昨日、僕を殺したのは誰ですか

第五章 十七年前の集合写真

第五章 十七年前の集合写真

 黒板に、二つの選択肢が浮かんでいた。

 『父親を復元しますか?』

 YES / NO

 蓮はその文字を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。

 YESを選べば父が戻る。しかし、その代わりに現在の神谷蓮である自分が消える。

 NOを選べば自分は残るが、父はこれからも神谷蓮という名前から切り離されたまま、誰にも思い出されることなく存在し続けることになる。

「……選べるわけないだろ」

 ようやく絞り出した声に応えるように、天井のスピーカーから桐島校長の声が流れた。

『選択は保留できます』

「いつまで」

『九月八日までです』

「それを過ぎたら?」

 数秒の沈黙のあと、淡々とした返事が落ちてくる。

『自動処理へ移行します』

「どっちになる」

『記憶保持人数の多い方が残ります』

 蓮は思わず乾いた笑いを漏らした。

「またそれかよ。結局、人間を多数決で決めるんだな」

『多数決ではありません』

「同じだよ」

『違います』

「じゃあ何が違う」

 桐島は答えなかった。

 蓮は再び黒板へ視線を戻す。父と自分、二人とも神谷蓮という同じ名前を持ち、同じ住所と同じ家族へ結びつけられているにもかかわらず、この仕組みの中では同時に存在することさえ許されない。

