黙る。
すると、廊下に立っていたもう一人の蓮が笑った。
「返事しろよ。名前呼ばれてるぞ」
「嫌だ」
「俺はもうしたよ」
相手は自分の胸を指す。
「だから俺は神谷蓮だ」
「何人いるんだよ、お前たちは」
「さあ」
「じゃあ何なんだ」
「神谷蓮」
「それは名前だろ」
相手は一歩近づいた。
「じゃあお前は、名前以外で自分が自分だって証明できる?」
蓮は答えられなかった。
「家族?」
もう一歩。
「記憶?」
「……」
「写真?」
「……」
「記録?」
相手は黒板に表示された**『死亡確認済み』**という文字へ視線を向け、薄く笑った。
「その全部が書き換えられるのに?」
◇
「もういい。戻るぞ」
三上が言った。
「でも0組の中をまだ見てません」
「見る必要はない」
「あります」
「神谷!」
「雨宮がここにいた理由も、十七年前の俺も、昨日の屋上も、全部ここにあるかもしれない」
三上は蓮を見つめた。
「真実を知ることが、いつでも正しいとは限らない」
「先生は十七年間、知らないふりをしてきたんですよね」
三上の表情が変わる。
「それで終わりました?」
答えはなかった。
「終わってないから、俺がここにいるんです」
蓮は0組の扉へ視線を向けた。
◇
中へ入ると、0組は一見すると普通の教室だった。
机。
椅子。
黒板。
教卓。
時計。
ただし窓が一つもなく、机の数は三十三個。
「また三十三」
蓮が呟く。
「うちのクラスと同じ」
「違うよ」
栞が言った。
「何が?」
「机じゃなくて、椅子を数えて」
蓮はもう一度数える。
一つ。
二つ。
三つ。
そして最後まで。
「……三十四?」
一脚だけ多い。
しかも教室の一番後ろ、その椅子だけ机がなく、壁へ向けて置かれていた。
「何これ」
三上の顔色が変わる。
「……あった」
「十七年前も?」
「ああ」
「この教室に来たことあるんですね」
「一度だけ」
「消えた生徒と?」
三上は答えなかった。
蓮は最後尾まで近づいた。
椅子の正面にある壁には、爪か何かで削るように文字が刻まれている。
『ここに座ると忘れられる』
「……」
蓮が手を伸ばそうとすると、三上が叫んだ。
「触るな!」
「座りませんよ」
「本当に?」
「大丈夫です」
しかし、栞だけは椅子から目を離せずにいた。
「雨宮?」
「これ、知ってる」
「なんで」
栞は小さく息を吸った。
「私、昨日ここに座ったから」
◇
「それで消えたのか?」
「たぶん」
「なんで座ったんだよ!」
「仕方なかったの」
「何が?」
栞はようやく、昨日の屋上について話し始めた。
「神谷君からメッセージが来た」
「俺から?」
「うん。学校に来て、屋上で待ってるって」
第一章で、蓮自身の端末に残っていた悠真へのメッセージと同じ言葉だった。
「何時?」
「十一時四十分くらい」
「俺、覚えてない」
「分かってる」
「それでも何で行ったんだ」
栞は少し迷った。
「その前の日に、神谷君から相談されてたから」
「何を?」
「自分が……二人いるかもしれないって」
蓮は動けなくなった。
「俺が?」
「うん」
「いつ」
「八月三十一日」
「新学期が始まる前?」
「その日、神谷君は私に一枚の写真を見せた」
「どんな写真?」
「自分の部屋。ベッドで寝てる神谷君が写ってた」
「……」
「しかも、その写真を撮った場所は部屋の中だった」
蓮の背中に寒気が走る。
「誰が撮ったんだ」
「分からない」
「俺はその話をまったく覚えてない」
「そうだと思う」
「なんで?」
栞は蓮を見た。
「九月一日の朝、神谷君は全部忘れてたから」
