昨日、僕を殺したのは誰ですか
第四章 0組
第四章 0組
『俺の横にいるお前、高城悠真って書いてある』
電話の向こうから聞こえたその言葉が何度も頭の中で繰り返され、蓮は屋上の中央でしばらく動けなかった。
「……名前が逆?」
口に出してみても意味が理解できない。隣では雨宮栞が黙り、三上先生も少し離れた場所に立つもう一人の“神谷蓮”も何も言わず、全員が蓮の次の言葉を待っているようだった。
「悠真」
『うん』
「その写真、今持ってるんだよな」
『持ってる』
「裏だけじゃなく表もちゃんと見て。俺たち何歳くらいに見える?」
『五歳とか六歳くらい』
「場所は?」
『幼稚園』
「どこの」
『ひかり幼稚園』
蓮は眉をひそめた。
「俺、そこ通ってない」
『……俺も』
短い沈黙が落ちる。
「でも写真にはいるんだよな」
『いる。それも普通に』
「他には?」
『知らない子が何人かいて、先生もいる』
「裏には全員分の名前が書いてある?」
『ある』
「その中の神谷蓮は」
『俺の位置』
「高城悠真は」
『お前の位置』
蓮は額を押さえた。
「意味分かんねえ」
『俺だって分かんねえよ』
「十七年前の写真もあるって言ったよな」
『うん』
「今送れる?」
『送る』
数秒後、スマートフォンが震えた。
届いた画像を開くと、そこには少し色褪せた古い集合写真が映っていた。校舎の前に制服姿の生徒たちが並んでいて、その中に現在より少し幼い顔をした蓮がいる。
「……俺」
その隣には現在の悠真もいた。
しかし写真の裏に書かれた名前を位置に合わせて確認すると、蓮の場所には 高城悠真、悠真の場所には 神谷蓮 と書かれている。
栞が横から写真を覗き込んだ。
「これ、0組の集合写真と違う」
「どこが?」
「人数」
蓮は画面を拡大して一人ずつ数える。
「……三十四人」
三上が顔を上げた。
「地下で見た写真は三十三人だった」
「じゃあ一人多い」
「誰が?」
蓮はさらに写真を拡大した。
最後列の端に一人だけ顔が完全に白く飛んでいる人物がいる。
「この人、顔がない」
栞が呟く。
「でも名前はある」
三上が写真の裏を指差した。
最後の一人の位置に、かすれた文字で書かれている。
高城悠真
蓮は自分が写っている場所をもう一度見る。
そこにも同じ名前。
高城悠真
「二人いる」
栞の声が小さくなる。
「同じ名前が二人」
三上の顔色が変わった。
「また重複か」
その言葉で、蓮は0組の出席簿に書かれていた文章を思い出した。
既存生徒との重複を確認
一名を削除してください
「先生」
「何だ」
「0組って、名前が重複した人間を消す場所なんじゃないですか」
三上はすぐには答えなかった。
◇
「どういうこと?」
栞が聞く。
「普通なら同じ名前の人がいても問題ないだろ。同姓同名なんて珍しくない」
蓮が言うと、三上はゆっくり首を振った。
「ここで重なっているのは名前だけじゃない」
「住所も家族も生年月日も記憶も、全部が同じ」
蓮が続けると栞の表情が変わった。
「それなら同じ人間が二人いることになる」
「だから0組は、どちらを残すか決める」
蓮は地下で見た文字を思い出した。
削除基準:記憶保持人数
「覚えてる人が少ない方を消す」
三上が低い声で呟いた。
「0組は、存在が重なった人間を処理するための場所なのかもしれない」
その時、屋上にいるもう一人の蓮が小さく笑った。
「正解に近い」
蓮はすぐに睨み返す。
「じゃあ正解を言えよ」
「嫌だ」
「なんで」
「自分で思い出した方がいい」
「またそれか」
男は蓮を見た。
「俺の言うこと、信用できる?」
「できない」
「ならちょうどいい。真実は本人の記憶でしか確定しない」
◇
午後六時四十四分。
屋上に立ったまま悠真との通話は続いていた。
『蓮、変なことに気づいた』
「何?」
『幼稚園の写真なんだけど、俺たち二人だけ影がない』
蓮は画像を拡大する。
園庭は晴れていて、先生も子供たちも地面にしっかり影を落としている。それなのに蓮と悠真の足元だけ何もない。
「加工とか?」
『そんな昔の写真だぞ』
「でも、それ以外に説明つかないだろ」
『それともう一つある』
「まだあるの?」
『写真の端』
蓮が画面の隅を見ると、園庭のフェンスの向こうに一人の少年が立っていた。
幼稚園児ではなく小学生くらいに見える。
こちらを見ているその顔を拡大した瞬間、蓮の背中が冷たくなった。
「……神谷蓮?」
幼稚園児として写っている蓮よりも明らかに年上なのに、顔は間違いなく自分だった。
『だよな』
「うん」
『これ、おかしいだろ』
「全部おかしい」
栞が画面を見ながら言う。
「写真の中に時間の違う神谷君がいる」
「時間?」
「幼稚園児の神谷君、小学生くらいの神谷君、それに今の神谷君。三上先生が知っている十七年前の神谷君もいて、昨日は三人いた」
三上も黙って写真を見ている。
蓮の頭に一つの可能性が浮かんだ。
「同じ人間を何度も作ってる?」
その瞬間、もう一人の蓮から笑みが消えた。
◇
「今、反応した」
蓮が言う。
「何が?」
栞。
「こいつ。何か知ってる」
「知らない」
「嘘」
「証拠は?」
「顔」
「顔なんて俺と同じだろ」
「だから分かるんだよ」
男は少し黙ってから一歩近づいた。
「だったらお前はどうなんだ」
「何が」
「今、自分が何番目なのか気になっただろ」
蓮の表情が止まる。
「何番目?」
栞が聞く。
男は蓮を見たまま続けた。
「0組って名前の意味、考えたことある?」
「最初とか?」
「違う。数えないって意味だ」
「何を?」
「正式な生徒として数えない」
◇
蓮の胸がざわついた。
「0組はクラスじゃない」
男は淡々と話す。
「登録できない人間の待機場所だ。同じ名前、同じ記録、同じ記憶、同じ家族。何かが重なって通常の名簿に入れられなくなった人間を、いったん0組へ入れる」
「それで七日間?」
「そう」
「その間に周りの記憶を測る」
「そう」
「記憶保持人数が多い方を残して、少ない方を消す」
「そう」
蓮は男を睨んだ。
「誰がこんなことやってる。学校か、先生か、それとも校長か」
学校でも先生でも男は反応しなかった。
しかし校長と言った瞬間、ほんのわずかに目が動いた。
「……校長?」
栞も気づいた。
三上は眉をひそめる。
「まさか」
「今、反応した」
蓮は男から目を逸らさなかった。
◇
「今の校長は桐島校長ですよね」
蓮が三上に聞く。
「ああ」
「何歳ですか」
「五十代だ」
「十七年前は?」
「この学校にはいなかった。少なくとも教師としては」
「本当に?」
三上は言葉を止めた。
「十七年前の集合写真、もう一度見てください」
蓮は画像を開く。
生徒と教師が並んだその奥、校舎の二階の窓に一人の大人が立っている。
「先生、この人」
三上の顔が青ざめる。
写真は荒いが顔立ちと髪型、それに目元は現在の校長によく似ていた。
「桐島校長……?」
「若いけど似てますよね」
「でも当時、桐島って名前の教師はいなかった」
「じゃあ誰なんですか」
誰も答えられない。
その時、電話の向こうから悠真の声がした。
『蓮』
「何」
『桐島って校長の名前?』
「そうだけど」
『俺、その名前聞いたことある』
蓮の表情が変わる。
「どこで」
『分かんない。でも子供の頃の夢で、白い部屋にいた気がする』
「どんな部屋?」
『机がいっぱいあって病院みたいな場所。そこに俺とお前がいた』
「あと誰」
一拍置いて悠真が答える。
『桐島って人』
蓮は屋上のもう一人を見る。
今度は明らかに顔が強張っていた。
「当たりか」
「何が」
「桐島」
「知らない」
「嘘だ」