「桐島」

 三上が低い声で呼びかけた。

『……』

「もうやめろ。十七年前も、お前は同じことをした」

『必要でした』

「何のために」

 桐島はわずかな間を置いて答えた。

『世界を矛盾させないためです』

 ◇

「世界?」

 栞が聞き返す。

『同じ人間が二人存在し、同じ家族を持ち、同じ過去と同じ記憶を持つ。その状態が長期間続いた場合、記憶の衝突が起こります』

「記憶の衝突?」

『影響を受けるのは本人だけではありません。その人物を知っている周囲の人間も、どちらを本物として記憶すべきなのか分からなくなる』

 その言葉を聞いた瞬間、蓮の脳裏に0組での美月の姿が浮かんだ。

 蓮と悠真を見比べながら、美月は確かに言った。

 「どっちもお兄ちゃんの記憶がある」

「だから美月の記憶が二つになったのか」

『はい』

「母さんも?」

『可能性があります』

「だったらカレーの夜も関係あるんだろ。母さんが家にいた記憶と、夜勤でいなかった記憶が同時にある」

 桐島は答えなかったが、その沈黙が何よりも雄弁だった。

「額に傷があった母さんも」

「神谷君、それって別の香織さんってこと?」

 栞の問いに、蓮はすぐには答えられなかった。

 三上が考え込むように眉を寄せる。

「別人とは限らない。同じ人間に存在している、別の記憶なのかもしれない」

 ◇

 少し離れたところにいた原型の少年が、小さく笑った。

「やっぱり始まってる」

「何が」

「家族の分裂」

 蓮が振り返ると、少年はまるで以前にも同じ光景を見たことがあるかのような顔で続けた。

「名前だけじゃないんだ。誰か一人の存在に矛盾が増えると、その人を知ってる周りの人間の記憶まで分かれ始める」

「じゃあ母さんは」

「まだ一人だよ」

「まだって何だよ」

「今は記憶が二つあるだけ。でも、それが進めば二つの記憶のうち、どちらか一つに合わせた人間になる」

 少年の言葉を聞きながら、蓮は頭の中に浮かんでくるものを振り払えなかった。

 別の母。

 別の妹。

 別の悠真。

 そして、別の自分。

「だから昨日、俺も三人になった?」

「うん」

「悠真も二人」

「そう」

 栞が不安そうに少年を見る。

「それなら、もう神谷君だけの問題じゃないってこと?」

「そうだよ。もう周りにも広がってる」

 ◇

 三上が黒板へ目を向けた。

「九月八日まであと五日。その間に父親を復元するかどうか決めなければならない」

「でも、それだけじゃない」

 蓮は黒板の別の場所を見た。

 そこには雨宮栞の名前と、その横に 欠席日数1 という表示が残されている。

「雨宮が完全に消えるまであと六日。父さんの期限より一日長いけど、これが偶然とは思えない」

 原型の少年が首を横に振った。

「たぶん違う。同じ処理が重なってる」

「父さんの復元、雨宮の削除、俺の重複、悠真の重複……全部この一週間で決まるってことか」

 少年は静かに頷いた。

 その時、再びスピーカーが鳴った。

『地下区画を閉鎖します』

「待て、桐島」

『十分後に照明を停止します』

「まだ聞くことがある!」

『集合写真を調べてください』

 全員の動きが止まった。

「集合写真?」

『あなた方が探している答えは、すでにそこに写っています』

「十七年前の?」

『はい』

「どれだよ」

『それは、あなた自身で見つけてください』

「ふざけるな!」

 しかし通信は一方的に切れた。

 ◇

 五分後、蓮たちは0組へ戻っていた。

 そこにいるのは蓮、栞、三上、そしてもう一人の悠真。

 原型の少年は白い部屋に残っている。理由を聞いた時、少年は少し寂しそうな顔で「僕はここから出ると、また誰かになるかもしれない」と答えた。

 もう一人の蓮も、いつの間にか姿を消していた。

「本当に何人いるんだよ」

「本人たちも分かってないんじゃない」

 栞の言葉に、蓮は力なく笑う。

「笑えないな」

 三上が資料箱から十七年前の集合写真を取り出し、机の上へ置いた。

「桐島が言っていたのは、たぶんこれだ」

 三十三人が写った古い写真。

 しかし、しばらく眺めていた栞が突然眉を寄せた。

「待って。これ、三十三じゃない」

「前にも数えただろ。三十三人だった」

「人じゃなくて影を数えてみて」

「影?」

 ◇

 窓から差し込んだ光によって、写真に写る生徒や教師の影が床や壁へ伸びている。

 蓮たちは一つずつ数え始めた。

「一、二、三……」

 最後まで数えた三上の表情が変わる。

「三十二」

「一人分ない」

 人物と影を一人ずつ照合していくと、やがて栞の指が最後列の右端で止まった。

 顔を黒く塗り潰された男子生徒。

「この人、影がない」

「十七年前に消えた俺の友達なのか?」

 三上は写真を凝視したあと、すぐに首を振った。

「違う。それは違う」

「どうして分かるんです?」

「分からない。でも、こいつを見ても友達を見た時の感じがしない」

「だったら誰なんだ」

 悠真が小さく言った。

「最初の神谷蓮」

 蓮は彼を見る。

「俺の父さん?」

「可能性は高いと思う」

 ◇

 蓮はスマートフォンを使って写真を拡大した。

 黒くなっている顔をよく見ると、完全に塗り潰されているわけではないことに気づく。

「これ、インクじゃない」

「じゃあ何?」

 栞が覗き込む。

 三上も写真を手に取った。

「写真そのものだ。表面に傷もない」

「つまり最初から顔の部分だけ写ってない?」

「でも輪郭は残ってる」

 三上はその人物を見つめたまま、遠い記憶を探るように言った。

「昔、この写真を見たことがある」

「十七年前?」

「ああ」

「その時もこうだった?」

 三上は長く黙った。