◇
蓮は頭を押さえた。
「待って。九月一日、俺は普通に学校へ来た?」
「来た」
「お前とも話した?」
「話した」
「何を?」
「その写真のこと」
「俺は?」
「何も覚えてなかった」
「……」
「だから私も、前の日の話は冗談だったのかなって思った。でもその夜、また神谷君から屋上へ来てってメッセージが届いた」
「それで行った」
「うん」
蓮は息を呑んだ。
「そこに三人の俺がいた?」
栞は静かに頷いた。
三上も言葉を挟まず聞いている。
「詳しく教えて」
「一人目はフェンスの近くに立ってた。二人目は給水塔のそば。三人目は……倒れてた」
蓮は最初に届いた写真を思い出した。
「じゃあ最初の写真は、その三人目?」
「たぶん。でも顔までは分からない」
「三人とも同じ顔だった?」
「……うん」
「何してた?」
「言い争ってた」
「何を?」
栞は目を閉じた。
「どっちが本物か」
◇
昨日、午後十一時五十八分。
屋上には三人の神谷蓮がいた。
一人が、
『俺が先だ』
と言い、もう一人が、
『違う。お前は昨日作られた』
と返し、三人目は、
『二人とも違う』
と否定していた。
栞は階段の陰から、そのやり取りを見ていたという。
「そのあと?」
「一人が写真を出した」
「どんな?」
「十七年前の集合写真」
蓮は地下二階の壁に掛かっていた写真を思い出す。
「そこにも神谷君がいた」
「俺が?」
「うん。三人とも、自分がその写真に写ってる神谷蓮だって言ってた」
「……」
「それから倒れてた人なんだけど」
「神谷蓮じゃなかった」
「そう」
「第二章で見せられた、知らない男子?」
「うん」
「誰なの?」
栞は答えられなかった。
「私も、名前だけ思い出せない」
◇
「顔は?」
「覚えてる」
「髪は?」
「黒」
「学年は?」
「同じくらい」
「制服は?」
「この学校」
「名前だけが消えてる?」
「うん」
蓮は嫌な予感を覚え、鞄から写真を取り出した。
「この人?」
屋上。
三人の神谷蓮。
倒れている知らない男子。
栞が写真を見る。
「そう、この人」
蓮も同じ場所を見る。
しかし。
「……あれ?」
「どうした?」
「顔が」
さっきまで確かに写っていたはずの男子生徒の顔が、薄くぼやけている。
「消えてる」
三上も近づく。
数秒見ているうちに、その輪郭はさらに薄くなった。
「待って」
蓮は写真そのものをスマートフォンで撮影し、すぐ保存画像を開いた。
表示された写真。
屋上。
三人の蓮。
しかし。
倒れていた男子生徒はいない。
「……」
「消えた」
栞が小さく呟く。
「完全に忘れられたんだ」
その瞬間、0組の黒板に白い文字が浮かび上がった。
『欠席者 一名』
続いて。
『氏名――未登録』
◇
「この人が十七年前に消えた生徒?」
蓮が尋ねると、三上は首を横に振った。
「分からない」
「でも、この人を見て何か感じません?」
三上は、ほとんど人影しか残っていない写真を見つめた。
「……」
「先生?」
突然、三上の目から涙が落ちた。
「え?」
三上自身が驚いている。
「なんで……」
「知ってる人なんですか?」
「分からない」
「でも」
「分からない!」
三上は写真から目を逸らし、自分の胸を押さえた。
「顔も名前も何も覚えてないのに……悲しいんだ」
蓮は何も言えなかった。
記憶そのものは消えている。
けれど、その人物に向けていた感情だけは残っている。
「友達だったんじゃないですか」
「……かもしれない」
◇
教卓の引き出しを開けると、古びた紙の束が出てきた。
「出席簿?」