「知らない」
「じゃあなんでそんな顔した」
男はしばらく黙ったあと蓮を見る。
「言ったら、お前が桐島を思い出す」
◇
その言葉を聞いた瞬間、蓮の頭の中に白い天井が浮かんだ。
蛍光灯。
机。
子供の声。
『名前を言って』
『神谷蓮』
自分の声。
『違う。君は高城悠真』
別の子供が答える。
『神谷蓮』
『そう』
白衣を着た大人の男。
「……っ」
蓮は頭を押さえた。
「神谷君!」
栞が体を支える。
「大丈夫?」
「今、見えた」
「何が?」
「白い部屋。俺と悠真がいて、名前を入れ替えられてた」
三上の表情が強張る。
「誰に」
蓮は顔を上げた。
「桐島」
◇
その瞬間、もう一人の蓮が走り出した。
「待て!」
屋上の扉を抜けた男を蓮が追い、三上と栞も続いた。
二階、一階、昇降口を抜けて校庭へ出ても男は止まらず、そのまま校舎裏の旧体育館へ向かう。
「どこ行くんだ!」
返事はない。
男は倉庫へ入ると床の扉を開け、そのまま地下へ降りた。
「また地下?」
栞が言う。
蓮は迷わず後を追い、三上と栞も続いた。
◇
地下二階の0組へ戻ると、さっきまで廊下の壁に貼られていた写真がすべて消えていた。
「何これ」
栞が周囲を見る。
「誰かが消した?」
三上が言う。
もう一人の蓮はそのまま0組へ入り、教卓の下にしゃがんで床板を外した。
「そんな場所、さっき見つけてなかった」
その下には古い箱が隠されていた。
男が蓋を開けると中にはファイルや写真、出席簿、それに一本のビデオテープが入っている。
ラベル。
0組 記録映像
日付。
平成21年9月1日
「十七年前」
三上が呟く。
部屋の隅には古いテレビとビデオデッキが置かれていた。
「なんでこんなのまで残ってるんだ」
男はテープを手に取る。
「この教室は十七年前のままだから」
◇
再生。
砂嵐のあと、画面に十七年前の0組が映った。
高校生の三上と、その隣に一人の男子生徒がいる。
今度は顔がはっきり見える。
「先生、この人」
三上は何も答えない。
少年は現在の蓮によく似ているが、目や輪郭は少し違っていた。
『三上』
『何』
『俺さ、最近自分の名前が分かんなくなる』
現在の三上が息を呑む。
「思い出した……」
映像の中の三上少年は笑っている。
『何だよそれ』
『たまに先生が俺を違う名前で呼ぶ』
『誰って?』
『神谷』
現在の蓮の指が止まる。
『神谷蓮』
『お前、神谷じゃねえだろ』
『うん』
『じゃあ何だよ』
少年は困ったように笑った。
『分かんない』
◇
映像の扉が開き、白衣の男が入ってくる。
三上がテレビへ近づく。
「……誰だ」
蓮はすぐに分かった。
「桐島」
現在の校長と同じ顔。
間違いない。
『始めます』
映像の三上が反発する。
『何を』
『出席確認です』
『こんなクラスないだろ』
『今日だけです』
白衣の男が黒板へ 0組 と書く。
『名前を呼ばれたら返事をしてください』
教室には二人しかいない。
しかし出席簿には三十三人分の名前が並んでいた。
『佐伯直樹』
返事なし。
『欠席』
『田中美緒』
返事なし。
『欠席』
それが何人も続き、やがて白衣の男が読む。
『神谷蓮』
映像の三上がなぜか反応した。
『……はい』
現在の三上が口元を押さえる。
「俺……」
『よろしい』
すると隣の少年が立ち上がった。
『違う! それ俺の名前だ!』
現在の蓮は画面を見つめた。
『座りなさい』
『俺が神谷蓮だ!』
『あなたの名前ではありません』
『じゃあ俺は誰なんだよ!』
白衣の男は笑わずに答えた。
『記録上、神谷蓮という生徒は一人です』
『じゃあ俺は誰だよ!』
『それをこれから決めます』
◇
映像が乱れたあと、少年は壁向きの椅子に座らされていた。
『座らせるな!』
映像の三上が叫ぶ。
『記憶保持試験を行います』
白衣の男が三上を見る。
『三上君、この生徒の名前を答えてください』
三上少年は少年を見る。
『……』
『どうぞ』
『三上、言え』
少年が必死に訴える。
三上少年が口を開く。
『……か』
ノイズが入り、聞き取れない。
『もう一度』
また雑音。
現在の三上がテレビへ近づいた。
「聞こえない」
映像の少年は泣いていた。
『忘れんなよ』
その後は教師、生徒、家族らしき人物へ次々と同じ質問が繰り返されるが、誰も少年の名前を答えられなかった。
最後に画面へ表示された数字。
記憶保持人数 1
「一人」
栞が呟く。
「誰?」
画面には高校生の三上が映る。
『俺は覚えてる。絶対忘れない』
現在の三上の目から涙が落ちた。
「……俺だった」
◇
白衣の男が淡々と言う。
『一名では基準を満たしません。削除処理へ移行します』
『ふざけんな! 人だぞ!』
『記録上は未登録です』
その瞬間、少年がカメラをまっすぐ見た。
まるで十七年後の蓮たちへ話しかけているようだった。
『もしこれを見てる奴がいるなら、俺の名前は――』
音が飛ぶ。
聞こえない。
映像が乱れたあと、最後の部分だけ戻った。
『……神谷蓮じゃない。それだけは覚えてて』
そこで映像が終わった。
◇
テレビには砂嵐だけが映っている。
三上は椅子へ座り込んだ。
「俺、約束したんだ。忘れないって」
栞がそばに寄る。
「先生のせいじゃありません」
「俺だけだった。俺が覚えてればって思ったけど、一人じゃ足りなかった。それでも名前まで忘れるなんて」
蓮には何も言えなかった。
その時、教卓の箱の中にもう一つ封筒が残っていることに気づく。
表には 三上智也へ と書かれていた。
三上が震える手で開く。
『三上へ。もし俺のことを忘れたらこれを読め。たぶんお前は自分を責める。でも悪いのはお前じゃない』
三上はそのまま読み続ける。
『俺も自分の名前が分からなくなってる。最近は鏡を見るたび顔が少し違うし、昨日は母さんに“あんた誰”って言われたあと普通に俺の名前を呼ばれた。たぶん何かが俺を上書きしてる』
蓮の表情が変わる。
『白衣の男は桐島って名乗ってた。あいつは名前を変える実験をしてる。本人が自分を何者だと思うか、周りが何者だと思うか、記録が何者だと示すか。その三つが全部違った時、人間がどうなるか調べてる』
栞が息を呑む。
『俺は実験体にされた。それから、俺より前に同じ実験をされた子供がもう一人いる。名前は――』
その部分だけインクが滲んで読めない。
「読めない」
三上が角度を変える。
うっすら一文字だけ見えた。
神
「神……?」
その瞬間、もう一人の蓮が手紙を奪った。
「おい!」
「読むな」
「返せ!」
「これはまだ早い」
「何が早いんだよ!」
男が手紙を破ろうとし、蓮が腕を掴む。
二人が揉み合ううちに手紙が床へ落ち、栞が拾った。
「続き読むよ!」
そこにはこう書かれていた。
『その子は十年前から歳を取ってない。何度名前を変えても何度家族を変えても同じ顔で戻ってくる』
全員が動きを止める。
『桐島はその子を“原型”って呼んでた』
◇
「原型……何の」
蓮が呟く。
もう一人の蓮は完全に顔色を失っていた。
「お前、知ってるだろ。原型って何だ。俺なのか、悠真なのか、十七年前の人なのか」
男はしばらく黙ってから首を振った。
「違う」
「じゃあ誰なんだよ」
「俺たち全員より前にいた」
「誰が」
男の声が小さくなる。
「最初の神谷蓮」
◇
その瞬間、教室の時計が突然動き始めた。
午後七時十三分。
同時にスピーカーからノイズが流れる。
『記録映像の閲覧を確認しました』
蓮が天井を見上げる。
「誰だ」
『未承認情報への接触を確認。修正処理を開始します』
黒板に文字が浮かぶ。
0組 再編成
もう一人の蓮が叫んだ。
「逃げろ」
「また?」