「顔そのものは思い出せない。でも、黒くはなかった」

 ◇

 写真の裏には名前の一覧が印刷されていた。

 三十二人分の生徒名と教師の名前。

 しかし三十三人目だけが空欄になっている。

「最初から空欄だったんですか」

「違う」

 三上は最後の行を指した。

「ここには字があった」

「何て書いてあった?」

「思い出せない。ただ俺は、神谷蓮って名前を十七年前から知ってた気がする」

 蓮の表情が変わる。

「でも先生、地下で見た映像では、友達が『それ俺の名前だ』って言った時、先生は知らない名前みたいな反応をしてた」

「そうだ」

「矛盾してますよね」

 三上の顔から血の気が引いた。

「また記憶が二つある」

 栞の言葉に、三上はゆっくり椅子へ座った。

「神谷蓮なんて知らなかった俺と、十七年前からその名前を知っていた俺。どっちが本当なんだ」

 誰も答えられない。

 代わりに悠真が写真を見ながら言った。

「両方なんじゃないですか」

「何?」

「今までずっと、どっちかが本物だと思ってた。でもこの場所では、二つとも本当に起きたこととして残ってるんじゃないですか」

「過去そのものが一つじゃないってこと?」

 栞が尋ねると、悠真は蓮を見る。

「俺たちが二人いるんだぞ。もう、あり得るとかあり得ないとか言ってる場合じゃないだろ」

 ◇

「桐島は、この写真に答えがあるって言った」

 蓮は再び写真を裏返した。

「人物とは限らない」

 三上の言葉を聞き、全員で背景を調べる。

 窓。

 校舎。

 掲示板。

 木。

 校章。

 その時、栞が声を上げた。

「待って。時計」

 校舎外壁に取り付けられた時計の針は、十一時四十七分を示している。

「11時47分」

 三上が呟く。

 蓮はすぐに気づいた。

「23時47分。俺が学校に入った時間と同じだ」

「でも写真は昼だぞ」

「偶然?」

 誰も答えられなかった。

 さらに校舎入口付近の掲示板を拡大すると、画質は悪いものの一部の文字だけが読めた。

 9月1日

 その下。

 転入生

 そして、かろうじて読み取れる名前。

 神谷蓮

「十七年前の九月一日に転入した?」

 出席簿に残されていた神谷蓮の記録も、九月一日から始まり、出席日数は一日だけだった。

「一致してる」

「だったら、この影のない男子がお父さん?」

 悠真がそう言ったあと、すぐに眉を寄せる。

「でも変じゃないか。転入生が来る前に集合写真なんて撮るか?」

 ◇

 蓮は写真の裏に小さく印字された撮影日を見つけた。

 8月31日

「前日……」

 栞が呟く。

「神谷蓮が転入する前なのに、すでに写真に写ってる?」

「それだけじゃない」

 三上が言った。

「八月三十一日なら夏休み中だ。新学期の準備をしていたとしても、生徒全員を集めて集合写真なんて撮らない」

 栞が写真の端を凝視する。

「撮影者が写ってる」

「どこ?」

「校舎のガラス。反射してる」

 拡大すると、確かにカメラを構えた人物が映り、その隣には白衣姿の若い桐島らしき人物が立っていた。

「撮影者は別人で、その隣に桐島がいる」

 栞の声がわずかに震える。

「だったらこれ、学校行事の写真じゃない」

 蓮は写真袋に書かれている文字を見る。

 平成21年8月31日 識別試験

「実験記録……」

 その言葉に、全員の背筋が冷えた。

 ◇

 袋の中には、同じ集合写真が何枚も入っていた。

 一枚目も三十三人。

 二枚目も三十三人。

 三枚目も同じ。

 ところが、よく見ると人物の位置が少しずつ違っている。

「撮り直した?」

「違う」

 蓮は写真に写る時計を確認した。

「全部11時47分だ」

 三上も一枚ずつ見比べる。

「一秒も違ってない」

「同時に何枚も撮った?」

「でも、人の位置が変わってる」

 一枚目では影のない男子が最後列の右端。

 二枚目では中央。

 三枚目では前列。

 四枚目では姿そのものが消えている。

 そして五枚目。

「……二人いる」

 同じ顔、同じ制服の男子が、前列と後列に一人ずつ。

 六枚目では三人。

 栞が息を呑んだ。

「昨日と同じ」

「屋上にいた三人の神谷蓮……」

 三上は六枚目を見つめた。

「十七年前にも同じことが起きていたのか」

 写真袋の裏には識別率と書かれた数字が並んでいた。

 一枚目 98%
 二枚目 83%
 三枚目 71%
 四枚目 100%
 五枚目 42%
 六枚目 17%

「何の数字だろ」

「周りの人間が、どれを同じ人物だと認識できるか……とか?」

 悠真の推測に、蓮は六枚目を見る。

 三人になった時、識別率は17%まで落ちている。

 その下には赤字で記されていた。

 『分裂発生。0組へ移行。』

 ◇

 その瞬間、蓮のスマートフォンが鳴った。

 表示された名前は母。

「母さん?」

『蓮? 今どこ?』

「学校。ちょっと調べものしてる」

『早く帰ってきて』

「なんで」

 電話の向こうで母が少し黙った。

『美月が変なの』

「美月?」

『あなたのこと、お兄ちゃんじゃないって言ってる』

 蓮の体が硬直した。

「どういうこと」

『急に家族写真を見て、蓮の顔を指して、この人誰って』

「美月に代わって」

『でも』

「お願い」

 しばらく足音が聞こえ、やがて美月の声に変わる。

『……もしもし』

「美月」

『誰?』

 その一言が胸に刺さった。

「俺だよ。蓮」

『蓮?』

「お兄ちゃんだよ」

 長い沈黙。

『……違う』

「何が違うんだよ」

『お兄ちゃん、そんな声じゃない』

「美月」

『もっと低い声だった』

 蓮は言葉を失った。

「昔の写真を見てるんだよな。そこに写ってるお兄ちゃんは?」