三上が手に取る。
表紙には、
平成21年度
と書かれている。
「十七年前」
ページを開く。
学年は二年。
組は。
0組
「0組って、本当に正式なクラスだったんですか」
「いや、そんなクラスは存在してない」
「じゃあ、これは何なんですか」
生徒一覧には一番から三十二番まで名前が並び、その最後に三十三番。
神谷蓮
「……」
現在の蓮と同じ名前。
さらに住所は現在の自宅。
保護者欄には、
神谷香織
「母さん?」
十七年前なら、現在の香織もまだ高校生くらいのはずだ。
「ありえない」
「続き見て」
栞が言う。
生年月日まで、現在の蓮と完全に一致していた。
「全部同じ……」
しかし蓮は、別の欄に気づいた。
「出席日数」
四月。
0。
五月。
0。
六月。
0。
七月。
0。
そして九月一日だけ。
1
「一日しか学校に来てない」
三上の表情が変わった。
「俺が消えた日?」
「違う」
「何が?」
三上は頭を押さえた。
「十七年前、消えたのは九月二日だった」
蓮は出席簿を見る。
九月一日。
神谷蓮、出席。
翌日。
一人消える。
「同じだ」
栞が言った。
「今回と」
◇
蓮はさらにページをめくり、最後の備考欄を開いた。
『転入処理未完了』
その下。
『既存生徒との重複を確認』
「重複?」
さらに。
『氏名・生年月日・家族構成・住所――完全一致』
蓮は思わず顔を上げた。
「同じ人間が二人いた?」
次の行だけは赤い文字。
『一名を削除してください。』
栞が息を呑む。
三上も一歩後ろへ下がった。
「誰がこんなことを書いたんだ」
しかし答えはない。
その下には、さらに小さな文字が残っている。
『削除基準――記憶保持人数』
「記憶?」
栞が眉をひそめる。
蓮は少し考えた。
「覚えてる人間が多い方が残るってこと?」
「じゃあ、少ない方は?」
三上が言った瞬間、黒板へ新しい文字が現れた。
『欠席扱い』
さらに。
『欠席が七日間継続した場合、在籍記録を削除します。』
◇
「七日……」
蓮が呟いた。
「何?」
栞が見る。
「雨宮、お前が消えたのは昨日だ」
「……うん」
「なら今日が一日目?」
その瞬間、黒板に名前が表示された。
雨宮栞
続いて。
欠席日数 1
栞が後ずさる。
「七日後には、お前は完全に消えるのか?」
「やめて」
「でも」
「言わないで!」
黒板。
残り6日
「神谷君……」
「大丈夫」
「何が大丈夫なの!」
「俺が覚えてる」
「一人じゃ足りない」
蓮は止まった。
「知ってるの?」
栞は口元を押さえた。
「何人必要なんだ」
「……」
「雨宮」
栞は小さな声で答えた。
「三十三人」
「え?」
「クラス全員」
◇
「だから三十三?」
「うん」
「三十三人全員が覚えてれば、お前は残れる?」
「たぶん」
「だったら簡単じゃん」
「無理だよ」
「なんで」
「もう私の席がない」
「作ればいい」
「名簿にもいない」
「書けばいい」
「みんなの記憶にも私はいない!」
栞の目に涙が浮かぶ。
「神谷君だけなの。今、私を覚えてるのは」
「だったら――」
「無理だよ」
「まだやってないだろ!」
「やった!」
栞が叫んだ。
「昨日、クラスのみんなに一人ずつ電話した!」
蓮は何も言えなくなる。
「誰も私を覚えてなかった。お母さんも、お父さんも。家に帰ったら、私の部屋もなくなってた」
声が震える。
「家族写真にも私がいなかった」
それでも栞は無理に笑おうとした。
「だからもう、私は存在してないんだよ」
「ここにいる!」
蓮の声が教室へ響いた。
栞が顔を上げる。
