昨日、僕を殺したのは誰ですか

第二章 いなくなったクラスメイト

第二章 いなくなったクラスメイト

 九月三日、午前六時十二分。

 神谷蓮は、ほとんど眠れないまま朝を迎えていた。

 目を閉じるたびに、昨夜聞いた雨宮栞の声が何度も頭の中へ蘇ってくる。

 『もし明日、みんなが私を忘れてたら』

 そして、そのあとに続いた言葉。

 『学校の地下に行って』

 蓮はゆっくりベッドから起き上がると、まず机の上へ視線を向けた。そこには昨夜から置いたままの二枚の写真があり、一枚目には学校の屋上に倒れている自分と、それを少し離れた場所から見つめているもう一人の自分が、二枚目には誰もいない教室で一人だけ席に座る栞が写っている。

 二枚目の裏には、今もはっきりと、

 『次は彼女が死ぬ。』

 と書かれていた。

 蓮はすぐにスマートフォンを手に取った。

 連絡先を開き、雨宮栞の名前を探す。

 しかし、ない。

 次に通話履歴を開いた。

 昨夜、確かに話したはずだった。栞の震える声も、扉を叩く音も、「昨日の自分を信じないで」と言われたことも覚えている。

 それなのに雨宮栞との通話記録は一件も残っておらず、昨日まで存在していたはずのメッセージもすべて消えていた。

「……消えてる」

 残っているのは写真だけだった。

「夢じゃない」

 蓮は小さく呟く。

 もし昨夜の出来事がただの夢だったのなら、この写真がここにある理由を説明できない。

 ふと思い出し、机の端に置いていたノートを開いた。

 昨夜、眠る前に自分で書いた名前。

 雨宮栞

 その文字だけは、まだ消えていなかった。

「……よかった」

 なぜか少しだけ安心した。

 しかし、そのすぐ下に、自分が書いた覚えのない文章があることに気づいた瞬間、安堵はすぐに消えた。

 『名前を残しても意味はない。』

 蓮の指が止まる。

 さらに下。

 『記録は記憶より先に消える。』

 そして最後。

 『次は、顔を忘れる。』

「……」

 蓮は慌てて二枚目の写真を確認した。

 まだ分かる。

 雨宮栞。

 肩くらいまである黒髪。

 少し細い目。

 左目の下にある小さなほくろ。

 話す時に、ほんの少しだけ首を傾ける癖。

「覚えてる」

 今のところは、まだ大丈夫だ。

 蓮はすぐにノートへ書き始めた。

 雨宮栞。同じクラス。席は窓側から二列目、前から四番目。図書委員。黒髪。左目の下にほくろ。話す時、少しだけ首を傾ける。

 思いつく限りの特徴を書き残し、最後に一行を強く書き加えた。

 絶対に忘れない。

 ペンを置いた直後だった。

 壁の向こうから、小さな音がした。

 コン。

 蓮は顔を上げる。

 もう一度。

 コン。

 隣は妹、美月の部屋だった。

「美月?」

 返事はない。

 今度は続けて二回。

 コン。

 コン。

 蓮は立ち上がり、壁へ耳を近づけた。

「美月?」

 すると、壁の向こうからかすかな女の声が聞こえた。

「……れん」

 蓮の体が固まった。

 美月の声ではない。

「誰?」

 返事はない。

「雨宮?」

 その名前を口にした瞬間、それまで聞こえていた音は完全に止まった。

◇

「美月!」

 蓮はすぐ隣の部屋へ向かった。

 妹の神谷美月は、何事もなかったようにベッドの上でスマートフォンを見ている。

「何?」

「今、壁叩いた?」

「叩いてない」

「声出した?」

「出してない」

「本当に?」

「何なの、朝から」

「いや……」

 美月は怪訝そうに兄を見た。

「寝ぼけてる?」

「かも」

「怖」

「お前に言われたくない」

 蓮が部屋を出ようとすると、美月が呼び止めた。

「お兄ちゃん」

「何?」

「今日、学校行くの?」

「行くけど」

「……そっか」

 妙な言い方だった。

「何?」

「別に」

「言えよ」

 美月は少し迷ったあと、スマートフォンを伏せて口を開いた。

「昨日、お兄ちゃん夜どこ行ってたの?」

 蓮の体が止まる。

「昨日?」

「うん」

「家にいたよ」

「そう?」

「なんで」

