光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第7話 困らない男

七月。

理久は宣言通り、肝胆膵班を選んだ。

班の完全な下っ端になったこともあり、雑務は一気に増えた。忙しさは、それまでの倍になったように感じる。

そして、いまだに年功序列が根深く残っていることもあって、4月から一度も学会には連れていってもらえていない。

癖の強い上司たちが幅を利かせているのだから、仕方がない。

理久にできることといえば、空いた時間にひたすら論文を読み、水面下で着々と実力をつけていくことくらいだった。


「おい、藤崎。覚えてるだろうな? 今度の飲み会」

休憩室でたまたま会った桐谷が、暑苦しく肩に腕を回してきた。

「はいはい、忘れた。俺、忙しいんだけど」

「嘘だな。お前が忘れるわけないからな」

腐れ縁とは、つくづく面倒くさいものだ。

「七月七日だろ? 七夕の日だから覚えとけって言われた」

「ほらな。覚えてんじゃん」

実力もある。
コミュニケーション能力にも長けている。

桐谷は大学院へ進み、大学病院でも働きながら、着実に自分の基盤を固めていた。

「そういえば、お前。彼女と別れたんだって?」

「……情報早いな」

「知り合いの友人だから、話くらい回ってくるよ。たった三週間だったらしいじゃん。なんで別れたんだよ」

本当にどこまでも詳しい。

こういう情報網に長けているのは、医者としては強みなのかもしれないが、友人としては厄介でしかない。

理久はうんざりした顔で缶コーヒーを開けた。

「どっかの三文芝居みたいな台詞だよ」

「何?」

「私と仕事、どっちが大事なの、だってさ」

「あー……藤崎の地雷だな」

「私と仕事って、そもそも同じ世界線にある? 比べる対象?」

「はい、出た。もう先は読めた」

「俺は仕事とは言ってないからね」

「答えない時点で、その議論は終わってるんだよ」

桐谷が呆れたように言う。

「だから、比べられないって話をしただけだよ」

「それを答えてないって言ってんの」

「論理的におかしくない?」

「恋人との会話に、いちいち論理持ち込むなよ」

理久は眉を寄せた。


やはり納得できない。


桐谷はそんな理久を見て、深いため息をついた。

「あのさ。そもそも三週間で別れるような相手なら、なんで付き合ったんだよ」

理久が缶コーヒーを口元へ運びかけて、少し止まる。

それから、気まずそうに視線を逸らした。

その仕草だけで、桐谷の顔が変わった。

「……ああ。もういい。聞きたくない」

「まだ何も話してないんだけど」

「わかったから。だいたい」

「何が?」

「向こうから好かれて、そのまま流されて寝たんだろ」

理久は黙った。

桐谷が目を細める。

「当たりかよ」

「流されたって言い方はどうかと思うけど」

「じゃあ何」

「好意を持たれてたのは知ってたし、俺も嫌じゃなかった。それで、まあ……そうなった」

「それを流されたって言うんだよ」

「相手も大人だよ?」

「そういう話してない」

桐谷は額を押さえた。

「で? 寝たから付き合ったの?」

「……そうだけど」

「なんで?」

理久は今度こそ桐谷を見た。

「なんでって。寝たのに、そのまま何もなかったことにする方が不誠実だろ」

桐谷が数秒、黙った。

「藤崎」

「何」

「それ、誠実じゃないから」

「は?」

「好きだから付き合うんじゃなくて、寝た責任で付き合うのは誠実とは言わない」

「じゃあ、どうするのが正解だったんだよ」

「好きじゃないなら、最初から寝るな」

理久は少し考えた。

「それはまた別の話じゃない?」

「別じゃねえよ!」

休憩室に桐谷の声が響いた。

理久は思わず笑う。

「声、大きいって」

「お前が訳わかんないこと言うからだよ」

「少なくとも、付き合ってる間はちゃんとしてたよ。浮気もしてないし、連絡も返してたし、時間があれば会ってた」

「それ、彼氏として最低限だからな」

「誠実でいようとしてたら振られたんだって。俺の方が被害者だからね」

「真面目ぶるなよ」

桐谷は呆れ果てたように椅子へ寄りかかった。

「向こうは、お前が自分を好きだから付き合ってると思ってたんだろ」

「嫌いじゃなかったよ」

「その言い方がもう駄目なんだって」

「好きじゃなかったとは言ってない」

「じゃあ好きだったの?」

理久が黙る。

桐谷が鼻で笑った。

「ほらな」

「三週間でそこまでわかる?」

「付き合う前に考えろよ」

「面倒くさいな、恋愛って」

「今さら気づいたのか?」

理久は缶コーヒーを一口飲んだ。

「もう女はいいよ……。仕事と恋愛を同じ世界線で見るような相手とは、一生分かり合えないね」

「お前の結論、そこなの?」

やれやれと桐谷が首を振る。

「放射線科の女医は違ったのかよ」

理久の表情が少しだけ変わった。

「……な、ま、え。ちゃんとあるんだけど?」

「だから忘れたって。まあ、六歳も年上だったんだっけ? お子さまなお前のことも、優しく包んでくれてたんだろうな」


包まれていた。


そう思っていた。

少なくとも、自分は。

同じ方向を見て、同じ速度で進んでいると思っていた。

仕事の話ができた。
論文の話ができた。
考え方について議論することもできた。

恋愛と仕事について話したとしても、感情論ではなく、いろいろな視点から話せるような人だった。


「自分らしくいられたんだよ」


桐谷が黙る。

理久は缶を見ながら続けた。

「そんな馬鹿みたいな議論を持ちかけられたこともなかったし。俺が仕事ばっかりでも、そういう人間だってわかってくれてると思ってた」

少し間を置く。

「ありのままを受け入れてくれてるって思ってた。完全な独りよがりだったけどね」

桐谷が理久の顔をじっと見る。

それから、わざとらしく眉を上げた。

「お。王子に哀愁が漂ってる」

「……何それ」

「やめろやめろ。綺麗すぎて余計に女が引き寄せられるから」

理久が軽く睨む。

桐谷はまったく悪びれなかった。

「まあ、とりあえず七夕の飲み会は来いよ。楽しみにしとけ」

「何を?」

「来ればわかる」

「嫌な予感しかしないんだけど」

「じゃあな、王子」

そう言い残して、桐谷は仕事へ戻っていった。


一人になった休憩室で、理久はしばらく缶コーヒーを眺めていた。

年上の彼女と別れて、もう一年が過ぎた。

あのとき投げつけられた言葉は、今も心のどこかに残っている。



――誰かがいなくなって、本当に困ればいいのに。



今回の彼女と別れても、相変わらず何も困らなかった。

会わなくなった。

連絡が来なくなった。

それだけだった。

生活は何も変わらない。

仕事へ行く。
手術に入る。
論文を読む。
眠る。

むしろ困ったのは、最後に彼女が投げつけてきた問いの方だった。



――私と仕事、どっちが大事なの?



君の方が大切だよ。

嘘でもそう答えれば、満足したのだろうか。


けれど、そんな甘い言葉を差し出したところで、自分の心が違うのなら、それこそ不誠実ではないのか。


付き合えば誠実なのだと思っていた。

そうすれば、相手を傷つけないのだと思っていた。


どうやら、それも違うらしい。


理久は小さく息を吐いた。

「……馬鹿馬鹿しい」

飲み干した缶をゴミ箱へ放り込む。


誰かと関係を持つことと、誰かを必要とすること。

どうやら、それはまったく別の話らしい。


そんなことを考えながら、理久はまた仕事へ戻っていった。

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