「俺には見えてる。話せる。覚えてる」
蓮は黒板を見る。
雨宮栞 欠席日数1
「六日ある」
「神谷君」
「六日もあるんだ。戻す方法を探す」
◇
その時、教室の時計が止まった。
午後六時十三分。
一秒後。
秒針が逆回転し始める。
十二。
十一。
十。
「先生」
「教室を出るぞ!」
三上が扉へ向かったが、開かない。
「開かない!」
窓もない。
逃げ道はない。
そしてスピーカーから再び機械音が流れた。
『出席確認を再開します』
「返事するな!」
『雨宮栞』
栞が震える。
『雨宮栞』
沈黙。
『欠席』
黒板。
1。
続いて。
『高城悠真』
蓮が顔を上げた。
「なんで悠真?」
『高城悠真』
誰も返事をしていないのに。
黒板には、
出席
「いないのに出席?」
三上も眉をひそめる。
次。
『三上智也』
三上の顔が変わる。
「俺?」
「返事しないでください」
三上は黙った。
数秒後。
『欠席』
三上智也 欠席日数1
「先生!」
「大丈夫だ」
そして。
『神谷蓮』
教室が静まり返った。
『神谷蓮』
蓮は黙る。
しかし教室の後ろから。
「はい」
声。
いつの間にか最後列に、もう一人の蓮が座っている。
『出席』
黒板。
神谷蓮 出席
「……待て」
蓮が呟く。
再び。
『神谷蓮』
「はい」
別の席。
もう一人。
『出席』
さらに。
『神谷蓮』
「はい」
一人、また一人と神谷蓮が増えていく。
そして最後。
『神谷蓮』
今度は現在の蓮へ向けられた呼び声だった。
誰も返事をしない。
『神谷蓮。返事をしてください』
栞が蓮の腕を掴んだ。
「ダメ」
「分かってる」
黒板。
未確認
続いて。
欠席処理を開始します
「まずい!」
三上が叫んだ。
蓮の机が、ゆっくりと薄くなり始める。
自分の体はまだそこにある。
しかし胸ポケットから学生証を取り出すと、神谷蓮という文字が少しずつ消えかけていた。
蓮は理解する。
返事をすれば、ここにいる数多くの神谷蓮の一人として登録される。
しかし返事をしなければ、自分の存在そのものが欠席扱いにされる。
「どうすればいい……」
スピーカー。
『最終確認』
返事。
名前。
出席。
記録。
重複。
記憶。
蓮は急に顔を上げた。
「……そうか」
「神谷君?」
「雨宮、名前って本人が答えなくてもいいんじゃないか?」
「え?」
蓮は栞を見る。
「俺がお前を呼ぶ」
そして大きな声で叫んだ。
「雨宮栞!」
黒板に変化はない。
「雨宮栞!」
「神谷君」
「雨宮栞!」
三回。
四回。
「雨宮栞!」
栞は泣きながら返事をした。
「はい!」
黒板。
エラー。
欠席。
出席。
また欠席。
点滅する。
スピーカー。
『登録されていない生徒です』
「登録しろ!」
『登録できません』
「なんで!」
『記憶保持人数が不足しています』
「何人いる!」
『現在――1名』
「俺だけ……」
蓮は歯を食いしばった。
その時。
「雨宮栞」
三上の声。
蓮が振り返る。
「先生?」
三上は栞をまっすぐ見た。
「俺も覚える」
「でも先生、私を知らない」
「今知った。それなら記憶は記憶だろ」
もう一度。
「雨宮栞」
黒板。
記憶保持人数 2
「増えた!」
栞も驚いて画面を見る。
三上は蓮へ言った。
「神谷、一人ずつ覚えさせるんだ」
「三十三人」
「ああ」
「六日で」
「できるか」
「やります」
栞は泣きながら、ほんの少し笑った。
「無茶苦茶」
「知ってる」
◇
再びスピーカーが鳴る。
『神谷蓮』
蓮は自分の名前が表示された黒板を見る。
未確認。
しかし教室内にいる他の神谷蓮は全員出席扱いになっている。