「十一時くらいに玄関が開いた音したから、誰か帰ってきたと思って」

「母さんじゃなくて?」

 美月が不思議そうな顔をする。

「お母さん、昨日家にいたじゃん」

 蓮は思わず振り返った。

「何?」

「え?」

「昨日、母さん夜勤だった」

 美月の表情が変わる。

「違うよ」

「母さん本人が言ってた」

「だって昨日、三人でご飯食べたじゃん」

「……」

「カレー」

 蓮は何も言えなかった。

 昨日、自分だけが覚えていると思っていた母との夕食を、美月も覚えている。

「美月」

「何?」

「その時の母さん、何か変じゃなかった?」

「変って?」

「何でもいい」

 美月はしばらく考えたあと、自分の額を指した。

「……そういえば、ずっとここ隠してた」

「額?」

「髪で」

「いつもじゃない?」

「違う」

「何が?」

 美月の声が少し小さくなる。

「お母さん、額に傷なんてあったっけ?」

◇

 午前八時十一分。

 教室へ入った蓮は、入り口で足を止めた。

 窓側から二列目、前から四番目。

 雨宮栞が座っていたはずの場所。

 そこには誰もいない。

 いや、違う。

 机そのものがなくなっている。

 蓮は前から順番に数えた。

 一つ、二つ、三つ。

 本来ならその次に栞の机があるはずなのに、そこだけ不自然に空いており、その後ろには五番目の机が普通に並んでいる。

「おはよ」

 後ろから悠真の声がした。

「……悠真」

「何」

「机」

「机?」

「あそこ、一個足りない」

 悠真が言われた場所を見て、実際に机を数える。

「足りてるだろ」

「何人?」

「クラス?」

「うん」

「三十二」

 蓮は固まった。

「昨日は?」

「三十二」

「三十三じゃなくて?」

「違う」

「雨宮入れて三十三だろ」

「だから誰だよ、雨宮って」

 蓮は鞄から写真を取り出した。

「この子」

 悠真は写真を見る。

「……」

「分かる?」

「知らない」

「昨日いた」

「いないって」

「お前三つ前の席だよ!」

「そこ元から空いてるじゃん」

「机があった!」

 悠真は困ったような顔をした。

「蓮、マジで大丈夫か?」

「俺がおかしいって?」

「そうは言ってない」

「言ってるのと同じだろ」

「先生に聞こう。それで分かる」

◇

「雨宮栞?」

 三上先生は出席簿を開いた。

「はい」

「知らないな」

「昨日までこのクラスでした」

「神谷、うちのクラスは四月から三十二人だ」

「違います」

「何が?」

「三十三人でした」

 三上は出席簿を蓮へ向ける。

 名前は出席番号順に並んでいるが、どこを探しても雨宮という名字はない。

「転校したとか」

「そういう記録もない」

「じゃあ」

「最初から在籍していない」

 蓮は写真を差し出した。

「これ」

 三上が受け取る。

「誰だ?」

「雨宮です」

「……」

「先生も覚えてない?」

「知らない」

「図書委員でした」

「図書委員は佐々木と山本だ」

「昨日、委員会に呼ばれて」

「神谷」

 三上の声が少し厳しくなる。

「昨日の件で混乱してるんじゃないか」

「俺は正常です」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ何ですか」

 三上は少し黙ったあと、低い声で言った。

「屋上の防犯カメラ」

 その言葉だけで、蓮は黙った。

「昨日、お前に似た生徒が深夜に学校へ入った」

「分かってます」

「その記憶もない」

「はい」

「今度は存在しない生徒の話だ」

「でも写真があります!」

「その写真がいつ、どこで撮られたものか分からないだろ」

「先生、屋上は調べたんですか」

 三上の表情がわずかに変わった。

「何を?」

「写真の場所です。俺が倒れてたところ」

 三上は答えない。

「何かあったんですね」

「神谷」

「教えてください」

「何もない」

「嘘ですよね」

 三上は職員室の周囲を見回した。

 他の教師がいる。

 そして声を落とす。

「放課後、昨日の別室へ来い」