『いる。でも今のお兄ちゃんじゃない。知らない男の人』

 ◇

「その写真、撮って送って」

 数秒後、画像が届いた。

 幼い美月と母、その隣に十歳くらいの少年が立っている。

 蓮の記憶では、そこに写っていたのは自分だった。

 しかし今は違う。

「誰だ、こいつ」

 栞が画面を覗き込む。

「神谷君じゃない」

「でも……」

 三上が眉を寄せる。

 どこか見覚えがある。

 蓮が拡大すると、悠真が息を呑んだ。

「これ、俺じゃない?」

「は?」

 確かに高城悠真に似ている。しかし完全に同じではなく、複数の顔を曖昧に重ねたような違和感がある。

「また記憶が混ざり始めてる」

 栞が呟いた。

 電話の向こうから美月の声。

『ねえ、この写真の裏に名前書いてある』

「何て?」

『神谷蓮』

 蓮は目を閉じた。

 また、自分ではない神谷蓮。

『それでもう一枚ある。お父さんと一緒の写真』

「父さん?」

『でも、お父さんの顔が……今のお兄ちゃんと同じ』

 ◇

 送られてきた二枚目の画像には、昔の公園で母、美月、幼い蓮、そして父親が並んでいた。

 父の顔を見た瞬間、全員が黙る。

 そこに写っている父親は、現在の蓮とほとんど同じ顔をしていた。

 十七歳の蓮をそのまま大人にしたような顔ですらない。

 高校生ほどの年齢にしか見えない。

「歳を取ってない」

 栞が呟く。

「この時、父さんは三十代のはずだ」

「でも写真では高校生くらいに見える」

「原型と同じだ」

 悠真の言葉で、蓮の背中に寒気が走った。

『蓮?』

 母の声に戻る。

「母さん、父さんの顔を覚えてる?」

『当たり前でしょ』

「どんな顔?」

 返事がない。

「母さん?」

『……分からない』

「え?」

『顔が分からない』

「写真を見てるんだろ?」

『見てる。でも……この人、誰?』

 ◇

 蓮は静かに目を閉じた。

 父親がもう一度消え始めている。

 今度は記録ではなく、家族の記憶から。

「進んでる」

 栞が言った。

「父親の復元処理が始まって、今の神谷君の存在を薄くしてる?」

「でも、それならどうして父親の記憶まで消える」

 悠真の疑問に、蓮はある可能性を口にする。

「戻す前に、一度全部消してるんじゃないか」

 誰も否定できなかった。

 その時、美月が再び電話へ出た。

『お兄ちゃん』

 一瞬だけ蓮の胸が跳ねる。

「思い出した?」

『分かんない。でも、一つだけ覚えてる』

「何?」

『昨日の夜、お兄ちゃん家に帰ってきたよ』

 蓮の表情が変わる。

「何時?」

『十二時すぎ』

 防犯カメラでは、蓮らしき人物が00時18分に学校を出ている。そのあとなら時間は合う。

「それから?」

『お母さんと話してた』

「何を?」

『聞こえなかった』

「その時の母さん、額に傷はあった?」

 美月は少し黙った。

『……あった』

「いつもの母さんなのに?」

『うん。それで、お兄ちゃん泣いてた』

「俺が?」

『うん』

「何て言ってた?」

 美月は記憶を探すように黙り、それから一言だけ答えた。

『父さんを戻さないで、って』

 蓮の指が震えた。

「俺が言った?」

『うん。お母さんに』

「母さんは何て?」

『全部は分からない。でも、あなたが決めることじゃないって言ってた』

 ◇

 電話が切れたあと、蓮はしばらく画面を見つめていた。

「昨日の俺は知ってたんだ。父さんのことも、復元のことも」

「そして反対してた」

 栞が続ける。

「戻したら神谷が消えると知ってたからじゃないのか」

 三上の問いに、蓮は首を振った。

「それだけじゃない気がする。自分が消えるだけなら、たぶん昨日の俺はここまで必死に止めない」

「だったら、お父さんが戻ることで別の何かが起きる?」

「ああ。たぶん、もっとまずいことが」

 蓮は再び十七年前の六枚の集合写真を見た。

 三人へ分裂した男子。

「もしこれが父さんなら、父さんは十七年前から分裂していた。そして今も同じ顔をした人間が何人もいる」

「でも父親が最初じゃない」

 悠真が言った。

「第四章で見た初回登録日は平成九年だっただろ。十七年前よりさらに前だ」

「つまり父さん自身も、誰かから神谷蓮という名前を受け継いだ」

 ◇

「なら最初の神谷蓮は父親じゃない」

 三上が呟く。

「もっと前にいた人」

「原型?」

 蓮は白い部屋に残した少年を思い出す。

 しかし原型は、神谷蓮という名前は自分から作られたと言っていた。

「名前を与えられた原型がいて、父さんがいて、俺がいる。それなら誰が最初なんだ」

「集合写真」

 栞が突然言った。

「人物じゃなくて、ここ」

 写真の下部に印刷された校名。その横に、小さなプレートが写っている。

 神谷記念館

「神谷……」

 三上の顔色が変わった。

「この建物、昔あった?」

「……あった。旧校舎の近くに。十年以上前に取り壊されたはずだ」

「何の施設?」

「資料館だったと思う。創立に関わった医師の記念館で……」

「名前は?」

 三上は記憶を探り、やがて答えた。

「神谷廉一郎」

 ◇

「れんいちろう?」

「蓮じゃない。廉。清廉の廉だ」

 栞が小さく呟く。

「でも読み方は同じ」

 神谷廉。

 神谷蓮。

 偶然と呼ぶには、ここまで積み重なったものが多すぎる。

「神谷記念館、白衣、識別試験、0組……」

 蓮は一つずつ繋げていく。

「もしかして0組って、学校が始めたものじゃないんじゃないか」

 三上は資料箱を探り、やがて古びたパンフレットを見つけた。

 表紙にはこうある。

 神谷記念館
 人間記憶研究資料室

「研究施設……」

 ページを開くと、創設者として一人の老人の写真が掲載されていた。

 神谷廉一郎。