「俺も同じなのか……」
「何が?」
栞が尋ねる。
「俺も誰かに覚えてもらわないと存在できない?」
黒板の端に、新しい項目が表示された。
記憶保持人数
その下。
神谷蓮――32
蓮は近づく。
「……三十二」
「何が?」
「俺を覚えてる人間の数」
「クラスの人数?」
「たぶん。でも三十三じゃない」
「一人足りない」
その一人は誰なのか。
悠真。
母。
美月。
三上。
栞。
少なくとも今は、みんな蓮のことを覚えている。
「三十三人目が、十七年前に消えた人間だとしたら?」
三上が言った。
「え?」
「お前という存在を完全にするには、十七年前の誰かの記憶が必要なのかもしれない」
蓮は集合写真を思い出した。
顔を黒く塗り潰された男子生徒。
「まさか……」
その瞬間。
教室最後尾にある、机のない椅子が軋んだ音を立てた。
ギィ。
壁へ向いていた椅子が、自分で動くようにこちらへ向く。
そこに。
一人の男子生徒が座っていた。
顔が黒く、見えない。
三上が息を呑む。
男子生徒はゆっくり顔を上げる。
「三上」
三上の体が震えた。
「俺を……思い出した?」
その瞬間、三上の目から涙が落ちた。
「お前……」
「先生?」
蓮が見る。
三上は頭を押さえる。
「名前……」
「分かるんですか?」
「もう少し」
男子生徒は静かに首を横に振った。
「思い出さなくていい」
「なんで」
「思い出したら、今度は神谷蓮が消える」
◇
「どういう意味だ」
蓮が尋ねる。
男子生徒は答えた。
「名前には席がある。一人分しかない」
「何の話だよ」
「十七年前、俺の席に神谷蓮が座った」
「俺が?」
「そう」
「でも俺は生まれてない!」
「今のお前はな」
蓮は言葉を失った。
「じゃあ、誰なんだよ」
男子生徒は答えない。
代わりに机の上へ古い新聞記事を置いた。
十七年前。
見出し。
『高校生失踪事件』
九月二日、市内の高校へ通う二年生男子が行方不明となり、家族から届け出が出された。学校から帰宅しなかったという。
しかし氏名だけが黒く消えている。
「名前が読めない」
三上が新聞へ近づく。
「待て」
「何です?」
「俺、この事件覚えてる」
「名前を?」
「違う。失踪した日だ」
三上の声が震えた。
「俺、その日にそいつと一緒に地下へ来た」
◇
十七年前。
三上と、名前の消えた男子生徒。
二人で0組へ来た。
B2・0の鍵を使って。
「それから?」
蓮が尋ねる。
「ここで出席を取られた」
「先生が知らない名前に返事したんですよね」
「ああ」
「その名前は?」
三上の目が大きくなる。
「……神谷」
「え?」
「神谷蓮」
蓮の心臓が跳ねた。
「先生が神谷蓮って呼ばれて返事をした?」
「ああ」
「じゃあ……」
三上は頭を押さえた。
「でも、その瞬間、隣にいた奴が俺に何か言った」
椅子に座る男子生徒が首を横に振る。
「やめろ」
三上は続ける。
「お前、俺に言った」
「三上、やめろ!」
そして、十七年前の言葉を思い出した。
『それ、俺の名前だ』
蓮の体が凍りついた。
◇
男子生徒の顔を覆っていた黒い部分が、少しずつ剥がれていく。
口。
鼻。
目。
髪。
そして顔。
蓮は息を止めた。
「……俺?」
十七年前に消えた男子生徒の顔は、現在の蓮によく似ていた。
しかし完全に同じではない。
三上は涙を流しながら呟く。
「思い出した」
「名前を?」
三上はその男子生徒を見る。
「お前は……神谷蓮じゃない」
蓮の表情が変わる。
「え?」
「お前の本当の名前は――」
その瞬間、警報が鳴り響いた。
ビーッ!