「そこで話すんですね」

「ああ」

◇

 昼休みになると、蓮は図書室へ向かった。

 雨宮栞は図書委員だった。

 本人の存在そのものが記録から消えていたとしても、どこかに何かしら痕跡が残っているかもしれない。

「すみません」

 司書の女性へ声をかける。

「雨宮栞って生徒を知りませんか」

「何年生?」

「二年です」

「ちょっと待って」

 司書はパソコンを操作し、しばらく検索したあと首を振った。

「いないね」

「去年は?」

「いない」

「貸出履歴は?」

「名前がないと検索できないかな」

「これ」

 蓮は写真を差し出した。

 司書が見る。

 その瞬間だけ、表情が変わった。

「知ってます?」

「いや」

「今、何か」

「知らない」

「絶対何かありますよね」

「神谷君」

 突然名前を呼ばれ、蓮は少し驚く。

「俺の名前」

「制服の名札」

「あ……」

 司書は写真を返した。

「その子を探すのはやめた方がいい」

 蓮は固まる。

「知ってるんじゃないですか」

「知らない」

「じゃあなんでそんなこと」

「知らないから」

 司書はパソコンへ視線を戻し、もう話すつもりがないようだった。

 蓮が図書室を出ようとすると、もう一度だけ呼び止められる。

「神谷君」

「はい」

「一つだけ」

 司書は蓮を見ないまま言った。

「古い卒業アルバムは地下書庫にある」

「地下?」

「地下一階」

 わざわざ地下一階と強調した。

「二階は?」

 司書の指が止まった。

「ない」

「本当に?」

「この学校に地下二階はない」

「0組は?」

 司書の顔色が変わった。

「誰から聞いたの」

「雨宮」

「……」

「やっぱり知ってる」

 司書は椅子から立ち上がった。

「帰りなさい」

「でも」

「今すぐ」

 蓮は動かない。

「先生、0組って何ですか」

 司書はしばらく黙っていた。

 やがて観念したように、ほとんど囁くような声で話し始める。

「十七年前、この学校には一人だけ、誰も名前を思い出せない生徒がいたの」

◇

「名前を思い出せない?」

「そう」

「どういうことですか」

「そのまま。二年生の男子生徒で、ある日突然いなくなった」

「行方不明?」

「そういうことになってる」

「名前は?」

「分からない」

「記録は?」

「消えた」

 蓮の背中が冷たくなる。

「今と同じ……」

「何?」

「雨宮と同じです。十七年前にも同じことが起きたんですか」

「帰りなさい」

「教えてください!」

 司書は蓮をまっすぐ見た。

「あなた、昨日の夜学校にいた?」

「……覚えてません」

「屋上?」

 蓮の表情が変わる。

「なんで」

 司書は思わず口元を押さえた。

「やっぱり……」

「何が?」

「十七年前も、最初は屋上だった」

 蓮の心臓が強く鳴る。

「何があったんですか」

 しかし司書は、それ以上は話そうとしなかった。

「もう行って」

◇

 午後四時二十分。

 昨日と同じ別室には、三上先生と蓮しかいなかった。

「屋上で何が見つかったんですか」

 蓮は席に座るなり、最初から聞いた。

 三上はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように口を開いた。

「警察には連絡している」

「じゃあ何かあったんですね」

「血痕だ」

 蓮の呼吸が止まる。

「……血?」

「少量だ」

「誰の」

「まだ正式には分からない。ただ簡易検査では、お前の血液型と一致した」

 蓮は思わず笑った。

 笑うしかなかった。

「俺、生きてますよ」

「分かってる」

「怪我もない」

 腕も足も確認する。

「分かってる」

「じゃあなんで」

「分からない」

 蓮は写真を机の上へ置いた。

「これと同じ場所ですか」

 三上は写真を見てから、ゆっくり頷いた。

「そうだ」

「本当に?」

「ああ」

 写真の中では自分が屋上に倒れている。

 そしてその場所から、自分と同じ血液型の血痕が見つかった。