 医師であり心理学と記憶研究を専門とし、昭和後期に現在の学校が建つ土地の一部を寄付した人物。

「学校ができる前から、ここで記憶の研究をしてたってこと?」

「俺は知らなかった」

 三上の声には本当の困惑があった。

 ◇

 次のページには研究テーマが並んでいた。

 自己認識と社会的記憶。

 名前が個人認識へ与える影響。

 集団記憶による人格固定。

「そのままじゃん」

 悠真が言う。

「0組で起きてることと」

 さらにページ下部には、一文が印刷されている。

 『人は自分一人では自分になれない。』

 その下に、誰かが赤いペンで文章を書き足していた。

 『だから、三十三人いれば一人を作れる。』

 誰も言葉を発しなかった。

「三十三……またこの数字」

 栞が呟く。

 三上がページをめくると、古い実験室の写真が現れた。白衣を着た研究者たちと子供たち、その中央に一人の少年が座っている。

 顔を見た瞬間、蓮には分かった。

「原型……」

 だが、写真の日付を見て言葉を失う。

 昭和62年。

「三十九年前?」

 悠真も写真へ顔を近づける。

「あいつ、今も中学生くらいにしか見えなかったよな」

「歳を取ってない……?」

 少年の名前欄には、本名ではなく 被験者00 とだけ記されていた。

 その隣には神谷廉一郎。

 さらに若い男性が一人。

「桐島?」

 蓮が言う。

 三上は首を振った。

「似てる。でも年齢が合わない」

 ◇

 写真の裏には研究記録が残されていた。

 『00は自分の名前を保持できない。周囲が与えた名前に人格が引きずられる。三十三名以上の記憶が一致した場合、人格は安定する。』

「三十三人だからクラスを使った?」

 三上が呟く。

「一クラス三十三人なら、同じ記憶を持たせる実験をするには都合がいい」

「でも今のクラスは三十二人」

 栞が言う。

 蓮はある考えに気づいた。

「一人が消れるたびに三十二人になる。そして新しい一人を入れて、また三十三人に戻す」

 ページの最後には、神谷廉一郎自身の文章が残されていた。

 『被験者00に恒久的な名前を与える。』

 その下。

 『仮称――神谷蓮。』

 蓮の呼吸が止まる。

「ここが最初……」

 栞が呟く。

「神谷廉一郎が自分の名字と、自分の名前の読みを与えた」

「それで神谷蓮」

 悠真の声を聞きながら、蓮はゆっくり椅子へ座った。

「じゃあ最初の神谷蓮は、名前のない原型の少年だった。でも、その名前が何度も他人へ移されて、原型から父さんへ、そして俺へ来た」

 その先を口にするのが怖かった。

「父さんも俺も、原型を安定させるための代わりだったのか?」

 誰も答えなかった。

 ◇

 パンフレットの最後には、一枚のコピー用紙が挟まっていた。

 研究中止命令。

 理由。

 被験者00による同一性侵食の拡大。
 関係者に記憶混乱を確認。
 複数名が自らを被験者00と認識。
 研究主任・神谷廉一郎を含む。

「研究者本人まで、自分を00だと思い始めた?」

「名前が感染みたいに広がったんだ」

 悠真の言葉に、蓮は次の記録を見る。

 昭和63年3月 被験者00 所在不明

「消えた?」

「違う。原型は今も地下にいた」

「なら所在不明になったあと、誰かが回収したことになる」

「桐島?」

 紙の一番下には手書きの文章があった。

 『研究は終了しない。00を一人に戻すまで。』

 署名。

 桐島修司

「今の校長と同じ名前……」

「昭和六十三年なら、当時二十歳前後だったとして今は六十近い。年齢だけなら不可能ではない」

 栞が写真を見つめる。

「でも、もしずっと同じ顔だったら?」

 全員が黙った。

「まさか」

 三上の言葉を、悠真が引き継ぐ。

「桐島修司も、名前を引き継いでる?」

「神谷蓮と同じように、一人じゃない……」

 ◇

 その瞬間、教室の照明が消え、赤い非常灯だけが点灯した。

『閲覧時間を終了します』

「桐島!」

『神谷君』

「お前、何代目だ」

 三上が驚いて蓮を見る。

「何を言ってる」

「桐島修司って名前だよ。お前も受け継いでるんだろ」

 長い沈黙。

 やがてスピーカーから声が返る。

『非常に良い質問です』

「答えろ」

『私が何代目なのか、私自身にも分かりません』

 栞の表情が変わる。

「じゃあ本当に……」

『私も0組の生徒でした』

 全員が息を呑んだ。

「いつ」

『最初は昭和六十三年。少なくとも、私が覚えている限りでは』

「桐島修司も作られた名前なのか」

『はい』

「原型と同じ?」

『違います。私は被験者00を監視するために作られた役割です』

「人間じゃなくて役割?」

『神谷蓮が増えすぎず、消えすぎないように監視し、一人へ戻す。それが桐島修司です』

「だから校長になった?」

『学校に居続けるには都合の良い立場でした』

 ◇

 三上が立ち上がった。

「十七年前、お前は俺の友達を消した」

『違います』

「何が違う!」

『彼は神谷蓮になりかけた。だから彼自身を守るために処理したのです』

「人を消すことが守ることなのか!」

『神谷蓮として完全に固定されれば、元の彼には二度と戻れません』

「だったら名前を返せ!」

『できません』

「なぜだ!」

 桐島は静かに答えた。

『あなたが忘れたからです』

 三上の表情が歪む。

「先生だけじゃない」

 栞が呟いた。

「周りの人たち全員が、その人の本当の名前を忘れた」

『はい』

「なら思い出せれば戻せる?」

『可能性はあります。しかし十七年は長すぎます』

「でも父さんは戻せるんだろ」

 蓮が言う。

『神谷蓮という名前でなら』

「元の名前は?」

『分かりません』

