光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第9話 感じのいい先生
師長に90点と言われてからも、理久の言い方がすぐに変わったわけではなかった。
相手が話し終わるまで待つ。
否定する前に、ひと言置く。
曖昧な報告も、最初から切らずに聞き直す。
頭では分かっている。
それでも、忙しくなると以前の言い方が出た。
そのたびに、相手の表情を見て言い直す。
時には、例のベテラン看護師から容赦なく点数をつけられた。
「王子、今のは65点」
「細かいですね」
「伸びしろよ」
……便利な言葉だな。
そう思いながらも、理久は少しずつ言葉を選ぶようになった。
面倒だとは思う。
かなり面倒だった。
けれど、効果はある。
報告が止まれば、判断も遅れる。
相手が話しやすくなることで必要な情報が早く集まるなら、言い方を変える意味はある。
曖昧な報告を、そのまま受け入れるわけではない。
間違いを見逃すわけでもない。
必要な確認は、必ずする。
ただ、聞き方を変える。
「違う」と言う前に、相手がどこまで理解しているのかを確かめる。
報告が足りなければ、何を追加してほしいのかを具体的に伝える。
そうすると、病棟からの報告が増えた。
後輩医師も、以前より質問するようになった。
理久にとって、それは感情の問題というより、現場を止めないための技術だった。
効果があるなら、使わない理由はない。
言葉を包むことを、理久は少しずつ覚えていった。
* * *
ある日の午後。
術後経過について、患者家族に説明することになった。
説明室に入ってきた患者の妻は、ひどく不安そうだった。
膝の上で、ハンカチを握り締めている。
理久はカルテと画像を並べ、椅子に座った。
術式。
現在の経過。
考えられる合併症。
確認すべき項目は、頭の中で整理できている。
以前なら、そのまま順番に説明しただろう。
理久は妻の表情を見て、少し間を置いた。
「これから、少し怖い話に聞こえるかもしれません。でも、今すぐ危ないという意味ではありません。これから注意して見るところを、先に共有しておきたいんです」
妻が頷いた。
理久は画像を示しながら、術後の経過と注意すべき症状について説明した。
大丈夫だと、安易には言えない。
けれど、起こるかどうか分からないことを並べるだけでは、相手の不安を強くする。
今、何が分かっているのか。
何に注意しているのか。
異変があった場合には、どう対応するのか。
一つずつ伝えた。
説明の途中で、妻が小さく口を開いた。
「……怖いです」
理久は、次の説明へ進みかけて手を止めた。
目の前の女性は、ハンカチを握り締めたままだった。
以前の自分なら、何と答えただろう。
怖がる必要があるのか。
その確率はどの程度なのか。
事実を並べて、不安を取り除こうとしたかもしれない。
けれど、今、この人が言っているのは、そういうことではない。
理久は少しだけ声を落とした。
「怖いですよね」
妻の目に、少し涙が浮かんだ。
「聞いてもいいんですか」
「もちろんです」
理久は質問を受け、分からないところを確かめながら説明を続けた。
説明が終わっても、妻の不安がすべて消えたわけではない。
ただ、入ってきた時よりは落ち着いた表情になっていた。
「ありがとうございました」
「分からないことがあれば、看護師に伝えてください。こちらから確認します」
「はい」
理久はカルテを閉じ、説明室を出た。
廊下には師長がいた。
理久は足を止める。
「聞いていたんですか」
「少しだけ」
「趣味が悪いですね」
「仕事です」
師長は平然と答えた。
それから、少し笑った。
「今のは、90点」
「満点はないんですか」
「ありますよ」
「何が足りないんですか」
「満点を欲しがるところ」
理久は黙った。
師長が楽しそうに笑う。
「冗談です」
「冗談に聞こえませんね」
「半分くらい本気です」
理久は小さく息を吐いた。
「厳しいですね」
「王子を育てるのは大変なの」
「育てられてるつもりはないです」