黒板へ赤い文字。
記憶復元を検知
削除処理を開始します
「先生!」
「何だこれ!」
男子生徒が立ち上がる。
「逃げろ!」
「名前!」
蓮は叫んだ。
「本当の名前は何なんだ!」
「聞くな!」
「なんで!」
「知ったら、お前の記憶が戻る!」
「戻って何が悪い!」
教室の壁に亀裂のような線が走る。
男子生徒が叫んだ。
「昨日、人を殺したのが誰かまで思い出す!」
蓮は固まった。
屋上。
三人の自分。
知らない男子。
栞。
血痕。
「俺が?」
「違う!」
「じゃあ誰なんだよ!」
男子生徒は蓮を見た。
「それを、お前自身が忘れることを選んだんだ!」
◇
床が大きく揺れた。
「走れ!」
三上が扉を開ける。
栞、蓮、三上の三人は教室を飛び出した。
後ろでは無数の神谷蓮たちが一斉に席を立つ。
「追ってくる!」
「見るな!」
三人は階段を駆け上がる。
B2。
B1。
しかし。
「先生!」
どれだけ上がっても、階数表示がB2へ戻る。
「ループしてる!」
「別の道を探すぞ!」
廊下。
資料室。
機械室。
突き当たり。
そこで栞が立ち止まった。
「ここ」
「何?」
「昨日通った」
「どこへ?」
「屋上」
蓮は理解できなかった。
「地下から?」
「うん」
栞が壁の一部を押すと、そこに隠された扉が開いた。
「なんで地下と屋上が繋がってるんだよ」
「分からない!」
三人は暗い階段へ飛び込み、ひたすら上へ走った。
◇
扉を開けた瞬間、冷たい夜風が吹き込んできた。
「……屋上」
時刻は午後六時三十分。
空にはまだ夕暮れの色が残っている。
「戻った……」
三上が息を整える。
「本当に?」
蓮は周囲を見回した。
フェンス。
給水塔。
ベンチ。
最初の写真と同じ場所。
「ここ、昨日の……」
栞が呟く。
蓮はフェンスの近くまで歩いた。
血痕はもう残っていない。
「何もない」
その時。
「神谷君」
「何?」
栞が床を指している。
そこには一枚の写真が落ちていた。
「……またか」
蓮が拾う。
写真に写っているのは現在の屋上。
蓮。
栞。
三上。
三人が並んでいる。
「誰が撮ったんだ」
端に記された撮影日時。
九月三日 18:31
蓮はスマートフォンの時計を見る。
18:30
「一分後?」
三上が写真を覗く。
「未来の写真か?」
写真の中では、栞が何かを指差している。
「何を指してる?」
現在の栞は首を振る。
「知らない」
指の先は屋上の入り口。
蓮たちは振り返った。
まだ誰もいない。
「一分前だから……」
蓮が時刻を見る。
18:30:42。
43。
44。
「待つな。帰るぞ」
三上が言う。
50。
51。
「先生」
「見る必要はない!」
55。
56。
57。
58。
59。
18:31。
その瞬間、栞が息を呑んだ。
「神谷君」
「何?」
栞の右手がゆっくり上がる。
「私、動かしてない」
「どうした?」
「勝手に……」
指が屋上入り口へ向く。
写真とまったく同じ。
次の瞬間。
ギィ、と音を立てて扉が開いた。
◇
一人の男子生徒が入ってきた。
制服。
黒い髪。
蓮によく似た顔。
「また俺……?」
しかし、それまで現れていた神谷蓮とは少し違う。
左頬に小さな傷がある。
そして手には一枚の学生証を持っていた。
「誰だ」
相手は何も答えず、学生証を蓮へ投げた。
拾う。
名前。
神谷蓮
生年月日も住所も同じ。
しかし写真に写っている顔は、今の蓮ではない。
「何人いるんだよ」
蓮が尋ねる。
相手は静かに答えた。
「俺で最後」
「何?」
「昨日は三人いた」
相手が一歩近づく。
「今日は二人になった」
蓮の顔色が変わる。
「一人は?」
「消えた」
「誰が消した」
「お前」
「またそれかよ!」
「思い出せ」
「何を!」
「昨日、お前は自分で自分の記憶を消した」
「なんで」
「犯人を守るため」
「誰を?」
相手は答えない。
「雨宮?」
栞が驚いた顔をする。
「俺の家族?」
沈黙。
「悠真?」
沈黙。
「先生?」
三上も息を呑む。
男子生徒はゆっくり笑った。
「違う」
「じゃあ誰なんだよ!」
男は蓮を指差した。
「お前が守ったのは神谷蓮だ」
「……俺?」
「だからお前は忘れたんだ」
一歩。
「自分が、どの神谷蓮なのかを」
◇
その瞬間、蓮の頭の中を一つの映像が走った。
昨日の屋上。
三人の神谷蓮。
栞。
名前の分からない男子。
誰かが叫ぶ。
『やめろ! そいつは神谷蓮じゃない!』
別の誰かが泣いている。
『だったら誰なの!』
そして自分の声。
『忘れてくれ』
誰に言っている?