 蓮はようやく理解した。

「父さんも本当は神谷蓮じゃない」

『そうです』

「だったら父さんを復元するって、本当の父さんを戻すことじゃない。神谷蓮という役を演じていた父さんを戻すだけなんだな」

『はい』

「そのために俺を消す?」

『現在の重複を解消するためには必要です』

「ふざけるな」

 ◇

 蓮は黒板に残された YES / NO を見た。

「選ばない」

『期限があります』

「知らない」

『九月八日です』

「それまでに第三の方法を探す」

『ありません』

「ある」

 蓮は黒板をまっすぐ見た。

「神谷蓮を一人にしなきゃいい」

『それは――』

「父さんも、俺も、原型も、それぞれ別の名前に戻す。本当の名前を取り戻せば、同じ一人として扱われなくなる」

『不可能です。記録がありません』

「だったら思い出す」

『誰が』

 蓮は三上を見る。

「先生が十七年前の友達の名前を思い出す」

 栞も続く。

「私も、消える前の自分を思い出す」

「俺たちも本当の名前を探す」

 悠真が言う。

 そして蓮は、はっきりと言い切った。

「全部戻す」

 ◇

『成功率は――』

「聞いてない。やる」

 長い沈黙のあと、桐島が言った。

『では、集合写真の三十四人目を見つけなさい』

「三十四人目?」

「写真は三十三人だぞ」

 三上が言う。

『いいえ。そこにずっと写っています』

 通信はそこで切れた。

 蓮たちは再び集合写真を囲んだ。

 三十三人の生徒。

 教師。

 影。

 窓。

「撮影者?」

「それなら写真の外だ」

「窓に映ってる桐島を入れたら三十四人」

「でも、それなら簡単すぎる。わざわざ桐島が問題にする意味がない」

 栞の言葉に蓮は頷き、六枚の写真を横一列に並べた。

「違いを探そう」

 一枚目から六枚目まで、人の位置、影、窓を比較していく。

 やがて蓮の指が止まった。

「ここ」

「何?」

「校舎の窓」

 一枚目から五枚目までは、二階の窓に桐島らしき人物が一人だけ映っている。

 しかし六枚目だけは違う。

「……二人いる」

 一人は二階。

 もう一人は三階。

 顔は小さいが、同じ桐島に見える。

「これが三十四人目?」

「いや、生徒三十三人に桐島が二人なら三十五人になる」

「でも三十三人の中にも神谷蓮が三人いる写真がある」

 悠真の言葉に、栞が呟く。

「数えてるのは人間じゃないのかも」

「じゃあ何を?」

「名前」

 ◇

 写真の裏には三十二人分の名前と一つの空欄。

 桐島の名前はない。

「写真にいない名前があるんじゃないか」

 三上が資料箱から古い出席簿を取り出す。

 一番から三十三番まで確認すると、最後には神谷蓮の名前がある。

 三十四番はない。

「別のページは?」

 栞が最後の備考欄を調べていると、紙の端に不自然な厚みがあることへ気づいた。

「これ、紙が貼ってある」

 三上が慎重に剥がす。

 その下に隠されていた一行。

 34

 全員が息を止める。

 名前はかすれていた。

 最初の文字。

 雨

 栞の顔が凍る。

 二文字目。

 宮

 そして三文字目。

 栞

 34 雨宮栞

 ◇

「十七年前に……雨宮栞?」

 蓮の言葉に、栞は強く首を振った。

「私、まだ生まれてない」

 三上が突然額を押さえた。

「この名前……知ってる」

「え?」

「違う。今、頭の中に記憶が……」

 十七年前の教室。

 窓際に座る一人の女子生徒。

 黒髪。

 左目の下に小さなほくろ。

「……雨宮」

 栞が震えた。

「私?」

「違う。でも顔は同じだ」

「十七年前にも雨宮栞がいた……」

 悠真が写真を見る。

「神谷蓮だけじゃない。名前そのものが繰り返されてるんだ」

 出席簿の34番には、さらに備考があった。

 記憶保持補助者

 その下。

 被験者00の認識維持担当

「雨宮栞は、神谷蓮を覚えておくための役?」

 三上が言った。

 栞は自分自身を確かめるように胸へ手を当てる。

「だから私だけ、神谷君を忘れない……?」

 ◇

 蓮は第一章からの出来事を思い返した。

 悠真もクラスメイトも、雨宮栞という人間を忘れた。

 しかし栞だけは地下を知り、写真の意味を知り、蓮に警告した。

 『昨日の自分を信じないで』

「お前、最初から俺を覚えていられるように何かされてたのか?」

「知らない」

「本当に?」

「本当に!」

 三上が静かに尋ねる。

「なら、なぜ地下を知っていた」

 栞は黙った。

「雨宮」

 蓮は彼女を見る。

「もう隠すな。写真をいつから受け取ってた?」

 長い沈黙のあと、栞は答えた。

「八月二十六日」

「俺より前じゃん」

「うん」

「何枚?」

「七枚」

「七枚も?」

「一日一枚ずつ届いた」

「何が写ってた?」

 栞は震える声で答える。

「最初は私の教室。その次は地下。その次は0組。そして……十七年前の私」

 ◇

「見てたのか」

「うん」

「なんで言わなかった」

「怖かったから」

「俺が?」

「違う。写真の裏に書いてあることが」

 栞は鞄から小さな封筒を取り出した。

「全部は残ってない。でも、何枚かは持ってきた」

 一枚目。

 『あなたは今回も神谷蓮を忘れない。』

 二枚目。

 『それがあなたの役目です。』

 三枚目。

 『ただし、思い出してはいけない。』

「何を?」

 栞は最後の写真を裏返した。

 そこには一行。

 『あなたが最初に神谷蓮を殺した。』

 教室から音が消えた。

「これを見て怖くなった。十七年前の雨宮栞が神谷蓮に何かしたのなら、それが今の私にも繰り返されるかもしれないって思った。だから昨日、屋上で何が起きるのか自分で確かめたかった」

