光のはじまり ― 王子が困るまで ―
「藤崎」
桐谷が言った。
「お前、結婚が嫌なんじゃなくて、期待されるのが嫌なんだろ」
理久はゆっくり顔を上げた。
「期待?」
「そう」
「何を」
「夫として。家族として。誰か1人の特別な相手として」
理久は黙った。
夫。
家族。
特別な相手。
言葉の意味は分かる。
何をすればいいのかも、ある程度は想像できる。
けれど、誰か一人に対して、その役割をずっと引き受けること。
相手が望むものを、自分も同じように望めるのか分からないまま、約束すること。
そこには、仕事とは違う曖昧さがあった。
「お前、仕事で期待されるのは平気なんだよ」
「平気ではないよ」
「でも、応え方は分かるだろ」
理久は否定しなかった。
患者に呼ばれれば行く。
家族に説明を求められれば話す。
後輩に聞かれれば教える。
教授に仕事を任されれば、必要なものを揃える。
そのために足りない技術があれば、身につける。
分からないことがあれば、調べる。
努力の方向が見えている。
結婚では、どうなのだろう。
相手に必要とされたら、何を返せばいいのか。
相手の望みと、自分の望みが違ったら。
誠実であろうとしても、それだけでは足りなかったことを、理久は知っている。
「……面倒くさいね」
理久が言うと、桐谷は少しだけ目を細めた。
「違うな」
「何が」
「怖いんだろ」
理久は答えなかった。
ーー怖い。
その言葉は、どうにも自分に似合わない気がした。
見合いの相手に会うことを、怖がっているつもりはない。
結婚という制度そのものに、拒否感があるわけでもない。
ただ、相手がこちらに何かを望んだとき、応えられるとは限らない。
それが分かっていて、わざわざ近づく必要があるのだろうか。
そう考えていた。
「相手が何かを望む前に、先に逃げ道を作る」
桐谷は言った。
「最初から応えられないって言っておけば、相手を傷つけないで済む。自分も責められない。誠実な断り方に見える」
理久はグラスの水面を見つめた。
以前、似たようなことを言われた気がする。
「誰かにも同じようなことを言われた」
「姉か?」
「うん」
「やっぱり正しいじゃん」
「桐谷、うちの姉と気が合うかもね」
「嫌だよ。怖そう」
理久は少し笑った。
桐谷も笑う。
けれど、その空気は長く続かなかった。
「まあ」
桐谷は、少し照れくさそうにグラスを持った。
「期待されるのって、悪いことばかりじゃないぞ」
「そうなの」
「面倒なこともある」
「ほら」
「でも、それだけじゃない」
桐谷は視線を落とした。
「帰りが遅い時に心配されるとか。飯食ったか聞かれるとか。休めって言われるとか。そういうの、最初はうるさい時もあるけど」
「うん」
「それがなくなったら、たぶん俺は困る」
……困る。
また、その言葉だった。
理久は静かに桐谷を見た。
生活が回らなくなる、という意味ではないことは、もう分かっている。
それでも、桐谷が何を失うことになるのか、理久にはまだ想像がつかなかった。
桐谷は少し笑った。
「期待されるのが嫌なんじゃなくて、期待されなくなる方が嫌になる相手が、そのうちできるかもな」
理久は眉を寄せた。
「面倒くさそうだね」
「だろうな」
桐谷は笑った。
「でも、お前にはそのくらい面倒な相手の方がいい気がする」
「ひどい言い方だね」
「褒めてる」
「どこが」
「お前が自分から逃げなくなるなら、相当すごい相手だろ」
理久は返事をしなかった。
桐谷が言った。
「お前、結婚が嫌なんじゃなくて、期待されるのが嫌なんだろ」
理久はゆっくり顔を上げた。
「期待?」
「そう」
「何を」
「夫として。家族として。誰か1人の特別な相手として」
理久は黙った。
夫。
家族。
特別な相手。
言葉の意味は分かる。
何をすればいいのかも、ある程度は想像できる。
けれど、誰か一人に対して、その役割をずっと引き受けること。
相手が望むものを、自分も同じように望めるのか分からないまま、約束すること。
そこには、仕事とは違う曖昧さがあった。
「お前、仕事で期待されるのは平気なんだよ」
「平気ではないよ」
「でも、応え方は分かるだろ」
理久は否定しなかった。
患者に呼ばれれば行く。
家族に説明を求められれば話す。
後輩に聞かれれば教える。
教授に仕事を任されれば、必要なものを揃える。
そのために足りない技術があれば、身につける。
分からないことがあれば、調べる。
努力の方向が見えている。
結婚では、どうなのだろう。
相手に必要とされたら、何を返せばいいのか。
相手の望みと、自分の望みが違ったら。
誠実であろうとしても、それだけでは足りなかったことを、理久は知っている。
「……面倒くさいね」
理久が言うと、桐谷は少しだけ目を細めた。
「違うな」
「何が」
「怖いんだろ」
理久は答えなかった。
ーー怖い。
その言葉は、どうにも自分に似合わない気がした。
見合いの相手に会うことを、怖がっているつもりはない。
結婚という制度そのものに、拒否感があるわけでもない。
ただ、相手がこちらに何かを望んだとき、応えられるとは限らない。
それが分かっていて、わざわざ近づく必要があるのだろうか。
そう考えていた。
「相手が何かを望む前に、先に逃げ道を作る」
桐谷は言った。
「最初から応えられないって言っておけば、相手を傷つけないで済む。自分も責められない。誠実な断り方に見える」
理久はグラスの水面を見つめた。
以前、似たようなことを言われた気がする。
「誰かにも同じようなことを言われた」
「姉か?」
「うん」
「やっぱり正しいじゃん」
「桐谷、うちの姉と気が合うかもね」
「嫌だよ。怖そう」
理久は少し笑った。
桐谷も笑う。
けれど、その空気は長く続かなかった。
「まあ」
桐谷は、少し照れくさそうにグラスを持った。
「期待されるのって、悪いことばかりじゃないぞ」
「そうなの」
「面倒なこともある」
「ほら」
「でも、それだけじゃない」
桐谷は視線を落とした。
「帰りが遅い時に心配されるとか。飯食ったか聞かれるとか。休めって言われるとか。そういうの、最初はうるさい時もあるけど」
「うん」
「それがなくなったら、たぶん俺は困る」
……困る。
また、その言葉だった。
理久は静かに桐谷を見た。
生活が回らなくなる、という意味ではないことは、もう分かっている。
それでも、桐谷が何を失うことになるのか、理久にはまだ想像がつかなかった。
桐谷は少し笑った。
「期待されるのが嫌なんじゃなくて、期待されなくなる方が嫌になる相手が、そのうちできるかもな」
理久は眉を寄せた。
「面倒くさそうだね」
「だろうな」
桐谷は笑った。
「でも、お前にはそのくらい面倒な相手の方がいい気がする」
「ひどい言い方だね」
「褒めてる」
「どこが」
「お前が自分から逃げなくなるなら、相当すごい相手だろ」
理久は返事をしなかった。