「そこがまだ80点」
……下がった。
理久は反論しかけて、やめた。
これ以上、点数を失う必要はない。
相手が話し終わるまで待つ。
否定する前に、ひと言置く。
曖昧な報告も、最初から切らずに聞き直す。
頭では分かっている。
それでも、忙しくなると以前の言い方が出た。
そのたびに、相手の表情を見て言い直す。
時には、例のベテラン看護師から容赦なく点数をつけられた。
「王子、今のは65点」
「細かいですね」
「伸びしろよ」
……便利な言葉だな。
そう思いながらも、理久は少しずつ言葉を選ぶようになった。
面倒だとは思う。
かなり面倒だった。
けれど、効果はある。
報告が止まれば、判断も遅れる。
相手が話しやすくなることで必要な情報が早く集まるなら、言い方を変える意味はある。
曖昧な報告を、そのまま受け入れるわけではない。
間違いを見逃すわけでもない。
必要な確認は、必ずする。
ただ、聞き方を変える。
「違う」と言う前に、相手がどこまで理解しているのかを確かめる。
報告が足りなければ、何を追加してほしいのかを具体的に伝える。
そうすると、病棟からの報告が増えた。
後輩医師も、以前より質問するようになった。
理久にとって、それは感情の問題というより、現場を止めないための技術だった。
効果があるなら、使わない理由はない。
言葉を包むことを、理久は少しずつ覚えていった。
* * *
ある日の午後。
術後経過について、患者家族に説明することになった。
説明室に入ってきた患者の妻は、ひどく不安そうだった。
膝の上で、ハンカチを握り締めている。
理久はカルテと画像を並べ、椅子に座った。
術式。
現在の経過。
考えられる合併症。
確認すべき項目は、頭の中で整理できている。
以前なら、そのまま順番に説明しただろう。
理久は妻の表情を見て、少し間を置いた。
「これから、少し怖い話に聞こえるかもしれません。でも、今すぐ危ないという意味ではありません。これから注意して見るところを、先に共有しておきたいんです」
妻が頷いた。
理久は画像を示しながら、術後の経過と注意すべき症状について説明した。
大丈夫だと、安易には言えない。
けれど、起こるかどうか分からないことを並べるだけでは、相手の不安を強くする。
今、何が分かっているのか。
何に注意しているのか。
異変があった場合には、どう対応するのか。
一つずつ伝えた。
説明の途中で、妻が小さく口を開いた。
「……怖いです」
理久は、次の説明へ進みかけて手を止めた。
目の前の女性は、ハンカチを握り締めたままだった。
以前の自分なら、何と答えただろう。
怖がる必要があるのか。
その確率はどの程度なのか。
事実を並べて、不安を取り除こうとしたかもしれない。
けれど、今、この人が言っているのは、そういうことではない。
理久は少しだけ声を落とした。
「怖いですよね」
妻の目に、少し涙が浮かんだ。
「聞いてもいいんですか」
「もちろんです」
理久は質問を受け、分からないところを確かめながら説明を続けた。
説明が終わっても、妻の不安がすべて消えたわけではない。
ただ、入ってきた時よりは落ち着いた表情になっていた。
「ありがとうございました」
「分からないことがあれば、看護師に伝えてください。こちらから確認します」
「はい」
理久はカルテを閉じ、説明室を出た。
廊下には師長がいた。
理久は足を止める。
「聞いていたんですか」
「少しだけ」
「趣味が悪いですね」
「仕事です」
師長は平然と答えた。
それから、少し笑った。
「今のは、90点」
「満点はないんですか」
「ありますよ」
「何が足りないんですか」
「満点を欲しがるところ」
理久は黙った。
師長が楽しそうに笑う。
「冗談です」
「冗談に聞こえませんね」
「半分くらい本気です」
理久は小さく息を吐いた。
「厳しいですね」
「王子を育てるのは大変なの」
「育てられてるつもりはないです」
「そこがまだ80点」
……下がった。
理久は反論しかけて、やめた。
これ以上、点数を失う必要はない。