「今度は違う。0組が誰を残すか決める」
◇
三十三個の机が激しく音を立てながら勝手に動き、すべて前を向く。
教室にいるのは蓮、栞、三上、もう一人の蓮の四人だけなのに、空席へ次々と人影が現れ始めた。
「悠真?」
目の前の席に高城悠真が座っている。
しかしスマートフォンではまだ通話が続いていた。
『蓮?』
「悠真、お前今どこ」
『家だけど』
蓮は目の前の悠真を見る。
「じゃあこれは誰なんだよ」
さらに母の香織、美月、担任、クラスメイトたちが現れ、三十二人分の席が埋まった。
黒板。
記憶保持試験
スピーカーから質問が流れる。
『神谷蓮を知っていますか』
一人目のクラスメイトが答える。
「はい」
次。
「知ってます」
「同じクラスです」
「知ってる」
黒板に数字が増えていく。
12。
18。
24。
「増えてる」
蓮が呟く。
そして目の前の悠真へ質問が向けられた。
『神谷蓮を知っていますか』
悠真は少し黙ってから答える。
「知ってる」
蓮が安心しかけた瞬間、悠真は続けた。
「俺が神谷蓮です」
蓮の表情が凍った。
黒板。
重複を確認
神谷蓮:2名
「やめろ」
『削除対象を選択します』
栞が叫ぶ。
「神谷君!」
三上も続ける。
「返事するな!」
しかし今行われているのは出席確認ではない。
教室全体へ質問が流れる。
『あなたが知っている神谷蓮はどちらですか』
黒板に蓮の写真と悠真の写真が並ぶ。
その下には両方とも 神谷蓮 と書かれていた。
◇
クラスメイトたちが一人ずつ二人を指す。
悠真。
蓮。
悠真。
数字が増えていく。
蓮 1
悠真 2
「待って! こんなの記憶じゃない!」
栞が叫ぶ。
『多数決ではありません。記憶強度を測定しています』
一人、また一人と選択が続く。
最後には十五対十五。
「同点」
残った二人は母と美月だった。
『あなたの息子はどちらですか』
「母さん」
香織は涙を浮かべながら蓮と悠真を見比べ、ゆっくりと指を伸ばした。
選んだのは悠真。
数字。
15:16
「母さん!」
偽物の香織は悠真を見ながら言う。
「この子が神谷蓮」
蓮の学生証から文字が薄くなり始めた。
「神谷君!」
栞。
最後に美月へ質問が向けられる。
『あなたの兄はどちらですか』
「美月!」
美月は泣きながら蓮と悠真を交互に見る。
「……分かんない」
蓮の胸が締めつけられた。
「美月、俺だよ」
「でも、こっちもお兄ちゃんの記憶がある」
黒板。
判定不能
警報。
記憶重複率100%
栞が顔を上げる。
「100%?」
『両個体の識別不能。原型照合へ移行します』
もう一人の蓮が叫んだ。
「まずい!」
「何が!」
「原型が出る!」
「だから誰なんだよ!」
教室正面の床が大きな音を立て、四角い穴が開いた。
その下から白い光が漏れている。
「地下三階?」
三上が呟く。
「そんな場所」
男が蓮を止めようとする。
「行くな」
「逆に行く」
「神谷!」
「原型がいるんだろ。なら会えば全部分かる」
◇
階段を降りると、そこは学校の地下とは思えない白い空間だった。
病院か研究施設のような蛍光灯とガラス張りの壁が続いている。
三上は周囲を見回す。
「ここは知らない」
しかし蓮には見覚えがあった。
「俺は知ってる」
栞が驚く。
「来たことあるの?」
「夢で」
白い部屋。
悠真。
桐島。
名前を入れ替えられた記憶。
廊下の先には一枚の扉があり、プレートに SUBJECT 00 と書かれていた。
「00……0組」
もう一人の蓮の顔が強張る。
「開けるな」
「なんで」
「中にいるのは人間じゃない」
「何なんだよ」
男の声が震える。
「俺たちの名前の元になったもの」
◇
蓮が扉へ手を伸ばす。
「待って」
栞が止めた。
「怖くない?」
「怖いよ。でも自分が誰か分からないままの方がもっと怖い」
蓮は扉を開けた。
白い部屋の中央に椅子があり、一人の少年が背を向けて座っている。
中学生くらい。
白い服。
少年がゆっくり振り返った瞬間、蓮も栞も三上も息を止めた。
顔は神谷蓮。
ただし今の蓮より少し幼く、左頬には小さな傷がある。
屋上で会ったもう一人の蓮と同じ場所。
少年は笑った。
「やっと来た」
「お前が原型?」
「そう呼ばれてる」
「名前は?」
「ない」
「神谷蓮じゃないの?」
少年は首を振る。
「それは僕から作った名前」
蓮の心臓が跳ねる。
「どういうこと」
「桐島先生は、僕が自分の名前を忘れたあと色んな名前をくれた。その一つが神谷蓮」
「高城悠真も?」
少年は頷く。
「三上先生の友達も?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕、何回ここから出たのか覚えてないから」
◇
「何回って、人として?」
栞。
「うん。そのたびに名前と家族と学校と友達を作る。でも毎回失敗する」
「何が失敗するの」
「誰かが気づく。この人、前と同じ顔だって」
三上の声が震える。
「十七年前の生徒も」
「僕だったかもしれない」
「じゃあ消えた生徒は」
「僕だったかもしれない」
「かもしれないって何だよ」
少年は不思議そうに首を傾げた。
「消えた人の記憶は僕にも残らないから」
◇
蓮は拳を握った。
「じゃあ俺は、お前の何なんだ」
少年はしばらく蓮を見つめる。
「かなり新しい」
「何番目」
「分からない」
「昨日いた三人は?」
「分裂」
「何?」
「同じ記憶を持つ存在が一人に決められなくなった時、一時的に複数になる」
「だから三人」
「うん」
「そのうち一人消えた」
「うん」
「誰が消した」
少年は静かに答えた。
「君たち」
「俺たち?」
「覚えなかったから」
蓮の顔から血の気が引く。
「人は見えているものを全部覚えていられない。三人の神谷蓮を見ても、最後には一人だったことにする」
栞が口元を押さえた。
「だから昨日、一人が忘れられて消えた」
「そう」
◇
「屋上で倒れてた人は神谷蓮?」
蓮が聞く。
「違う」
「じゃあ誰」
少年が答えようとした瞬間、部屋の照明が赤く変わり警告音が鳴った。
『SUBJECT 00への接触を確認』
蓮が天井を見る。
「桐島?」
スピーカーから聞こえたのは現在の校長の声だった。
『神谷君、そこまでにしなさい』
「やっぱりあんたか。十七年前から何してる!」
少し沈黙してから桐島が答える。
『君を生かしています』
「は?」
『それだけです』
「ふざけるな!」
『私は何度も君を生かした』
「俺を?」
『正確には神谷蓮という存在を』
◇
原型の少年から笑みが消えた。
「嘘」
全員が少年を見る。
「桐島先生は生かしてない。消えるたびに新しい僕を作ってるだけ」
『黙りなさい』
「嫌だ」
『SUBJECT 00』
「名前で呼んで」
『君に名前はない』
少年の目に初めて怒りが浮かんだ。
「だからずっと誰かの名前を盗ませたんでしょ」
◇
また蓮の頭に映像が流れ込んだ。
白い部屋。
幼い自分と悠真。
桐島。
『今日から君は神谷蓮』
子供の蓮が繰り返す。
『神谷……蓮』
隣の子供が聞く。
『じゃあ僕は?』
『高城悠真』
『昨日は逆だったよ』
桐島は何も言わない。
『先生、どっちが本当?』
桐島は静かに答えた。
『覚えている方が本当です』
◇
蓮は目を開けた。
「思い出した」
栞が顔を覗き込む。
「何を?」
「俺と悠真、子供の頃に何回も名前を交換されてた」
三上。
「実験か?」
「たぶん。どっちの名前で呼ばれるか、周りがどっちを覚えるか試してた」
『記憶の混線です』
スピーカーから桐島が言う。
「嘘だ」
『君は混乱しています』
