光のはじまり ― 王子が困るまで ―
「そういや藤崎。綾瀬の論文、読んだのか?」

理久は眉を上げた。

「関西の有名教授に対して呼び捨てですか?」

「ここにいないからいいんだよ。悔しいくらいすごい先生だから、あえて呼び捨てだ」

「相良先生、小さいですね」

「藤崎!」

「すみません」

思ったことをそのまま口にすると、やはり注意される。

コミュニケーションというものは、なかなか難しい。

「ああ、でも綾瀬教授の論文なら読んでます。時間を見つけては」

「へえ」

「着眼点が面白いんですよ。特に肝切除後の――」

話し始めると、自然と熱が入った。

術式そのものだけではない。


どこを見るのか。

何を疑問として拾うのか。

どうやって、それを研究に落とし込むのか。


自分にはまだない視点が、そこにはあった。

ふと気づけば、相良先生が微妙な顔をしている。

「藤崎……もういい。わかったから」

「すみません。つい」

「お前、可愛いな」

「え?」

思わず聞き返した。

さっきまで散々「可愛くない」と言われていたはずだ。

相良先生が笑う。

「班振り、肝胆膵に来いよ」

理久は相良先生を見る。

「いつか綾瀬に会うチャンスもあるかもしれないぞ。お前なら実力もあるし、そのうち認めてもらえるところまで行けるかもしれない」

その言葉が、妙に鮮明に響いた。


ーー綾瀬教授。


相良先生が尊敬しながら、同時に悔しがるほどの外科医。

あれほど興味深い論文を書く人間がいる世界。

そこへ、自分も進めるかもしれない。

その先まで行けるかもしれない。


目の前に道が現れた気がした。

「決めました」

理久は相良先生を真っ直ぐ見る。

「肝胆膵を選びます」

相良先生が一瞬、戸惑ったような顔をして視線を逸らした。

「その顔で真っ直ぐ言うな。愛の告白みたいに聞こえる」

「……すみません。一箱いりますか?」

理久は紙袋からチョコの箱を取り出して差し出した。

「いらないよ。やっぱり肝胆膵に来るな。お前の面倒見るの、絶対厄介だ」

そう言いながら、相良先生は笑っている。

「賄賂です」

「賄賂なら自分で買ったもの持って来い。……あ、いや、駄目だ。お前、本当に持ってきそうだな。それも妙に高級なやつ。却下」

そう言って、結局理久が開けていた箱からもう一つ摘み、口に入れた。

「残りの時間も、下部で頑張れよ」

「はい」

相良先生はそのまま医局を出ていった。


しばらくすると、レジデントの同期たちが次々と戻ってきた。

理久の足元に置かれた大きな紙袋を見つけ、また何か言っている。


誰からもらっただの。

いくつあるだの。

一つ寄越せだの。


けれど、理久にはほとんど耳に入らなかった。


ーー肝胆膵。


その言葉だけが、頭の中に残っている。


この先、どこまで行けるのかはわからない。

けれど、いつか。

あの論文を書く人間が見ている景色に、自分も辿り着いてみたい。


そう思った。


理久はもう一粒、チョコを口に入れた。

甘さがゆっくりと溶けていく。

このとき選んだ一つの道が、どこへ続いているのか。


まだ、理久は知らなかった。


< 10 / 82 >

この作品をシェア

pagetop