光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第15話 結婚しない理由
大学病院へ戻って、数週間が過ぎた。
理久は、助教としての生活に少しずつ慣れ始めていた。
朝のカンファレンス。
病棟回診。
手術。
後輩の指導。
患者家族への説明。
教授から降ってくる資料作成。
やることは多い。
上からは使われ、下からは見られ、病棟からは呼ばれる。
それでも、求められる仕事は明確だった。
一つずつ片づけていけばいい。
外病院で覚えた言葉の使い方も、予想以上に役立っていた。
誰に対しても穏やかに接する。
必要なことは伝え、余計な角は立てない。
その方が、仕事は円滑に進んだ。
大学病院は広いが、噂が広まるのは早い。
特定の誰かと親しくなれば、それだけで話題になる。
理久は、誰に対しても同じ距離を保つことにした。
感じよく接することと、親しくなることは違う。
外病院で過ごした1年間で、その線引きは随分とうまくなっていた。
* * *
その夜。
理久は桐谷と、病院近くの和食店にいた。
夕方、桐谷から届いたメッセージは短かった。
『戻ってきた王子、飲むぞ』
……王子。
その呼び方には少し腹が立ったが、久しぶりに飲むのも悪くない。
理久は誘いを受けた。
店は以前にも来たことのある、小さな和食店だった。
桐谷は向かいの席で、すでにビールを飲んでいる。
「藤崎、お前、戻ってきて早々評判いいな。
内科病棟でも噂になってたぞ」
「へえ」
「相変わらず興味なさそうだな」
「評判が悪いよりはいいよ」
桐谷が呆れたように笑った。
この男の前では、愛想のいい返事を選ぶ必要がない。
多少言い方が悪くても、いちいち気にしない。
そういうところは、昔から変わらなかった。
変わったことがあるとすれば、桐谷が既婚者になったことくらいだ。
新婚生活は楽しいらしい。
妻はよき理解者で、最高の奥さんなのだという。
会うたびに聞かされるので、理久もすっかり覚えてしまった。
「幸せそうで何よりだね」
桐谷が少し照れたような顔をした。
「まあな」
それから、すぐにいつもの表情へ戻る。
「で? お前はまだ、後腐れない関係を続けてるのかよ」
「してないよ」
桐谷が意外そうに目を上げた。
「本当に?」
「嘘ついてどうするの」
理久は軽く鼻で笑った。
「助教になったからね。そこはちゃんとけじめをつけないとでしょ」
後輩を指導する立場でもある。
自分一人の問題で済まないことは、避けておいた方がいい。
そう判断しただけだった。
「恋人ができたわけじゃないのかよ」
桐谷が分かりやすく肩を落とした。
「残念ながらいないよ」
「じゃあ何でやめた」
「だから、立場」
「それだけ?」
理久は少し目を細めた。
「桐谷は何を期待してるの」
「お前がまともに誰かを好きになる話」
「期待外れで悪いね」
「本当にな」
桐谷は遠慮なく言った。
理久はグラスを傾けた。
しばらくして、ふと思い出す。
「むしろ、見合いの話は来た」
桐谷の動きが止まった。
「へえ」
明らかに面白がっている顔だった。
「どんな人?」
「知らない」
「知らない?」
「写真も見てない」
「見る前に断ったのかよ」
「うん」
桐谷は一瞬、黙った。
それから、深いため息をつく。
「お前さ」
「何」
「親御さんも心配なんじゃねえの? そろそろ身を固めてほしいっていうのも、親心だろうし」
「分かってるよ」
理久は静かに答えた。
「ありがたい話だとも思う」
結婚を考えて紹介してくれたことは、分かっている。
相手も、それなりの気持ちで話を受けているのだろう。
だからこそ、中途半端に会うのは違うと思った。
「なら、会うくらいすればよかっただろ」
「大学に戻ったばかりで忙しいし、助教になって仕事も増える。相手に失礼になると思う」
桐谷は、じっと理久を見た。
「それ、本当の理由じゃないだろ」
理久は箸を止めた。
「理由だよ」
「理由っぽく整えてるだけだろ」
「失礼だね」
「事実だろ」
桐谷はグラスを置いた。
「仕事が忙しいから結婚しない、は弱いな」
理久は少し眉を動かした。
「桐谷まで姉みたいなことを言うね」
「お前の姉、正しいじゃん」
「会ったことないでしょ」
「今の一言で分かる」
理久は黙った。
桐谷は構わず続ける。
「忙しい医者だって結婚する。助教だって結婚する。大学病院に戻ったばかりでも、する奴はする」
「それはそうだね」
「相手に失礼っていうのも、お前らしい言い方だけど」
桐谷は少しだけ声を落とした。
「それ、本当に相手のためか?」
理久は返事をしなかった。
相手のため。
会う前に断る。
期待を持たせない。
互いの時間を無駄にしない。
今は結婚する気がないのだから、最初からそう伝えた方がいい。
筋は通っているはずだった。
ただ、桐谷が聞いているのは、その判断が正しいかどうかではないのだろう。
