光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第8話 知らない場所
第二部 知らない場所で覚えたこと
外病院へ出た初日。
理久は、大学病院にいた頃との違いを感じていた。
所属していた医局。
上級医からの評価。
これまで経験した症例。
そうしたものが、ある程度の信用になることは分かっている。
けれど、ここでは、それだけでは足りない。
限られた人数で回る病棟。
余裕のない手術室。
次々と判断を求められる外来。
必要なのは、今この場で何ができるか。
それだけだった。
外病院には、理久を昔から知る人がいない。
桐谷もいない。
大学病院で尖ったレジデントだったことも、年上の恋人と別れたことも、誰も知らない。
ただの、藤崎先生。
それは、理久にとって気楽なことでもあった。
余計な説明をしなくていい。
仕事をすればいい。
そう思っていた。
けれど、最初の週から、いくつか引っかかることがあった。
病棟で、確認不足の報告を受けた時。
「なぜ確認していないんですか」
そう返すと、若い看護師の表情が硬くなった。
後輩医師から曖昧な質問をされた時。
「質問が曖昧です」
そう指摘すると、相手は口を閉じた。
患者家族への説明では、正確に伝えようとして専門用語を重ねすぎたらしい。
説明が終わったあとも、家族は不安そうな顔をしていた。
……何か、おかしいことを言っただろうか。
確認していなければ、確認する必要がある。
質問が曖昧なら、具体的にするべきだ。
患者家族には、正しい情報を伝えなければならない。
理久の考えは変わらなかった。
ただ、気になることが一つあった。
相手が黙ってしまう。
そして、必要な情報が返ってこなくなる。
大学病院にいた頃は、周囲に人がいた。
誰かが補足し、別の誰かが確認することもできた。
ここでは、一人が言葉を止めると、そのまま報告が止まることがある。
……それは、困るな。
正しいことを言ったはずなのに。
理久は、少しずつ違和感を覚え始めていた。
* * *
ある夜。
術後患者が発熱し、病棟から電話が入った。
「藤崎先生、すみません。術後の患者さんなんですけど、熱が出ています」
「何度ですか」
「38.6℃です」
「血圧と脈拍は」
「血圧は138/82、脈拍が105です」
「創部は」
電話の向こうで、少し間が空いた。
「えっと……少し赤いような気がします」
「少しとは?」
理久が聞くと、相手の言葉が止まった。
「えっと……」
「見た範囲を具体的に言ってください」
さらに沈黙が続く。
理久は受話器を持ったまま、息を吐いた。
……だから、具体的に。
そう言いかけて、やめた。
このまま問い詰めても、情報は増えそうにない。
発熱している患者がいる。
創部の状態も、まだ分からない。
今必要なのは、報告の仕方について議論することではなかった。
理久は一度、言葉を切った。
「今から病棟に行きます」
電話の向こうで、看護師が小さく息を吸う気配がした。
理久は少し声を落とした。
「創部、ドレーン排液、疼痛、バイタルを一緒に確認しましょう」
「はい。お願いします」
今度は、はっきりした返事があった。
理久は受話器を置き、白衣を取った。
夜の廊下は静かだった。
ナースステーションの明かりが、薄暗い廊下に漏れている。
理久が病棟へ着くと、電話をかけてきた看護師が待っていた。
まだ若い。
緊張した顔で、理久を見ている。
「すみません」
「謝るより、見せてください」
口にしてから、理久は少しだけ止まった。
……また、固まるか。
案の定、看護師の肩に力が入った。
理久は言い直した。
「一緒に確認しましょう」
看護師は小さく頷いた。
病室へ向かう。
創部には赤みがあったが、強い腫れは見られない。
ドレーン排液の性状を確認する。
疼痛の訴えを聞き、バイタルをもう一度確認した。
必要な指示を出し、患者の状態を見ながら対応を進める。
一つずつ確認すれば、判断するための情報は集められる。
問題は、そこに至るまでだった。
理久は隣にいる看護師を見た。
先ほどより、少し表情が落ち着いている。
……同じことを確認してるんだけどな。
納得したわけではない。
けれど、電話口で沈黙が続いていた時よりは、ずっと仕事が進んでいた。
◇
処置を終え、ナースステーションに戻った。
理久が記録を書いていると、ベテラン看護師が横から覗き込んできた。