「先生、十七年前のこと知ってますよね」

 三上の顔が変わる。

「何の話だ」

「生徒が消えた話です」

「誰に聞いた」

「それより0組って何ですか」

 沈黙。

 三上の目が明らかに揺れた。

「知らない」

「嘘だ」

「知らない」

「先生」

 三上が勢いよく立ち上がった。

「今日は帰れ」

「まだ」

「帰れ!」

 蓮も驚いたが、声を荒らげた本人も自分に驚いたようだった。

「……悪い」

「先生」

「もう帰れ」

「一つだけ」

「何だ」

「昨日の防犯カメラ。俺が屋上に入ったあと、誰か入ってませんでした?」

 三上は答えなかった。

 しかし、その沈黙だけで十分だった。

「いたんですね」

「……」

「誰ですか」

 三上は机の引き出しを開け、一枚の印刷画像を取り出した。

「これだ」

 屋上前。

 時刻は00時07分。

 蓮が屋上へ入った十一分後、一人の女子生徒がそこに立っている。

 黒髪。

 制服。

「雨宮……」

 栞だった。

「先生、この子です!」

「知らない生徒だ」

「俺が言ってた雨宮です!」

「でも、おかしいんだ」

「何が?」

「このあと彼女も屋上に入る」

「はい」

「それから出てこない」

 さらに三上はもう一枚の写真を出した。

 午前零時十三分。

 廊下を歩いている一人の男子生徒。

 蓮だった。

「俺?」

「そう見える」

「俺は屋上にいるはずですよね」

「ああ」

「じゃあこれは」

「分からない」

 次。

 00時15分、階段。

 蓮。

 00時17分、一階廊下。

 蓮。

 そして00時18分。

 校門から外へ出ていく蓮。

「待って」

 蓮は写真を机に並べた。

「俺、外に出てる」

「そうだ」

「昨日は出る映像がないって言いましたよね」

 三上の声がわずかに震えた。

「昨日確認した時には、なかった」

◇

「映像が増えたってことですか?」

「今朝突然だ」

「そんなこと」

「分かってる」

「じゃあ屋上の俺は?」

「分からない」

「雨宮は?」

「分からない」

「何で全部分からないんですか!」

「俺だって知りたい!」

 三上が声を上げた。

 部屋が静かになる。

 その時、蓮は00時18分の画像に写る自分の左手へ気づいた。

「拡大できます?」

「何?」

「手です」

 三上がパソコンで映像を開き、その部分を拡大する。

 画質は荒い。

 それでも、何かを持っているのは分かる。

 鍵。

 金属プレート。

 そこに刻まれている文字。

 B2・0

 三上の顔色が変わった。

「先生、これ知ってますよね」

「知らない」

「今、顔変わりました」

「知らない」

「地下二階」

「ない」

「0組」

「ない!」

「じゃあなんで鍵があるんですか!」

 三上は黙った。

「先生、俺行きます」

「どこへ」

「地下」

「やめろ」

「雨宮が待ってる」

「その子は存在しない!」

「俺は覚えてる!」

「だから危険なんだ!」

 蓮は動きを止めた。

「……何?」

 三上も、言ってしまったという顔をする。

「どういう意味ですか」

 三上は目を閉じた。

 長い沈黙。

 そして、静かに言った。

「十七年前、俺もこの学校の生徒だった」

◇

 三上は当時、高校二年生だった。

 そして、消えた生徒と同じクラスにいたという。

「名前は?」

「覚えてない」

「顔は?」

「覚えてない」

「男子?」

「……たぶん」

「友達だった?」

 三上は答えなかった。

「先生」

「一つだけ覚えてる」

「何ですか」

 三上は自分の右手を見る。

「そいつから鍵を渡された」

 蓮の心臓が跳ねる。

「どんな鍵?」

「古い鍵」

「プレートは?」

 三上は答えない。

「B2・0?」

 沈黙。

「そうなんですね」

「捨てた」

「どこに」

「十七年前だぞ」

「覚えてない?」

「違う」

 三上は蓮を見る。

「昨日、職員室の俺の机の中に、その鍵が入ってた」

 蓮は言葉を失った。

「十七年前に捨てた鍵が?」