 ◇

 三上は六枚の集合写真を確認する。

「十七年前の雨宮はどこだ」

「いない」

 蓮も探したが、どの写真にも栞らしき女子生徒はいない。

「名簿には34人いるのに、写真には33人」

 悠真が顔を上げる。

「撮影者じゃないか?」

 全員がガラスに映った撮影者へ目を向けた。

 カメラを構えた人物。

 髪が長い。

 女子生徒。

 拡大すると、左目の下に小さな点がある。

「……私」

 栞が呟いた。

 十七年前の集合写真を撮影した人物。

 それが雨宮栞。

「三十四人目は写真の外じゃない。ガラスの反射として、最初から写真の中にいたんだ」

 ◇

 その瞬間だった。

 集合写真の中で、ガラスに映っていた女子生徒がゆっくりこちらを向いた。

「今……動いた?」

 栞が息を呑む。

 十七年前の雨宮栞の唇が、何かを伝えるように動いている。

「何て言ってる?」

 蓮は口元を見つめた。

「か……み……や……」

 神谷。

「れ……ん……」

 神谷蓮。

 さらに続く。

「を……し……ん……じ……る……な」

 蓮の顔色が変わった。

 『神谷蓮を信じるな。』

「私が言ったのと同じ」

 栞が呟く。

「昨日の自分を信じるなって」

「十七年前から同じ警告が繰り返されてる」

 写真の中の女子生徒は、さらに唇を動かす。

「ほ……ん……も……の……は……い……な……い」

 『本物はいない。』

 悠真が息を呑む。

「本物がいないって……原型も?」

「父親も、今の神谷も?」

 蓮は答えられない。

 写真の中の雨宮栞は最後にもう一つの言葉を伝えた。

 『0組は、人を消す場所じゃない。』

 そして。

 『記憶を作る。』

 ◇

 その言葉によって、蓮の中で今まで別々だった出来事が一つに繋がった。

「待って。俺たちはずっと、0組が人を消してると思ってた」

「違うの?」

「逆なんだ」

 蓮は黒板を見る。

「0組は誰かを直接消してるんじゃない。三十三人に同じ記憶を与えて、一人の人間を作ってる」

「なら消えた人たちは?」

「新しく作られた記憶に押し出されてる」

 雨宮栞はクラスから消え、机も記録もなくなった。

 しかし現在の人数は三十二人のまま。

「まだ代わりが入ってないんだ」

「まだ?」

「七日経って雨宮が完全に消えたら、その空いた場所に新しい誰かが入る」

 その瞬間、黒板に文字が浮かんだ。

 雨宮栞
 欠席日数 2

「増えた……さっきまで1だった」

 三上が時計を見る。

 表示は午前0時00分。

「いつの間に」

 地下へ入ったのは夕方だった。

 日付はすでに九月四日。

 栞の消失は二日目へ入った。

 黒板にはさらに文字が追加される。

 代替候補選定中

「やっぱり……」

 蓮が呟く。

 そして候補者名が一文字ずつ現れた。

 雨宮栞 代替候補――神谷蓮

「……は?」

 ◇

「俺が雨宮の代わり?」

 続いて表示される。

 適合率 92%

「高すぎる」

「性別も記録も全然違うのに」

 栞の疑問に、蓮は気づいた。

「見てるのは名前や性別じゃない。記憶の役割なんだ」

「雨宮は神谷蓮を覚えておく役」

 三上が続ける。

「そして神谷君は、自分自身を神谷蓮だと覚えている」

 黒板に新しい説明が浮かぶ。

 『記憶保持補助者が消失した場合、被験者本人を補助者へ転換します。』

「神谷君が私になる?」

「違う。俺が神谷蓮を覚えておく側へ回されるんだ」

 悠真の表情が変わる。

「じゃあ、神谷蓮本人は誰になる?」

 黒板はその問いに答えた。

 『新規個体を登録します。』

 誰も声を出せなかった。

「新しい神谷蓮が作られる……」

 ◇

 廊下から足音が聞こえた。

 ゆっくりと近づいてくる。

 0組の扉が開き、一人の少年が教室へ入ってきた。

 制服姿。

 蓮と同じ顔。

 しかし目や髪、表情にわずかな違いがある。

 今まで一度も見たことのない、新しい神谷蓮。

 黒板。

 『新規個体 登録準備完了』

「もう作り始めてる……」

 栞が呟く。

 少年は蓮を見ると、穏やかな声で言った。

「初めまして」

「お前……誰だ」

「神谷蓮」

「違う」

「そう教えられた」

「誰に」

「先生」

「桐島?」

「うん」

 少年は微笑んだ。

「母さんは神谷香織。妹は美月。友達は高城悠真。好きな食べ物はカレー。右手の小指は昨日怪我した」

 包帯まで同じだった。

「昨日の夜、何してた」

「学校の屋上に行った。雨宮栞に会って、それから一人の男を0組から消した」

 ◇

 蓮は少年へ近づいた。

「お前、俺の記憶を持ってるのか」

「うん」

「どこまで」

「全部」

「だったら昨日、屋上で誰が人を殺した」

 少年は少し考えてから答えた。

「僕」

 教室が静まり返る。

「嘘」

 栞が言う。

「本当だよ」

「何をした」

「名前を消した」

 蓮は少年を睨む。

「それを殺したって言ってるのか」

「うん」

「誰の名前を消した」

 少年はゆっくり答えた。

「神谷蓮」

「どの神谷蓮だよ」

 少年は少しだけ笑った。

「それが分からない」

 ◇

「お前は俺じゃない」

「うん」

「でも俺の記憶がある」

「うん」

「だったら、俺が忘れた記憶も持ってるのか」

 その瞬間、少年の表情がわずかに変わった。

「あるよ」

「桐島に消してもらった記憶も?」

「うん」

「見せろ」

「嫌だ」

「なんで」

 少年は蓮をまっすぐ見た。

「見たら、君は僕になるから」

「意味分かんない」

「記憶が全部同じになったら、どっちがどっちなのか分からなくなる。今の君は、自分が神谷蓮だと思ってる。でも僕の記憶を全部見たら、自分こそ昨日作られた方だと思うかもしれない」