「藤崎先生」
「はい」
「大学病院から王子が来るって聞いてたけど」
理久は手を止めた。
「はい?」
「周りを凍らせてるようじゃ、まだまだね」
「別に王子ではないですけどね」
ベテラン看護師は、にこりと笑った。
「30点!」
理久は少し黙った。
「……赤点ですか」
「さっきの言い方。若い子、固まってたでしょ」
理久は、電話をかけてきた看護師へ目を向けた。
確かに、まだ少し緊張している。
自分としては、必要な確認をしただけだった。
ただ、相手が言葉を詰まらせたことも事実だ。
理久は小さく息を吐いた。
「次から、赤いと思ったら、範囲と熱感と痛みを一緒に教えてください。迷ったら、先に呼んで大丈夫です」
若い看護師の表情が、少し緩んだ。
「……はい。分かりました」
ベテラン看護師が軽く手を叩いた。
「80点。今の方が分かりやすい。藤崎先生、ナイス」
理久は眉を寄せた。
「50点も違いがあるんですか」
ほとんど同じことを言ったつもりだった。
確認してほしい内容は変わらない。
それなのに、50点も違うらしい。
ベテラン看護師は楽しそうに目を細めた。
「王子が憂いてる」
近くにいた看護師が、思わずこちらを見た。
……今、その話は関係ないでしょう。
理久はさらに疲れた。
「王子って、本当に呼ばれてるんですか」
嫌そうな顔で尋ねる。
「呼ばれてるわよ。廊下歩いてるだけで絵になるって」
「それ、仕事に関係あります?」
「あるわよ」
即答だった。
理久は顔を上げた。
「あるんですか」
「きれいな顔で怖いこと言われたら、余計怖いもの」
理久は言葉を失った。
……そういうこと?
顔については、自分でどうにかできる話ではない。
けれど、言い方なら変えられる。
ベテラン看護師は肩をすくめた。
「同じことを言うなら、怖くない方がいいでしょ」
理久は反論しかけて、やめた。
さっきの若い看護師の顔を思い出したからだ。
「少しとは?」
そう聞いた時、彼女は答えられなかった。
けれど、確認する項目を伝え、困ったら呼んでいいと言うと、返事が戻ってきた。
情報の内容は変わらない。
違ったのは、伝え方だ。
……なるほど。
少なくとも、そこに50点の差があるらしい。
納得したくない気持ちもあったが、理久はそれ以上反論しなかった。
外病院へ出た初日。
理久は、大学病院にいた頃との違いを感じていた。
所属していた医局。
上級医からの評価。
これまで経験した症例。
そうしたものが、ある程度の信用になることは分かっている。
けれど、ここでは、それだけでは足りない。
限られた人数で回る病棟。
余裕のない手術室。
次々と判断を求められる外来。
必要なのは、今この場で何ができるか。
それだけだった。
外病院には、理久を昔から知る人がいない。
桐谷もいない。
大学病院で尖ったレジデントだったことも、年上の恋人と別れたことも、誰も知らない。
ただの、藤崎先生。
それは、理久にとって気楽なことでもあった。
余計な説明をしなくていい。
仕事をすればいい。
そう思っていた。
けれど、最初の週から、いくつか引っかかることがあった。
病棟で、確認不足の報告を受けた時。
「なぜ確認していないんですか」
そう返すと、若い看護師の表情が硬くなった。
後輩医師から曖昧な質問をされた時。
「質問が曖昧です」
そう指摘すると、相手は口を閉じた。
患者家族への説明では、正確に伝えようとして専門用語を重ねすぎたらしい。
説明が終わったあとも、家族は不安そうな顔をしていた。
……何か、おかしいことを言っただろうか。
確認していなければ、確認する必要がある。
質問が曖昧なら、具体的にするべきだ。
患者家族には、正しい情報を伝えなければならない。
理久の考えは変わらなかった。
ただ、気になることが一つあった。
相手が黙ってしまう。
そして、必要な情報が返ってこなくなる。
大学病院にいた頃は、周囲に人がいた。
誰かが補足し、別の誰かが確認することもできた。
ここでは、一人が言葉を止めると、そのまま報告が止まることがある。
……それは、困るな。
正しいことを言ったはずなのに。
理久は、少しずつ違和感を覚え始めていた。
* * *
ある夜。
術後患者が発熱し、病棟から電話が入った。
「藤崎先生、すみません。術後の患者さんなんですけど、熱が出ています」
「何度ですか」
「38.6℃です」
「血圧と脈拍は」