「ああ」

「今どこです?」

「なくなった」

「いつ?」

「今朝」

 蓮は防犯カメラの画像へ視線を戻した。

 午前零時十八分。

 学校を出ていく自分。

 手にはB2・0の鍵。

「……俺が持ってる」

「そう見える」

「先生、十七年前、その人が消える前に何か言ってませんでした?」

 三上の顔から血の気が引いていく。

「先生?」

「……同じだ」

「何が?」

 三上の声が震えた。

「今、思い出した」

「何を?」

「そいつが鍵を渡してきた時に言った言葉だ」

 十七年前の夕方。

 教室。

 顔も声も思い出せない少年。

 ただ、その一言だけは急に蘇った。

 『もし明日、みんなが俺を忘れてたら』

 蓮の呼吸が止まる。

「それ……」

「ああ」

 三上は続ける。

 『学校の地下に行って』

◇

 午後五時五十八分。

 旧体育館。

「帰れって言いましたよね」

「言った」

「じゃあなんで先生も来てるんですか」

「お前一人で行かせられるか」

 三上は懐中電灯を持っていた。

 悠真には何も話していない。

 雨宮栞のことを覚えていない以上、わざわざ巻き込む理由もなかった。

 旧体育館の倉庫は普段ほとんど使われておらず、跳び箱や古いマット、壊れた椅子などが雑然と積まれている。

「雨宮は床って言ってました」

 二人で倉庫の中を探した。

 十分ほど経っても何も見つからず、三上が諦めかける。

「やっぱり存在しないんじゃ――」

「待って」

 蓮が古いマットをどかした。

 その下の床に、不自然な四角い継ぎ目がある。

「先生」

 三上も黙った。

 取っ手がついている。

 まるで床下収納のような扉。

「こんなの……」

「知りませんでした?」

「知らない」

 二人で持ち上げると、古い蝶番が軋んだ音を立てた。

 その下には階段が続いていた。

「……地下」

 三上が呟く。

 蓮はスマートフォンを見る。

 圏外。

「行きます」

「待て」

「でも」

「俺が先に行く」

 三上が階段を降り、蓮もそのあとへ続いた。

◇

 地下には冷たい空気が溜まり、コンクリートの廊下を古い蛍光灯が照らしていた。

「電気ついてる」

「誰か使ってるのか?」

 壁にはB1の表示。

「図書室の地下書庫と繋がってるのかもしれない」

 三上が言う。

 廊下には倉庫、機械室、資料室が並び、その突き当たりにさらに下へ続く階段があった。

 二人はそこで止まった。

 古いプレート。

 B2

「……あるじゃん」

 蓮が呟く。

「地下二階」

 三上は何も答えなかった。

 二人は階段を降りる。

 一段、二段と下へ進むほど、空気がさらに冷たくなっていく。

 途中の壁には落書きが残されていた。

 かえれ

 さらに下。

 わすれろ

 そして最後。

 おぼえているな

「先生」

「見るな」

「無理でしょ」

 階段を降り切る。

 地下二階。

 左右には教室が並んでいた。

 しかし、何かがおかしい。

「ここ、学校ですよね」

「ああ」

「地下なのに……」

 左側の壁に窓がある。

 その向こうには青空と校庭が広がり、生徒たちが体育の授業をしている。

 昼間。

「……今、夕方ですよね」

 三上が窓へ近づこうとする。

「触らない方がいいです」

 蓮が止めた。

 窓の外では生徒たちが普通に動いている。

 ただし、誰一人として顔がなかった。

 二人は無言で窓から離れた。

◇

 廊下には1組、2組、3組と普通の教室が並んでいるが、どこも無人だった。

「0組を探すぞ」

 さらに奥へ進む。

 4組。

 5組。

 その先は突き当たり。

「ない」

 三上が言う。

「雨宮はあるって言ってた」

 蓮が壁を見回すと、一枚だけ古い集合写真が掛けられていた。

「先生、これ」

 十七年前の二年生。

 蓮は写真の中から若い三上を探した。

「いた」

 高校生の三上。

「先生、全然変わってないですね」

「十七年は変わってる」

「いや、結構」

「今それどうでもいいだろ」