「じゃあ悠真の昔の写真はどう説明する。十七年前に俺たちが写ってるのはどう説明するんだ!」
桐島は答えない。
「俺は誰なんだよ!」
長い沈黙のあと声が戻る。
『知りたいですか』
「当たり前だろ」
『では昨日の屋上へ来なさい。そこで君が忘れたものを、もう一度見せます』
通信が切れた。
◇
部屋に静寂が戻る。
原型の少年が蓮を見る。
「行っちゃダメ」
「なんで」
「昨日、君は自分から桐島先生に会いに行った」
蓮の表情が止まる。
「俺が?」
「うん」
「何しに」
「頼んだ」
「何を」
少年は静かに答える。
「記憶を消してくれって」
栞も三上も言葉を失った。
「なんで俺がそんなこと」
「理由は一つ」
「何」
「昨日、屋上で本当の神谷蓮が誰か知ったから」
蓮の呼吸が止まる。
「誰なんだよ」
少年は答えない。
「言えよ。本当の神谷蓮は誰なんだ!」
少年は蓮ではなく、その後ろを見た。
「もう来てる」
◇
振り返ると、白い部屋の入り口に男子高校生が立っていた。
「悠真……?」
しかし家にいるはずだった。
蓮はスマートフォンを見る。
通話はまだ続いている。
『蓮?』
電話の向こうにも悠真。
目の前にも悠真。
目の前の悠真が笑う。
「久しぶり」
「誰だ」
「ひどいな。ずっと一緒だっただろ。幼稚園も小学校も中学も高校も」
蓮の胸が苦しくなる。
「悠真?」
「そう」
「じゃあ電話の方は」
「そっちも悠真」
「意味分かんない」
「簡単だよ。昨日、神谷蓮だけじゃなく高城悠真も二人に分かれた」
◇
「なんで」
「同じ理由。記憶が矛盾したから」
「何を見た」
悠真の表情から笑みが消える。
「屋上」
「お前もいたの?」
「うん」
「雨宮は三人の俺しか見てない」
「俺は隠れてた」
「何を見た」
「お前が一人の男に神谷蓮って呼びかけた」
「誰に」
悠真は原型の少年を見る。
「この子?」
「違う」
「じゃあ」
「大人」
「誰」
「十七年前の集合写真で顔を黒く塗り潰されていた人」
三上が息を呑む。
「そいつは誰なんだ」
「昨日、自分が最初の神谷蓮だって言った」
◇
「原型じゃなく?」
「原型は名前がない」
「じゃあ最初にこの子へ神谷蓮って名前を与えた人間?」
「そう」
「桐島?」
「違う」
「誰」
「十七年前、0組にいた」
三上が首を振る。
「俺の友達は神谷じゃない」
「うん。別人」
「その人は今どこ」
悠真の表情が曇る。
「昨日、屋上で倒れてた」
蓮の頭に最初の写真が浮かぶ。
「あの人……死んだ?」
「分からない。でも消えた」
◇
蓮は少しずつ昨日の屋上を組み立てる。
三人の神谷蓮。
雨宮栞。
二人の高城悠真。
そして最初の神谷蓮を名乗る男。
「何が起きた」
悠真はゆっくり答える。
「その男が言ったんだ。“俺を誰か一人でも覚えていれば全部戻る。神谷蓮という名前が本来の持ち主に戻る”って」
蓮の顔色が変わる。
「じゃあ俺は名前を失う」
「たぶん俺も」
「原型は」
「また名前がなくなる」
少年が目を伏せる。
「だからお前は止めた」
「どうやって」
悠真は答えない。
「男を殺したのか?」
悠真は首を横に振った。
「違う」
「じゃあ何した」
「お前は全員に忘れさせた」
◇
蓮の心臓が大きく鳴った。
「どうやって」
「0組の出席システム」
「俺が使った?」
「うん。桐島に頼んだ」
「その男を欠席にした?」
「うん」
「記憶保持人数は」
悠真が静かに答える。
「0」
蓮の足から力が抜ける。
「だから写真から消えた」
「そう」
「三上先生も忘れた」
「うん」
「栞も」
「名前だけ」
「俺も全部」
「でも何で俺だけ思い出し始めてる?」
悠真は答えない。
代わりに原型の少年が言った。
「消した本人だから」
◇
白い部屋に警告音が響く。
『時間切れです。0組へ戻ってください』
「嫌だ」
『神谷君』
「俺が誰か分からないのに、その名前で呼ぶな。俺は神谷蓮じゃないかもしれない」
『それでも現在、最も多くの人間が君を神谷蓮として記憶しています』
「だから本物?」
『はい』
蓮は笑った。
「じゃあ十七年前の人は、覚えてる人がいなくなったから偽物なのか?」
桐島は答えない。
「ふざけんな。それ、本物かどうかじゃなくて人気投票じゃん」
◇
三上も栞も悠真も原型の少年も蓮を見る。
「忘れられたら偽物、覚えられたら本物。そんなルール誰が決めたんだ」
『必要でした』
「何のために」
『一人の人間を一人として存在させるためです』
「だから他を消す?」
『統合します』
「言い方変えただけだろ」
『神谷君』
「俺は昨日、そのルールで誰かを消した。でも今日からはしない」
◇
突然、黒板に新しい表示が現れた。
記憶保持対象:未登録
候補者検索
十七年前の写真が映り、黒く塗り潰されていた男の顔が少しずつ戻っていく。
三上が息を呑む。
「先生、知ってる?」
「まだ分からない」
顔が完成する。
四十代くらいの男性。
黒板に名前が一文字ずつ現れる。
神
次。
谷
そして。
蓮
神谷蓮
誰も声を出せなかった。
追加表示。
初回登録日:平成9年4月8日
「十七年前より前」
栞。
「もっと昔からいる」
さらに表示。
現在年齢:46
その下。
現住所
蓮は文字を見た瞬間、顔色を失った。
「……嘘」
三上が聞く。
「どこだ」
蓮の声が震える。
「俺の家」
◇
「神谷君の家?」
栞が聞く。
「住所が同じ」
悠真が言う。
「じゃあその人、今そこにいる?」
蓮は母の香織と美月、そしていなくなった父を思い出した。
「うち、今父親いない」
三上。
「両親は?」
「父さんは俺が小学生の頃に行方不明になった」
栞が静かに聞く。
「神谷君、お父さんの名前は?」
蓮はすぐ答えようとした。
それくらい簡単なはずだった。
顔も声も、一緒に遊んだ記憶もある。
なのに名前だけが出ない。
「なんで……」
黒板。
神谷蓮
現在年齢46歳
現住所:現在の蓮の自宅
原型の少年が静かに言った。
「気づいた?」
「……」
「最初の神谷蓮は、君のお父さんだよ」
◇
蓮の世界が止まった。
「父さん?」
「そう」
「でも父さんの名前は……」
思い出せない。
「忘れてるだけ。桐島先生が消した」
「なんで」
「君が頼んだから」
その言葉と同時に蓮の頭に昔の記憶が戻った。
夜。
玄関。
父の声。
『蓮、お父さんね。昔、神谷蓮って名前だったんだ』
子供の蓮が笑う。
『僕と同じ?』
『そう』
『変なの』
『だろ』
父も笑った。
そして少し真面目な顔になる。
『でも本当は、この名前は僕のじゃない』
「……!」
蓮は頭を抱えた。
「思い出した」
栞。
「何を」
「父さん、自分も誰かから神谷蓮って名前をもらったって言ってた」
◇
黒板に最後の情報が表示された。
次回復元対象
神谷蓮(46)
復元予定:9月8日
「九月八日?」
栞が言う。
三上。
「あと五日」
さらにその下。
復元時 現行神谷蓮を削除します
蓮の顔から血の気が引いた。
父が戻れば自分が消える。
これが0組のルール。
一つの名前には一人しか存在できない。
それなら今の自分は、父の名前を奪うことで存在していることになる。
「俺、父さんを消して生きてたのか?」
声が震えた。
その瞬間、スピーカーから桐島の声が返ってくる。
『違います。あなたが消したのではありません』
「じゃあ誰だよ」
長い沈黙のあと、桐島は静かに答えた。
『あなたのお父様は自分から消えることを選びました』
「……何?」
『あなたを神谷蓮として残すために』
蓮は何も言えなかった。
黒板にはカウントが表示される。
復元まで 119時間
そして一番下。
赤い文字。
選択してください
父親を復元しますか?