「血圧は138/82、脈拍が105です」
「創部は」
電話の向こうで、少し間が空いた。
「えっと……少し赤いような気がします」
「少しとは?」
理久が聞くと、相手の言葉が止まった。
「えっと……」
「見た範囲を具体的に言ってください」
さらに沈黙が続く。
理久は受話器を持ったまま、息を吐いた。
……だから、具体的に。
そう言いかけて、やめた。
このまま問い詰めても、情報は増えそうにない。
発熱している患者がいる。
創部の状態も、まだ分からない。
今必要なのは、報告の仕方について議論することではなかった。
理久は一度、言葉を切った。
「今から病棟に行きます」
電話の向こうで、看護師が小さく息を吸う気配がした。
理久は少し声を落とした。
「創部、ドレーン排液、疼痛、バイタルを一緒に確認しましょう」
「はい。お願いします」
今度は、はっきりした返事があった。
理久は受話器を置き、白衣を取った。
夜の廊下は静かだった。
ナースステーションの明かりが、薄暗い廊下に漏れている。
理久が病棟へ着くと、電話をかけてきた看護師が待っていた。
まだ若い。
緊張した顔で、理久を見ている。
「すみません」
「謝るより、見せてください」
口にしてから、理久は少しだけ止まった。
……また、固まるか。
案の定、看護師の肩に力が入った。
理久は言い直した。
「一緒に確認しましょう」
看護師は小さく頷いた。
病室へ向かう。
創部には赤みがあったが、強い腫れは見られない。
ドレーン排液の性状を確認する。
疼痛の訴えを聞き、バイタルをもう一度確認した。
必要な指示を出し、患者の状態を見ながら対応を進める。
一つずつ確認すれば、判断するための情報は集められる。
問題は、そこに至るまでだった。
理久は隣にいる看護師を見た。
先ほどより、少し表情が落ち着いている。
……同じことを確認してるんだけどな。
納得したわけではない。
けれど、電話口で沈黙が続いていた時よりは、ずっと仕事が進んでいた。
◇
処置を終え、ナースステーションに戻った。
理久が記録を書いていると、ベテラン看護師が横から覗き込んできた。
「藤崎先生」
「はい」
「大学病院から王子が来るって聞いてたけど」
理久は手を止めた。
「はい?」
「周りを凍らせてるようじゃ、まだまだね」
「別に王子ではないですけどね」
ベテラン看護師は、にこりと笑った。
「30点!」
理久は少し黙った。
「……赤点ですか」
「さっきの言い方。若い子、固まってたでしょ」
理久は、電話をかけてきた看護師へ目を向けた。
確かに、まだ少し緊張している。
自分としては、必要な確認をしただけだった。
ただ、相手が言葉を詰まらせたことも事実だ。
理久は小さく息を吐いた。
「次から、赤いと思ったら、範囲と熱感と痛みを一緒に教えてください。迷ったら、先に呼んで大丈夫です」
若い看護師の表情が、少し緩んだ。
「……はい。分かりました」
ベテラン看護師が軽く手を叩いた。
「80点。今の方が分かりやすい。藤崎先生、ナイス」
理久は眉を寄せた。
「50点も違いがあるんですか」
ほとんど同じことを言ったつもりだった。
確認してほしい内容は変わらない。
それなのに、50点も違うらしい。
ベテラン看護師は楽しそうに目を細めた。
「王子が憂いてる」
近くにいた看護師が、思わずこちらを見た。
……今、その話は関係ないでしょう。
理久はさらに疲れた。
「王子って、本当に呼ばれてるんですか」
嫌そうな顔で尋ねる。
「呼ばれてるわよ。廊下歩いてるだけで絵になるって」
「それ、仕事に関係あります?」
「あるわよ」
即答だった。
理久は顔を上げた。
「あるんですか」
「きれいな顔で怖いこと言われたら、余計怖いもの」
理久は言葉を失った。
……そういうこと?
顔については、自分でどうにかできる話ではない。
けれど、言い方なら変えられる。
ベテラン看護師は肩をすくめた。
「同じことを言うなら、怖くない方がいいでしょ」
理久は反論しかけて、やめた。
さっきの若い看護師の顔を思い出したからだ。
「少しとは?」
そう聞いた時、彼女は答えられなかった。
けれど、確認する項目を伝え、困ったら呼んでいいと言うと、返事が戻ってきた。
情報の内容は変わらない。
違ったのは、伝え方だ。
……なるほど。
少なくとも、そこに50点の差があるらしい。
納得したくない気持ちもあったが、理久はそれ以上反論しなかった。