 蓮は写真の人数を数え始めた。

「……三十三人」

「何?」

「三十三人います」

 三上の表情が変わる。

「当時は何人だったんですか」

「三十二」

「じゃあ、一人多い」

 蓮は写真をじっと見る。

「消えた人?」

「分からない」

「先生、この人」

 最後列の右端。

 一人の男子生徒。

 その顔だけが黒く塗り潰されている。

「これじゃないですか」

 三上は写真へ近づき、震える指を伸ばした。

「違う」

「え?」

「こいつじゃない」

「なんで分かるんです?」

「分からない。でも違う」

 三上は頭を押さえる。

「消えた奴は、そこじゃない」

「じゃあどこ?」

 三上は写真の中の生徒を一人ずつ見ていく。

 そして。

 中央。

 前列にいる一人の男子生徒を指した。

 蓮も見る。

「……え?」

 そこに写っていた顔は、現在の神谷蓮とほとんど同じだった。

「俺……?」

 三上が一歩後ろへ下がる。

「思い出した」

「何を」

「消えた生徒の名前」

 三上は蓮を見る。

 その目にははっきりと恐怖が浮かんでいた。

「先生?」

「十七年前に消えた生徒の名前は……」

 蓮は聞きたくなかった。

 それでも聞いた。

「何ですか」

 三上が答える。

「神谷蓮」

◇

 その瞬間、廊下の照明がすべて消えた。

「先生!」

「動くな!」

 数秒間、完全な暗闇。

 やがて赤い非常灯が点灯する。

 そして、さっきまで何もなかったはずの壁に、一枚の扉が現れていた。

 プレート。

 0組

 二人とも、すぐには動けなかった。

「先生」

「開けるな」

「でも」

「開けるな」

 その時、扉の向こうから音がした。

 コン。

 コン。

 コン。

 蓮の心臓が強く鳴る。

「雨宮?」

 返事があった。

「……神谷君?」

 栞の声。

「雨宮!」

 蓮が扉へ向かう。

 三上が腕を掴んだ。

「待て!」

「中にいる!」

「本当にその子か分からない!」

「でも!」

 扉の向こうからもう一度。

「神谷君!」

「雨宮!」

「開けないで!」

 蓮が止まる。

「え?」

 栞の声が震えていた。

「絶対、開けないで」

「どういうこと?」

「私、今……神谷君の後ろにいる」

 蓮の体が固まった。

「……何?」

 振り向けない。

 三上の顔は真っ青になっていた。

 そして蓮の背後から、誰かの息遣いが聞こえる。

「先生、誰かいる?」

 三上は小さく頷いた。

「誰」

 答えない。

「先生」

 三上は震える声で言った。

「……お前だ」

 蓮の心臓が跳ねた。

「俺?」

「ああ」

 蓮はゆっくりと振り返った。

 赤い非常灯に照らされた廊下。

 十メートルほど先に、一人の男子生徒が立っている。

 同じ制服。

 同じ黒髪。

 そして同じ顔。

 神谷蓮。

 もう一人の自分。

 その右手にはB2・0の鍵が握られていた。

「……お前」

 もう一人の蓮は笑った。

「遅かったな」

「誰だ」

「それ、俺が聞きたい」

 相手は一歩だけ近づく。

「神谷蓮。その名前、いつからお前のものになった?」

 蓮は動けなかった。

「何言ってる」

「覚えてない?」

「何を」

「昨日の屋上」

 さらに一歩。

「お前、俺を見てただろ」

 第一章の写真が頭に浮かぶ。

 屋上に倒れている蓮。

 それを見つめている、もう一人の蓮。

 蓮は息を呑んだ。

「どっちが倒れてたんだ」

 声が震える。

「俺とお前、どっちが」

 相手は答えず、ポケットから一枚の写真を取り出した。

「これ見れば分かる」

 写真を床へ滑らせる。

 蓮は拾った。

 昨日の屋上。

 第一章の写真とは違う角度から撮影されている。

 今度は、倒れている人物の顔が見えた。

 蓮の指が震える。

 倒れているのは神谷蓮ではない。

 知らない男子生徒。

 その隣には立っている蓮。

 さらに写真の端には、もう一人の蓮。

 つまりそこには、二人の神谷蓮と、倒れている知らない男子生徒が写っている。