YES / NO
蓮は画面を見つめたまま動けなかった。
父を戻せば自分が消える。
自分を残せば父は戻らない。
その選択をするまでに残された時間は、あと五日。
――第五章「十七年前の集合写真」へ続く。
『俺の横にいるお前、高城悠真って書いてある』
電話の向こうから聞こえたその言葉が何度も頭の中で繰り返され、蓮は屋上の中央でしばらく動けなかった。
「……名前が逆?」
口に出してみても意味が理解できない。隣では雨宮栞が黙り、三上先生も少し離れた場所に立つもう一人の“神谷蓮”も何も言わず、全員が蓮の次の言葉を待っているようだった。
「悠真」
『うん』
「その写真、今持ってるんだよな」
『持ってる』
「裏だけじゃなく表もちゃんと見て。俺たち何歳くらいに見える?」
『五歳とか六歳くらい』
「場所は?」
『幼稚園』
「どこの」
『ひかり幼稚園』
蓮は眉をひそめた。
「俺、そこ通ってない」
『……俺も』
短い沈黙が落ちる。
「でも写真にはいるんだよな」
『いる。それも普通に』
「他には?」
『知らない子が何人かいて、先生もいる』
「裏には全員分の名前が書いてある?」
『ある』
「その中の神谷蓮は」
『俺の位置』
「高城悠真は」
『お前の位置』
蓮は額を押さえた。
「意味分かんねえ」
『俺だって分かんねえよ』
「十七年前の写真もあるって言ったよな」
『うん』
「今送れる?」
『送る』
数秒後、スマートフォンが震えた。
届いた画像を開くと、そこには少し色褪せた古い集合写真が映っていた。校舎の前に制服姿の生徒たちが並んでいて、その中に現在より少し幼い顔をした蓮がいる。
「……俺」
その隣には現在の悠真もいた。
しかし写真の裏に書かれた名前を位置に合わせて確認すると、蓮の場所には 高城悠真、悠真の場所には 神谷蓮 と書かれている。
栞が横から写真を覗き込んだ。
「これ、0組の集合写真と違う」
「どこが?」
「人数」
蓮は画面を拡大して一人ずつ数える。
「……三十四人」
三上が顔を上げた。
「地下で見た写真は三十三人だった」
「じゃあ一人多い」
「誰が?」
蓮はさらに写真を拡大した。
最後列の端に一人だけ顔が完全に白く飛んでいる人物がいる。
「この人、顔がない」
栞が呟く。
「でも名前はある」
三上が写真の裏を指差した。
最後の一人の位置に、かすれた文字で書かれている。
高城悠真
蓮は自分が写っている場所をもう一度見る。
そこにも同じ名前。
高城悠真
「二人いる」
栞の声が小さくなる。
「同じ名前が二人」
三上の顔色が変わった。
「また重複か」
その言葉で、蓮は0組の出席簿に書かれていた文章を思い出した。
既存生徒との重複を確認
一名を削除してください
「先生」
「何だ」
「0組って、名前が重複した人間を消す場所なんじゃないですか」
三上はすぐには答えなかった。
◇
「どういうこと?」
栞が聞く。
「普通なら同じ名前の人がいても問題ないだろ。同姓同名なんて珍しくない」
蓮が言うと、三上はゆっくり首を振った。
「ここで重なっているのは名前だけじゃない」
「住所も家族も生年月日も記憶も、全部が同じ」
蓮が続けると栞の表情が変わった。
「それなら同じ人間が二人いることになる」
「だから0組は、どちらを残すか決める」
蓮は地下で見た文字を思い出した。
削除基準:記憶保持人数
「覚えてる人が少ない方を消す」
三上が低い声で呟いた。
「0組は、存在が重なった人間を処理するための場所なのかもしれない」
その時、屋上にいるもう一人の蓮が小さく笑った。
「正解に近い」
蓮はすぐに睨み返す。
「じゃあ正解を言えよ」
「嫌だ」
「なんで」
「自分で思い出した方がいい」
「またそれか」
男は蓮を見た。
「俺の言うこと、信用できる?」
「できない」
「ならちょうどいい。真実は本人の記憶でしか確定しない」
◇
午後六時四十四分。
屋上に立ったまま悠真との通話は続いていた。
『蓮、変なことに気づいた』
「何?」
『幼稚園の写真なんだけど、俺たち二人だけ影がない』
蓮は画像を拡大する。
園庭は晴れていて、先生も子供たちも地面にしっかり影を落としている。それなのに蓮と悠真の足元だけ何もない。
「加工とか?」
『そんな昔の写真だぞ』
「でも、それ以外に説明つかないだろ」
『それともう一つある』
「まだあるの?」
『写真の端』
蓮が画面の隅を見ると、園庭のフェンスの向こうに一人の少年が立っていた。
幼稚園児ではなく小学生くらいに見える。
こちらを見ているその顔を拡大した瞬間、蓮の背中が冷たくなった。
「……神谷蓮?」
幼稚園児として写っている蓮よりも明らかに年上なのに、顔は間違いなく自分だった。
『だよな』
「うん」
『これ、おかしいだろ』
「全部おかしい」
栞が画面を見ながら言う。
「写真の中に時間の違う神谷君がいる」
「時間?」
「幼稚園児の神谷君、小学生くらいの神谷君、それに今の神谷君。三上先生が知っている十七年前の神谷君もいて、昨日は三人いた」
三上も黙って写真を見ている。
蓮の頭に一つの可能性が浮かんだ。
「同じ人間を何度も作ってる?」
その瞬間、もう一人の蓮から笑みが消えた。
◇
「今、反応した」
蓮が言う。
「何が?」
栞。
「こいつ。何か知ってる」
「知らない」
「嘘」
「証拠は?」
「顔」
「顔なんて俺と同じだろ」
「だから分かるんだよ」
男は少し黙ってから一歩近づいた。
「だったらお前はどうなんだ」
「何が」
「今、自分が何番目なのか気になっただろ」
蓮の表情が止まる。
「何番目?」
栞が聞く。
男は蓮を見たまま続けた。
「0組って名前の意味、考えたことある?」
「最初とか?」
「違う。数えないって意味だ」
「何を?」
「正式な生徒として数えない」
◇
蓮の胸がざわついた。
「0組はクラスじゃない」
男は淡々と話す。
「登録できない人間の待機場所だ。同じ名前、同じ記録、同じ記憶、同じ家族。何かが重なって通常の名簿に入れられなくなった人間を、いったん0組へ入れる」
「それで七日間?」
「そう」
「その間に周りの記憶を測る」
「そう」
「記憶保持人数が多い方を残して、少ない方を消す」
「そう」
蓮は男を睨んだ。
「誰がこんなことやってる。学校か、先生か、それとも校長か」
学校でも先生でも男は反応しなかった。
しかし校長と言った瞬間、ほんのわずかに目が動いた。
「……校長?」
栞も気づいた。
三上は眉をひそめる。
「まさか」
「今、反応した」
蓮は男から目を逸らさなかった。
◇
「今の校長は桐島校長ですよね」
蓮が三上に聞く。
「ああ」
「何歳ですか」
「五十代だ」
「十七年前は?」
「この学校にはいなかった。少なくとも教師としては」
「本当に?」
三上は言葉を止めた。
「十七年前の集合写真、もう一度見てください」
蓮は画像を開く。
生徒と教師が並んだその奥、校舎の二階の窓に一人の大人が立っている。
「先生、この人」
三上の顔が青ざめる。
写真は荒いが顔立ちと髪型、それに目元は現在の校長によく似ていた。
「桐島校長……?」
「若いけど似てますよね」
「でも当時、桐島って名前の教師はいなかった」
「じゃあ誰なんですか」
誰も答えられない。
その時、電話の向こうから悠真の声がした。
『蓮』
「何」
『桐島って校長の名前?』
「そうだけど」
『俺、その名前聞いたことある』
蓮の表情が変わる。
「どこで」
『分かんない。でも子供の頃の夢で、白い部屋にいた気がする』
「どんな部屋?」
『机がいっぱいあって病院みたいな場所。そこに俺とお前がいた』
「あと誰」
一拍置いて悠真が答える。
『桐島って人』
蓮は屋上のもう一人を見る。
今度は明らかに顔が強張っていた。