 蓮は何も言えなくなった。

 今目の前にいる少年が新しいのか。

 それとも、自分の方が新しいのか。

「証拠を探せばいい」

 悠真が言った。

「どっちが先にいたか、防犯カメラで確認できる。昨日の三人の神谷蓮が、それぞれ何時にどこから学校へ入ったのか追えばいい」

 ◇

 蓮、栞、三上、悠真、そして新しい神谷蓮の五人は地下を出た。

 B2からB1、倉庫を抜け、地上へ戻る。

 学校はすでに深夜だった。

「本当に何時間も飛んでる」

 三上は職員室へ入り、防犯カメラの記録を開いた。

 九月一日、23時30分から再生する。

 23時47分。

 正門。

 一人目の神谷蓮が現れ、カメラを見るように笑った。

「これ、俺?」

「分からない」

 栞が答える。

 しかし新しい少年は画面を見ながら言った。

「僕だと思う」

「なんで」

「覚えてるから」

 映像は続く。

 23時49分、校内。

 23時51分、廊下。

 23時53分、階段。

 23時56分、屋上。

 そして23時58分。

「待って」

 悠真が画面を指した。

 裏門から二人目の神谷蓮が入ってくる。

 さらに00時01分。

 正門から三人目。

 三人とも別々に学校へ入っていた。

「一人目が23時47分、二人目が23時58分、三人目が00時01分」

「屋上に三人いたっていう雨宮の証言と一致する」

 新しい少年は一人目を指した。

「これが僕」

「証拠は?」

「記憶だけ」

 ◇

 00時07分。

 栞が屋上へ入る。

 00時09分には一人の神谷蓮が階段を降り、00時10分にはB1入口へ向かっている。

 しかし同じ頃、別の神谷蓮はまだ屋上にいた。

 00時13分には廊下。

 そして00時18分、B2・0の鍵を持った神谷蓮が正門から出ていく。

「この最後に出た奴、俺?」

 新しい少年が頷く。

「うん。これは君」

「だったら一人目がお前で、二人目と三人目は?」

「分からない」

「昨日、屋上で何が起きた」

 少年は少し黙った。

「最初の神谷蓮が、自分の名前を取り戻そうとした」

「父さん?」

「違う」

「じゃあ誰」

「十七年前に最初に消えた人」

 三上が身を乗り出す。

「俺の友達?」

「違う」

「じゃあ誰なんだよ!」

 蓮の声が職員室へ響く。

 少年は静かに答えた。

「雨宮栞」

 ◇

 栞の表情が凍りつく。

「十七年前、最初に消えたのは雨宮栞だった」

「いや、男子だった」

 三上が否定する。

「そう記憶してるだけ。34番、撮影者、雨宮栞。彼女は集合写真を撮った次の日に全員から忘れられた」

「じゃあ……今と同じ?」

「うん」

「男子生徒は?」

「二人目」

 三上は何も言えなくなった。

「俺は最初から、順番を間違えて覚えていたのか」

「十七年前、最初に雨宮栞が消え、そのあと神谷蓮が増えた。そして三上先生の友達が消えた」

 蓮はすぐに今回の出来事へ置き換える。

「今回も雨宮が消えて、俺が増えてる」

「そう」

 悠真が少年を見る。

「なら次は?」

 少年はゆっくり悠真へ視線を向けた。

「三上先生の友達に当たる人が消える」

 ◇

「誰だよ」

 少年は答えない。

 その時、悠真のスマートフォンが震えた。

 差出人不明。

 一枚の画像。

 教室の中で、高城悠真が一人だけ机に座っている。

 背後には誰もいない。

 添えられたメッセージ。

 『次は彼です。』

「……嘘だろ」

 悠真は笑おうとした。

「まあ、流れ的には俺だよな」

「笑うなよ!」

「じゃあどうしろってんだよ」

 栞が少年を見る。

「あと何日?」

「十七年前、雨宮栞が消れてから三日後に三上先生の友達が消えた」

「だったら俺は九月七日?」

「たぶん」

 蓮は頭の中で期限を並べた。

 現在は九月四日。

 悠真まで三日。

 父の復元まで四日。

 栞の完全削除まで五日。

 そして神谷蓮は、誰が残るのかさえ分からない。

「時間ないな」

 栞が呟く。

「だったら、十七年前と同じことをしなければいい」

 蓮は集合写真を見る。

「今回も順番通り消えるなら、その順番を最初から壊す」

「どうやって」

「最初に雨宮を戻す。三十三人に雨宮栞を思い出させる」

「次は?」

「悠真を絶対に忘れさせない。写真や動画や紙だけじゃ足りないなら、人間に覚えさせる。できるだけ多く」

 三上が尋ねる。

「父親は?」

「神谷蓮としては戻さない。本当の名前を探す」

「間に合うのか」

「間に合わせる」

 ◇

 その時、新しい少年が小さく尋ねた。

「僕は?」

 全員が彼を見る。

「僕も消す?」

 蓮は首を横に振った。

「いや」

「じゃあどうするの」

「お前にも元の名前があるなら探す」

「ないよ。僕は昨日作られたんだから」

「それでも昨日から、お前として生きてるだろ」

 少年の表情が止まる。

「だったら名前くらい、自分で選べばいい」

「自分で?」

「神谷蓮じゃなくていい。誰かから盗まなくてもいい名前を、自分で選べばいい」

 少年はしばらく黙っていた。

 そして初めて、神谷蓮のコピーではない一人の少年として笑ったように見えた。

「……考えとく」

 ◇

 その瞬間、職員室のプリンターが勝手に動き始めた。

 一枚、二枚、三枚と紙が吐き出される。

 三上が最初の紙を取る。

「十七年前の集合写真……?」

 しかし今までのものとは違っていた。

 全員の顔がはっきりしている。

 三十四人。

 撮影者だったはずの雨宮栞も、なぜか列の中に立っている。

「写真が変わった」

 栞が呟く。

 最後列には三上の友人らしき男子。

 そして、その隣。

 高城悠真。

「……俺?」

 十七年前、生まれてすらいないはずの悠真が、はっきりと写っている。

 裏には名前。

 32 神谷蓮
 33 高城悠真
 34 雨宮栞

「今回と同じ構成になってる」

 蓮が言った。

 さらに一番下。

 『十七年前の再現率:94%』

 『不足要素:1名』

「一人足りない」

 次の紙は現在のクラス写真だった。

 三十三人。

 蓮も悠真も栞もいる。

 そして最後列には、顔を黒く塗り潰された知らない男子生徒。

 その下。

 『不足要素が登録された場合 再現率100%』

「100%になったら何が起きる」

 最後の紙に、その答えが赤字で印刷されていた。

 『平成21年9月2日を再実行します。』

 誰も動けない。

「再実行……」

 三上が呟く。

「十七年前の事件を、そのままもう一度やるってことか」

 ◇

 そして最後の一行。

 『不足要素候補:神谷美月』

「美月……?」

 蓮の目が見開かれる。

 プリンターがもう一枚の紙を吐き出した。

 そこに写っているのは美月の部屋。

 ベッドで眠っている美月。

 撮影時刻は現在。

 その背後には、額に傷のある母・香織。

 そしてさらに後ろには、高校生ほどの男子が立っていた。

 蓮と同じ顔。

 写真下部。

 『回収準備完了』

 蓮の手から紙が落ちた。

「美月……」

 母へ電話する。

 出ない。

 美月へかける。

 こちらも出ない。

「神谷君」

「帰る」

「俺も行く」

 三上が立ち上がる。

「いや、一人で――」

「ダメ!」

 栞が遮った。

「今まで一人で動いた時、何が起きた?」

 蓮は答えられなかった。

 屋上。

 消えた記憶。

 分裂した自分。

「……全員で行く」

 ◇

 蓮たちは夜の校舎を走り抜けた。

 玄関から外へ飛び出し、蓮の家まで十五分ほどの道を全速力で走る。

 その途中、スマートフォンが鳴った。

 美月。

「美月!」

『……』

「もしもし! 大丈夫か!」

『お兄ちゃん』

「今どこ?」

『家』

「母さんは?」

『いる』

「額に傷は?」

『……ある』

 蓮は走りながら叫ぶ。

「部屋から出るな」

『でも』

「何?」

『お母さんが、お兄ちゃん帰ってきたって言ってる』

 蓮の足が止まった。

「俺はまだ外だ」

『……え?』

「誰が帰ってきた」

 電話の向こうで、廊下を歩く足音が聞こえた。

『お兄ちゃん……ドアの前に誰かいる』

「開けるな」

『でも』

「絶対に開けるな!」

 電話越しにノックの音が響いた。

 コン。

 コン。

 コン。

 そして男の声。

『美月』

 蓮とまったく同じ声だった。

『開けて』

『お兄ちゃんの声……』

「違う! 俺はここにいる!」

 ドアの向こうから、もう一度声がする。

『美月』

 少しの間を置いて、男は優しく告げた。

『本物のお兄ちゃんだよ』

 そこで電話が切れた。

「美月!」

 蓮は再び走り出した。

 自分の名前が誰のものなのか、父親の正体が何なのか、原型とは何者なのか、0組が何をしようとしているのか――そんなことは今だけはどうでもよかった。

 ただ一つだけは、絶対に許してはいけない。

 美月を三十四人目にしてはいけない。

 もし十七年前の事件が本当に繰り返されようとしているのなら、今度こそ同じ順番で誰かが消えていく未来を止めなければならない。

 そのためなら、自分が神谷蓮でなくなっても構わない。

 蓮は夜道を走りながら、初めて本気でそう思った。

 そしてその頃、誰もいなくなったはずの0組では、黒板に新しい文字が静かに浮かび上がっていた。

 『三十四人目――回収開始』

――第六章「犯人を忘れる町」へ続く。
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