栞ではない。
『俺のことを』
続いて自分の手が、誰かの学生証を握っている。
そこには神谷蓮ではない別の名前。
最初の一文字。
高
「……高?」
蓮が顔を上げる。
目の前の男子の表情が変わった。
「思い出すな」
「高……何?」
「やめろ」
「俺の名前?」
「やめろ!」
「俺は神谷蓮じゃ――」
その瞬間、頭を割られるような痛みに蓮は顔を歪めた。
そして同時にスマートフォンが鳴る。
着信。
高城悠真
「悠真?」
すぐに出る。
「もしもし」
『……』
「悠真?」
『蓮』
「どうした」
悠真の声は震えていた。
『今どこ?』
「学校」
『誰といる』
「雨宮と三上先生」
『雨宮?』
「説明はあと」
『蓮』
「何?」
悠真は少し間を置いて言った。
『俺、さっき家で昔の写真を見つけた』
「昔?」
『幼稚園の』
「それが?」
『俺と、お前が写ってる』
「普通じゃん」
『違うんだよ』
「何が」
『写真の裏に、母さんの字で名前が書いてある』
蓮は嫌な予感を覚えた。
「何て」
悠真は息を整える。
『俺の隣にいるお前、神谷蓮じゃない』
蓮の指が震えた。
「じゃあ何て書いてある」
悠真は答えた。
『高城悠真』
「……は?」
『それで』
悠真の声は泣きそうに震えていた。
『俺の方には、神谷蓮って書いてある』
世界が止まったように感じた。
蓮は何も言えない。
目の前に立っていた、左頬に傷のあるもう一人の神谷蓮が静かに笑った。
「ようやく」
そして。
「名前が逆だったことに気づいたな」
◇
夕暮れの屋上。
神谷蓮。
高城悠真。
二つの名前。
二人の幼なじみ。
十七年前の失踪事件。
0組。
そして昨日の屋上。
今まで別々に見えていたものが、少しずつ同じ一本の線につながり始めている。
蓮はスマートフォンを握ったまま、初めて自分自身へ本気で問いかけた。
もし自分が神谷蓮ではないのなら。
本当の神谷蓮は誰なのか。
そして、自分は本当は誰なのか。
電話の向こうで悠真が続ける。
『蓮』
「……何」
『もう一枚ある』
「何が?」
『写真』
「……」
『十七年前の学校の写真』
蓮の胸がざわつく。
『そこに俺たち二人が写ってる』
あり得ない。
二人とも十七年前にはまだ生まれていない。
それでも蓮の頭には、地下二階で見た集合写真が蘇っていた。
十七年前。
三十三人。
顔を黒く塗り潰された一人。
そして神谷蓮。
もしその写真の中に高城悠真までいるのなら、名前が入れ替わったのは幼い頃ではなく、もっとずっと前から繰り返されてきた可能性がある。
自分たちが生まれるよりも前から。
神谷蓮と高城悠真という二つの名前が、この学校で誰かから誰かへ渡され続けていたのだとしたら。
十七年前に消えた人物を見つけなければならない。
その人物が誰だったのかを思い出さなければ、自分たちの名前がなぜ入れ替わっているのかも、昨日の屋上で何が起きたのかも分からない。
そして、その答えはきっと。
十七年前の集合写真の中にある。
――第四章「0組」へ続く。