「当たりか」
「何が」
「桐島」
「知らない」
「嘘だ」
「知らない」
「じゃあなんでそんな顔した」
男はしばらく黙ったあと蓮を見る。
「言ったら、お前が桐島を思い出す」
◇
その言葉を聞いた瞬間、蓮の頭の中に白い天井が浮かんだ。
蛍光灯。
机。
子供の声。
『名前を言って』
『神谷蓮』
自分の声。
『違う。君は高城悠真』
別の子供が答える。
『神谷蓮』
『そう』
白衣を着た大人の男。
「……っ」
蓮は頭を押さえた。
「神谷君!」
栞が体を支える。
「大丈夫?」
「今、見えた」
「何が?」
「白い部屋。俺と悠真がいて、名前を入れ替えられてた」
三上の表情が強張る。
「誰に」
蓮は顔を上げた。
「桐島」
◇
その瞬間、もう一人の蓮が走り出した。
「待て!」
屋上の扉を抜けた男を蓮が追い、三上と栞も続いた。
二階、一階、昇降口を抜けて校庭へ出ても男は止まらず、そのまま校舎裏の旧体育館へ向かう。
「どこ行くんだ!」
返事はない。
男は倉庫へ入ると床の扉を開け、そのまま地下へ降りた。
「また地下?」
栞が言う。
蓮は迷わず後を追い、三上と栞も続いた。
◇
地下二階の0組へ戻ると、さっきまで廊下の壁に貼られていた写真がすべて消えていた。
「何これ」
栞が周囲を見る。
「誰かが消した?」
三上が言う。
もう一人の蓮はそのまま0組へ入り、教卓の下にしゃがんで床板を外した。
「そんな場所、さっき見つけてなかった」
その下には古い箱が隠されていた。
男が蓋を開けると中にはファイルや写真、出席簿、それに一本のビデオテープが入っている。
ラベル。
0組 記録映像
日付。
平成21年9月1日
「十七年前」
三上が呟く。
部屋の隅には古いテレビとビデオデッキが置かれていた。
「なんでこんなのまで残ってるんだ」
男はテープを手に取る。
「この教室は十七年前のままだから」
◇
再生。
砂嵐のあと、画面に十七年前の0組が映った。
高校生の三上と、その隣に一人の男子生徒がいる。
今度は顔がはっきり見える。
「先生、この人」
三上は何も答えない。
少年は現在の蓮によく似ているが、目や輪郭は少し違っていた。
『三上』
『何』
『俺さ、最近自分の名前が分かんなくなる』
現在の三上が息を呑む。
「思い出した……」
映像の中の三上少年は笑っている。
『何だよそれ』
『たまに先生が俺を違う名前で呼ぶ』
『誰って?』
『神谷』
現在の蓮の指が止まる。
『神谷蓮』
『お前、神谷じゃねえだろ』
『うん』
『じゃあ何だよ』
少年は困ったように笑った。
『分かんない』
◇
映像の扉が開き、白衣の男が入ってくる。
三上がテレビへ近づく。
「……誰だ」
蓮はすぐに分かった。
「桐島」
現在の校長と同じ顔。
間違いない。
『始めます』
映像の三上が反発する。
『何を』
『出席確認です』
『こんなクラスないだろ』
『今日だけです』
白衣の男が黒板へ 0組 と書く。
『名前を呼ばれたら返事をしてください』
教室には二人しかいない。
しかし出席簿には三十三人分の名前が並んでいた。
『佐伯直樹』
返事なし。
『欠席』
『田中美緒』
返事なし。
『欠席』
それが何人も続き、やがて白衣の男が読む。
『神谷蓮』
映像の三上がなぜか反応した。
『……はい』
現在の三上が口元を押さえる。
「俺……」
『よろしい』
すると隣の少年が立ち上がった。
『違う! それ俺の名前だ!』
現在の蓮は画面を見つめた。
『座りなさい』
『俺が神谷蓮だ!』
『あなたの名前ではありません』
『じゃあ俺は誰なんだよ!』
白衣の男は笑わずに答えた。
『記録上、神谷蓮という生徒は一人です』
『じゃあ俺は誰だよ!』
『それをこれから決めます』
◇
映像が乱れたあと、少年は壁向きの椅子に座らされていた。
『座らせるな!』
映像の三上が叫ぶ。
『記憶保持試験を行います』
白衣の男が三上を見る。
『三上君、この生徒の名前を答えてください』
三上少年は少年を見る。
『……』
『どうぞ』
『三上、言え』
少年が必死に訴える。
三上少年が口を開く。
『……か』
ノイズが入り、聞き取れない。
『もう一度』
また雑音。
現在の三上がテレビへ近づいた。
「聞こえない」
映像の少年は泣いていた。
『忘れんなよ』
その後は教師、生徒、家族らしき人物へ次々と同じ質問が繰り返されるが、誰も少年の名前を答えられなかった。
最後に画面へ表示された数字。
記憶保持人数 1
「一人」
栞が呟く。
「誰?」
画面には高校生の三上が映る。
『俺は覚えてる。絶対忘れない』
現在の三上の目から涙が落ちた。
「……俺だった」
◇
白衣の男が淡々と言う。
『一名では基準を満たしません。削除処理へ移行します』
『ふざけんな! 人だぞ!』
『記録上は未登録です』
その瞬間、少年がカメラをまっすぐ見た。
まるで十七年後の蓮たちへ話しかけているようだった。
『もしこれを見てる奴がいるなら、俺の名前は――』
音が飛ぶ。
聞こえない。
映像が乱れたあと、最後の部分だけ戻った。
『……神谷蓮じゃない。それだけは覚えてて』
そこで映像が終わった。
◇
テレビには砂嵐だけが映っている。
三上は椅子へ座り込んだ。
「俺、約束したんだ。忘れないって」
栞がそばに寄る。
「先生のせいじゃありません」
「俺だけだった。俺が覚えてればって思ったけど、一人じゃ足りなかった。それでも名前まで忘れるなんて」
蓮には何も言えなかった。
その時、教卓の箱の中にもう一つ封筒が残っていることに気づく。
表には 三上智也へ と書かれていた。
三上が震える手で開く。
『三上へ。もし俺のことを忘れたらこれを読め。たぶんお前は自分を責める。でも悪いのはお前じゃない』
三上はそのまま読み続ける。
『俺も自分の名前が分からなくなってる。最近は鏡を見るたび顔が少し違うし、昨日は母さんに“あんた誰”って言われたあと普通に俺の名前を呼ばれた。たぶん何かが俺を上書きしてる』
蓮の表情が変わる。
『白衣の男は桐島って名乗ってた。あいつは名前を変える実験をしてる。本人が自分を何者だと思うか、周りが何者だと思うか、記録が何者だと示すか。その三つが全部違った時、人間がどうなるか調べてる』
栞が息を呑む。
『俺は実験体にされた。それから、俺より前に同じ実験をされた子供がもう一人いる。名前は――』
その部分だけインクが滲んで読めない。
「読めない」
三上が角度を変える。
うっすら一文字だけ見えた。
神
「神……?」
その瞬間、もう一人の蓮が手紙を奪った。
「おい!」
「読むな」
「返せ!」
「これはまだ早い」
「何が早いんだよ!」
男が手紙を破ろうとし、蓮が腕を掴む。
二人が揉み合ううちに手紙が床へ落ち、栞が拾った。
「続き読むよ!」
そこにはこう書かれていた。
『その子は十年前から歳を取ってない。何度名前を変えても何度家族を変えても同じ顔で戻ってくる』
全員が動きを止める。
『桐島はその子を“原型”って呼んでた』
◇
「原型……何の」
蓮が呟く。
もう一人の蓮は完全に顔色を失っていた。
「お前、知ってるだろ。原型って何だ。俺なのか、悠真なのか、十七年前の人なのか」
男はしばらく黙ってから首を振った。
「違う」
「じゃあ誰なんだよ」
「俺たち全員より前にいた」
「誰が」
男の声が小さくなる。
「最初の神谷蓮」
◇
その瞬間、教室の時計が突然動き始めた。
午後七時十三分。
同時にスピーカーからノイズが流れる。
『記録映像の閲覧を確認しました』
蓮が天井を見上げる。
「誰だ」
『未承認情報への接触を確認。修正処理を開始します』
黒板に文字が浮かぶ。
0組 再編成
もう一人の蓮が叫んだ。
「逃げろ」
「また?」
「今度は違う。0組が誰を残すか決める」