理久自身が、なぜ会うことさえしなかったのか。
その理由だった。
理久は、助教としての生活に少しずつ慣れ始めていた。
朝のカンファレンス。
病棟回診。
手術。
後輩の指導。
患者家族への説明。
教授から降ってくる資料作成。
やることは多い。
上からは使われ、下からは見られ、病棟からは呼ばれる。
それでも、求められる仕事は明確だった。
一つずつ片づけていけばいい。
外病院で覚えた言葉の使い方も、予想以上に役立っていた。
誰に対しても穏やかに接する。
必要なことは伝え、余計な角は立てない。
その方が、仕事は円滑に進んだ。
大学病院は広いが、噂が広まるのは早い。
特定の誰かと親しくなれば、それだけで話題になる。
理久は、誰に対しても同じ距離を保つことにした。
感じよく接することと、親しくなることは違う。
外病院で過ごした1年間で、その線引きは随分とうまくなっていた。
* * *
その夜。
理久は桐谷と、病院近くの和食店にいた。
夕方、桐谷から届いたメッセージは短かった。
『戻ってきた王子、飲むぞ』
……王子。
その呼び方には少し腹が立ったが、久しぶりに飲むのも悪くない。
理久は誘いを受けた。
店は以前にも来たことのある、小さな和食店だった。
桐谷は向かいの席で、すでにビールを飲んでいる。
「藤崎、お前、戻ってきて早々評判いいな。
内科病棟でも噂になってたぞ」
「へえ」
「相変わらず興味なさそうだな」
「評判が悪いよりはいいよ」
桐谷が呆れたように笑った。
この男の前では、愛想のいい返事を選ぶ必要がない。
多少言い方が悪くても、いちいち気にしない。
そういうところは、昔から変わらなかった。
変わったことがあるとすれば、桐谷が既婚者になったことくらいだ。
新婚生活は楽しいらしい。
妻はよき理解者で、最高の奥さんなのだという。
会うたびに聞かされるので、理久もすっかり覚えてしまった。
「幸せそうで何よりだね」
桐谷が少し照れたような顔をした。
「まあな」
それから、すぐにいつもの表情へ戻る。
「で? お前はまだ、後腐れない関係を続けてるのかよ」
「してないよ」
桐谷が意外そうに目を上げた。
「本当に?」
「嘘ついてどうするの」
理久は軽く鼻で笑った。
「助教になったからね。そこはちゃんとけじめをつけないとでしょ」
後輩を指導する立場でもある。
自分一人の問題で済まないことは、避けておいた方がいい。
そう判断しただけだった。
「恋人ができたわけじゃないのかよ」
桐谷が分かりやすく肩を落とした。
「残念ながらいないよ」
「じゃあ何でやめた」
「だから、立場」
「それだけ?」
理久は少し目を細めた。
「桐谷は何を期待してるの」
「お前がまともに誰かを好きになる話」
「期待外れで悪いね」
「本当にな」
桐谷は遠慮なく言った。
理久はグラスを傾けた。
しばらくして、ふと思い出す。
「むしろ、見合いの話は来た」
桐谷の動きが止まった。
「へえ」
明らかに面白がっている顔だった。
「どんな人?」
「知らない」
「知らない?」
「写真も見てない」
「見る前に断ったのかよ」
「うん」
桐谷は一瞬、黙った。
それから、深いため息をつく。
「お前さ」
「何」
「親御さんも心配なんじゃねえの? そろそろ身を固めてほしいっていうのも、親心だろうし」
「分かってるよ」
理久は静かに答えた。
「ありがたい話だとも思う」
結婚を考えて紹介してくれたことは、分かっている。
相手も、それなりの気持ちで話を受けているのだろう。
だからこそ、中途半端に会うのは違うと思った。
「なら、会うくらいすればよかっただろ」
「大学に戻ったばかりで忙しいし、助教になって仕事も増える。相手に失礼になると思う」
桐谷は、じっと理久を見た。
「それ、本当の理由じゃないだろ」
理久は箸を止めた。
「理由だよ」
「理由っぽく整えてるだけだろ」
「失礼だね」
「事実だろ」
桐谷はグラスを置いた。
「仕事が忙しいから結婚しない、は弱いな」
理久は少し眉を動かした。
「桐谷まで姉みたいなことを言うね」
「お前の姉、正しいじゃん」
「会ったことないでしょ」
「今の一言で分かる」
理久は黙った。
桐谷は構わず続ける。
「忙しい医者だって結婚する。助教だって結婚する。大学病院に戻ったばかりでも、する奴はする」
「それはそうだね」
「相手に失礼っていうのも、お前らしい言い方だけど」
桐谷は少しだけ声を落とした。
「それ、本当に相手のためか?」
理久は返事をしなかった。
相手のため。
会う前に断る。
期待を持たせない。
互いの時間を無駄にしない。
今は結婚する気がないのだから、最初からそう伝えた方がいい。
筋は通っているはずだった。
ただ、桐谷が聞いているのは、その判断が正しいかどうかではないのだろう。
理久自身が、なぜ会うことさえしなかったのか。
その理由だった。