 写真の裏。

 『昨日、殺されたのは神谷蓮ではない。』

 その下。

 『神谷蓮が、殺した。』

「……嘘だ」

 もう一人の蓮が笑う。

「どっちが?」

「何?」

「俺か、お前か」

 さらに一歩。

「昨日、どっちかが人を殺した」

◇

 その瞬間、0組の扉が勢いよく開いた。

「神谷君!」

 中から栞が飛び出してくる。

「雨宮!」

 生きている。

 蓮は一瞬だけ安堵した。

 しかし栞は蓮ではなく、もう一人の蓮を見た瞬間、顔を青ざめさせた。

「……なんで」

「知ってるの?」

 蓮が聞く。

 栞は答えない。

「雨宮、こいつ誰?」

 栞の目から涙が落ちた。

「ごめん」

「何が?」

「私、ずっと神谷君に嘘ついてた」

「何を」

「昨日の屋上、私もいた」

 蓮は固まる。

「じゃあ見たの?」

 栞は頷いた。

「何を?」

 栞は二人の蓮を見てから、写真に倒れている知らない男子生徒へ目を落とした。

「神谷君が、この人を……」

 言葉が止まる。

「俺が?」

 栞は首を横に振った。

「違う」

「じゃあこいつ?」

 また首を横に振る。

「違う」

「何が違うんだよ!」

 栞は泣きながら答えた。

「二人じゃない」

「……何?」

「昨日、屋上にいた神谷君は三人いた」

◇

 蓮が言葉を失った、その直後だった。

 地下二階にあるすべての教室の扉が、一斉に開いた。

 ガチャ。

 ガチャ。

 ガチャ。

 暗い教室の中に人影が見える。

 一人。

 二人。

 三人。

 それ以上。

 全員、同じ制服を着ている。

 同じ髪。

 同じ顔。

 神谷蓮。

 そして0組の黒板に、白い文字が浮かび上がった。

 『出席を取ります。』

 続いて。

 『神谷蓮』

 そして。

 『返事をしてください。』

 廊下中から、同じ声が返る。

「はい」

「はい」

「はい」

「はい」

 何十人もの神谷蓮の声。

 その直後、蓮のスマートフォンが震えた。

 新しい写真が届いている。

 現在の二年生の集合写真。

 三十二人。

 いや。

 三十三人。

 蓮は画面を拡大した。

 中央には自分。

 そして最後列には、見覚えのない男子生徒が一人立っている。

 その顔だけが黒く塗り潰されていた。

 写真の裏。

 『十七年前、最初に消えたのは誰でしょう?』

 続いてもう一行。

 『答えを間違えると、次はあなたの番です。』

 蓮が顔を上げる。

 廊下の奥には無数の自分が立っている。

 そのさらに向こう。

 誰もいなかったはずの階段に、一人だけ顔を黒く塗り潰された男子生徒が立っていた。

 彼は蓮へ向かって、ゆっくり一本の指を立てる。

「……一?」

 違う。

 指しているのは蓮ではない。

 その後ろ。

 0組の黒板。

 そこに新しい文字が現れた。

 『神谷蓮 在籍開始――十七年前』

 続いて名前、生年月日、住所。

 すべて現在の蓮と一致している。

 そして最後。

 『死亡日――九月一日』

「……俺」

 蓮は呟いた。

「十七年前に……」

 それ以上、言葉が続かなかった。

 黒板には最後にもう一行だけ増えた。

 『死亡確認済み』

 昨日死んだはずの自分。

 十七年前に消えた自分。

 目の前にいるもう一人の自分。

 そして、昨日の屋上にいた三人の神谷蓮。

 ここまで来て、蓮はようやく気づき始めていた。

 この事件で本当に探さなければならないのは、自分を殺した犯人ではない。

 それより前に、もっと根本的なことを確かめなければならない。

 なぜ自分の名前が十七年前の記録にあるのか。

 なぜ同じ顔をした人間が何人も存在しているのか。

 そして、なぜ人が一人消えるたび、誰かの記憶まで書き換えられていくのか。

 そのすべてを解くためには、まず一つの問いに答えなければならない。

 神谷蓮とは、誰なのか。

――第三章「存在しない地下二階」へ続く。
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