◇
三十三個の机が激しく音を立てながら勝手に動き、すべて前を向く。
教室にいるのは蓮、栞、三上、もう一人の蓮の四人だけなのに、空席へ次々と人影が現れ始めた。
「悠真?」
目の前の席に高城悠真が座っている。
しかしスマートフォンではまだ通話が続いていた。
『蓮?』
「悠真、お前今どこ」
『家だけど』
蓮は目の前の悠真を見る。
「じゃあこれは誰なんだよ」
さらに母の香織、美月、担任、クラスメイトたちが現れ、三十二人分の席が埋まった。
黒板。
記憶保持試験
スピーカーから質問が流れる。
『神谷蓮を知っていますか』
一人目のクラスメイトが答える。
「はい」
次。
「知ってます」
「同じクラスです」
「知ってる」
黒板に数字が増えていく。
12。
18。
24。
「増えてる」
蓮が呟く。
そして目の前の悠真へ質問が向けられた。
『神谷蓮を知っていますか』
悠真は少し黙ってから答える。
「知ってる」
蓮が安心しかけた瞬間、悠真は続けた。
「俺が神谷蓮です」
蓮の表情が凍った。
黒板。
重複を確認
神谷蓮:2名
「やめろ」
『削除対象を選択します』
栞が叫ぶ。
「神谷君!」
三上も続ける。
「返事するな!」
しかし今行われているのは出席確認ではない。
教室全体へ質問が流れる。
『あなたが知っている神谷蓮はどちらですか』
黒板に蓮の写真と悠真の写真が並ぶ。
その下には両方とも 神谷蓮 と書かれていた。
◇
クラスメイトたちが一人ずつ二人を指す。
悠真。
蓮。
悠真。
数字が増えていく。
蓮 1
悠真 2
「待って! こんなの記憶じゃない!」
栞が叫ぶ。
『多数決ではありません。記憶強度を測定しています』
一人、また一人と選択が続く。
最後には十五対十五。
「同点」
残った二人は母と美月だった。
『あなたの息子はどちらですか』
「母さん」
香織は涙を浮かべながら蓮と悠真を見比べ、ゆっくりと指を伸ばした。
選んだのは悠真。
数字。
15:16
「母さん!」
偽物の香織は悠真を見ながら言う。
「この子が神谷蓮」
蓮の学生証から文字が薄くなり始めた。
「神谷君!」
栞。
最後に美月へ質問が向けられる。
『あなたの兄はどちらですか』
「美月!」
美月は泣きながら蓮と悠真を交互に見る。
「……分かんない」
蓮の胸が締めつけられた。
「美月、俺だよ」
「でも、こっちもお兄ちゃんの記憶がある」
黒板。
判定不能
警報。
記憶重複率100%
栞が顔を上げる。
「100%?」
『両個体の識別不能。原型照合へ移行します』
もう一人の蓮が叫んだ。
「まずい!」
「何が!」
「原型が出る!」
「だから誰なんだよ!」
教室正面の床が大きな音を立て、四角い穴が開いた。
その下から白い光が漏れている。
「地下三階?」
三上が呟く。
「そんな場所」
男が蓮を止めようとする。
「行くな」
「逆に行く」
「神谷!」
「原型がいるんだろ。なら会えば全部分かる」
◇
階段を降りると、そこは学校の地下とは思えない白い空間だった。
病院か研究施設のような蛍光灯とガラス張りの壁が続いている。
三上は周囲を見回す。
「ここは知らない」
しかし蓮には見覚えがあった。
「俺は知ってる」
栞が驚く。
「来たことあるの?」
「夢で」
白い部屋。
悠真。
桐島。
名前を入れ替えられた記憶。
廊下の先には一枚の扉があり、プレートに SUBJECT 00 と書かれていた。
「00……0組」
もう一人の蓮の顔が強張る。
「開けるな」
「なんで」
「中にいるのは人間じゃない」
「何なんだよ」
男の声が震える。
「俺たちの名前の元になったもの」
◇
蓮が扉へ手を伸ばす。
「待って」
栞が止めた。
「怖くない?」
「怖いよ。でも自分が誰か分からないままの方がもっと怖い」
蓮は扉を開けた。
白い部屋の中央に椅子があり、一人の少年が背を向けて座っている。
中学生くらい。
白い服。
少年がゆっくり振り返った瞬間、蓮も栞も三上も息を止めた。
顔は神谷蓮。
ただし今の蓮より少し幼く、左頬には小さな傷がある。
屋上で会ったもう一人の蓮と同じ場所。
少年は笑った。
「やっと来た」
「お前が原型?」
「そう呼ばれてる」
「名前は?」
「ない」
「神谷蓮じゃないの?」
少年は首を振る。
「それは僕から作った名前」
蓮の心臓が跳ねる。
「どういうこと」
「桐島先生は、僕が自分の名前を忘れたあと色んな名前をくれた。その一つが神谷蓮」
「高城悠真も?」
少年は頷く。
「三上先生の友達も?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕、何回ここから出たのか覚えてないから」
◇
「何回って、人として?」
栞。
「うん。そのたびに名前と家族と学校と友達を作る。でも毎回失敗する」
「何が失敗するの」
「誰かが気づく。この人、前と同じ顔だって」
三上の声が震える。
「十七年前の生徒も」
「僕だったかもしれない」
「じゃあ消えた生徒は」
「僕だったかもしれない」
「かもしれないって何だよ」
少年は不思議そうに首を傾げた。
「消えた人の記憶は僕にも残らないから」
◇
蓮は拳を握った。
「じゃあ俺は、お前の何なんだ」
少年はしばらく蓮を見つめる。
「かなり新しい」
「何番目」
「分からない」
「昨日いた三人は?」
「分裂」
「何?」
「同じ記憶を持つ存在が一人に決められなくなった時、一時的に複数になる」
「だから三人」
「うん」
「そのうち一人消えた」
「うん」
「誰が消した」
少年は静かに答えた。
「君たち」
「俺たち?」
「覚えなかったから」
蓮の顔から血の気が引く。
「人は見えているものを全部覚えていられない。三人の神谷蓮を見ても、最後には一人だったことにする」
栞が口元を押さえた。
「だから昨日、一人が忘れられて消えた」
「そう」
◇
「屋上で倒れてた人は神谷蓮?」
蓮が聞く。
「違う」
「じゃあ誰」
少年が答えようとした瞬間、部屋の照明が赤く変わり警告音が鳴った。
『SUBJECT 00への接触を確認』
蓮が天井を見る。
「桐島?」
スピーカーから聞こえたのは現在の校長の声だった。
『神谷君、そこまでにしなさい』
「やっぱりあんたか。十七年前から何してる!」
少し沈黙してから桐島が答える。
『君を生かしています』
「は?」
『それだけです』
「ふざけるな!」
『私は何度も君を生かした』
「俺を?」
『正確には神谷蓮という存在を』
◇
原型の少年から笑みが消えた。
「嘘」
全員が少年を見る。
「桐島先生は生かしてない。消えるたびに新しい僕を作ってるだけ」
『黙りなさい』
「嫌だ」
『SUBJECT 00』
「名前で呼んで」
『君に名前はない』
少年の目に初めて怒りが浮かんだ。
「だからずっと誰かの名前を盗ませたんでしょ」
◇
また蓮の頭に映像が流れ込んだ。
白い部屋。
幼い自分と悠真。
桐島。
『今日から君は神谷蓮』
子供の蓮が繰り返す。
『神谷……蓮』
隣の子供が聞く。
『じゃあ僕は?』
『高城悠真』
『昨日は逆だったよ』
桐島は何も言わない。
『先生、どっちが本当?』
桐島は静かに答えた。
『覚えている方が本当です』
◇
蓮は目を開けた。
「思い出した」
栞が顔を覗き込む。
「何を?」
「俺と悠真、子供の頃に何回も名前を交換されてた」
三上。
「実験か?」
「たぶん。どっちの名前で呼ばれるか、周りがどっちを覚えるか試してた」
『記憶の混線です』
スピーカーから桐島が言う。
「嘘だ」
『君は混乱しています』
「じゃあ悠真の昔の写真はどう説明する。十七年前に俺たちが写ってるのはどう説明するんだ!」
桐島は答えない。
「俺は誰なんだよ!」
長い沈黙のあと声が戻る。
『知りたいですか』
「当たり前だろ」
『では昨日の屋上へ来なさい。そこで君が忘れたものを、もう一度見せます』
通信が切れた。
◇
部屋に静寂が戻る。
原型の少年が蓮を見る。
「行っちゃダメ」
「なんで」
「昨日、君は自分から桐島先生に会いに行った」
蓮の表情が止まる。
「俺が?」
「うん」
「何しに」
「頼んだ」
「何を」
少年は静かに答える。
「記憶を消してくれって」
栞も三上も言葉を失った。
「なんで俺がそんなこと」
「理由は一つ」
「何」
「昨日、屋上で本当の神谷蓮が誰か知ったから」
蓮の呼吸が止まる。
「誰なんだよ」
少年は答えない。
「言えよ。本当の神谷蓮は誰なんだ!」
少年は蓮ではなく、その後ろを見た。
「もう来てる」
◇
振り返ると、白い部屋の入り口に男子高校生が立っていた。
「悠真……?」
しかし家にいるはずだった。
蓮はスマートフォンを見る。
通話はまだ続いている。
『蓮?』
電話の向こうにも悠真。
目の前にも悠真。
目の前の悠真が笑う。
「久しぶり」
「誰だ」
「ひどいな。ずっと一緒だっただろ。幼稚園も小学校も中学も高校も」
蓮の胸が苦しくなる。
「悠真?」
「そう」
「じゃあ電話の方は」
「そっちも悠真」
「意味分かんない」
「簡単だよ。昨日、神谷蓮だけじゃなく高城悠真も二人に分かれた」
◇
「なんで」
「同じ理由。記憶が矛盾したから」
「何を見た」
悠真の表情から笑みが消える。
「屋上」
「お前もいたの?」
「うん」
「雨宮は三人の俺しか見てない」
「俺は隠れてた」
「何を見た」
「お前が一人の男に神谷蓮って呼びかけた」
「誰に」
悠真は原型の少年を見る。
「この子?」
「違う」
「じゃあ」
「大人」
「誰」
「十七年前の集合写真で顔を黒く塗り潰されていた人」
三上が息を呑む。
「そいつは誰なんだ」
「昨日、自分が最初の神谷蓮だって言った」
◇
「原型じゃなく?」
「原型は名前がない」
「じゃあ最初にこの子へ神谷蓮って名前を与えた人間?」
「そう」
「桐島?」
「違う」
「誰」
「十七年前、0組にいた」
三上が首を振る。
「俺の友達は神谷じゃない」
「うん。別人」
「その人は今どこ」
悠真の表情が曇る。
「昨日、屋上で倒れてた」
蓮の頭に最初の写真が浮かぶ。
「あの人……死んだ?」
「分からない。でも消えた」
◇
蓮は少しずつ昨日の屋上を組み立てる。
三人の神谷蓮。
雨宮栞。
二人の高城悠真。
そして最初の神谷蓮を名乗る男。
「何が起きた」
悠真はゆっくり答える。
「その男が言ったんだ。“俺を誰か一人でも覚えていれば全部戻る。神谷蓮という名前が本来の持ち主に戻る”って」
蓮の顔色が変わる。
「じゃあ俺は名前を失う」
「たぶん俺も」
「原型は」
「また名前がなくなる」
少年が目を伏せる。
「だからお前は止めた」
「どうやって」
悠真は答えない。
「男を殺したのか?」
悠真は首を横に振った。
「違う」
「じゃあ何した」
「お前は全員に忘れさせた」
◇
蓮の心臓が大きく鳴った。
「どうやって」
「0組の出席システム」
「俺が使った?」
「うん。桐島に頼んだ」
「その男を欠席にした?」
「うん」
「記憶保持人数は」
悠真が静かに答える。
「0」
蓮の足から力が抜ける。
「だから写真から消えた」
「そう」
「三上先生も忘れた」
「うん」
「栞も」
「名前だけ」
「俺も全部」
「でも何で俺だけ思い出し始めてる?」
悠真は答えない。
代わりに原型の少年が言った。
「消した本人だから」
◇
白い部屋に警告音が響く。
『時間切れです。0組へ戻ってください』
「嫌だ」
『神谷君』
「俺が誰か分からないのに、その名前で呼ぶな。俺は神谷蓮じゃないかもしれない」
『それでも現在、最も多くの人間が君を神谷蓮として記憶しています』
「だから本物?」
『はい』
蓮は笑った。
「じゃあ十七年前の人は、覚えてる人がいなくなったから偽物なのか?」
桐島は答えない。
「ふざけんな。それ、本物かどうかじゃなくて人気投票じゃん」
◇
三上も栞も悠真も原型の少年も蓮を見る。
「忘れられたら偽物、覚えられたら本物。そんなルール誰が決めたんだ」
『必要でした』
「何のために」
『一人の人間を一人として存在させるためです』
「だから他を消す?」
『統合します』
「言い方変えただけだろ」
『神谷君』
「俺は昨日、そのルールで誰かを消した。でも今日からはしない」
◇
突然、黒板に新しい表示が現れた。
記憶保持対象:未登録
候補者検索
十七年前の写真が映り、黒く塗り潰されていた男の顔が少しずつ戻っていく。
三上が息を呑む。
「先生、知ってる?」
「まだ分からない」
顔が完成する。
四十代くらいの男性。
黒板に名前が一文字ずつ現れる。
神
次。
谷
そして。
蓮
神谷蓮
誰も声を出せなかった。
追加表示。
初回登録日:平成9年4月8日
「十七年前より前」
栞。
「もっと昔からいる」
さらに表示。
現在年齢:46
その下。
現住所
蓮は文字を見た瞬間、顔色を失った。
「……嘘」
三上が聞く。
「どこだ」
蓮の声が震える。
「俺の家」
◇
「神谷君の家?」
栞が聞く。
「住所が同じ」
悠真が言う。
「じゃあその人、今そこにいる?」
蓮は母の香織と美月、そしていなくなった父を思い出した。
「うち、今父親いない」
三上。
「両親は?」
「父さんは俺が小学生の頃に行方不明になった」
栞が静かに聞く。
「神谷君、お父さんの名前は?」
蓮はすぐ答えようとした。
それくらい簡単なはずだった。
顔も声も、一緒に遊んだ記憶もある。
なのに名前だけが出ない。
「なんで……」
黒板。
神谷蓮
現在年齢46歳
現住所:現在の蓮の自宅
原型の少年が静かに言った。
「気づいた?」
「……」
「最初の神谷蓮は、君のお父さんだよ」
◇
蓮の世界が止まった。
「父さん?」
「そう」
「でも父さんの名前は……」
思い出せない。
「忘れてるだけ。桐島先生が消した」
「なんで」
「君が頼んだから」
その言葉と同時に蓮の頭に昔の記憶が戻った。
夜。
玄関。
父の声。
『蓮、お父さんね。昔、神谷蓮って名前だったんだ』
子供の蓮が笑う。
『僕と同じ?』
『そう』
『変なの』
『だろ』
父も笑った。
そして少し真面目な顔になる。
『でも本当は、この名前は僕のじゃない』
「……!」
蓮は頭を抱えた。
「思い出した」
栞。
「何を」
「父さん、自分も誰かから神谷蓮って名前をもらったって言ってた」
◇
黒板に最後の情報が表示された。
次回復元対象
神谷蓮(46)
復元予定:9月8日
「九月八日?」
栞が言う。
三上。
「あと五日」
さらにその下。
復元時 現行神谷蓮を削除します
蓮の顔から血の気が引いた。
父が戻れば自分が消える。
これが0組のルール。
一つの名前には一人しか存在できない。
それなら今の自分は、父の名前を奪うことで存在していることになる。
「俺、父さんを消して生きてたのか?」
声が震えた。
その瞬間、スピーカーから桐島の声が返ってくる。
『違います。あなたが消したのではありません』
「じゃあ誰だよ」
長い沈黙のあと、桐島は静かに答えた。
『あなたのお父様は自分から消えることを選びました』
「……何?」
『あなたを神谷蓮として残すために』
蓮は何も言えなかった。
黒板にはカウントが表示される。
復元まで 119時間
そして一番下。
赤い文字。
選択してください
父親を復元しますか?
YES / NO
蓮は画面を見つめたまま動けなかった。
父を戻せば自分が消える。
自分を残せば父は戻らない。
その選択をするまでに残された時間は、あと五日。
――第五章「十七年前の集合写真」へ続く。