光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第20話 少しずつで
その日、外科の術後患者が、病床調整で別の病棟へ移ることになっていた。
主科は外科のまま。
創部の確認や術後の指示は、引き続き外科で行うことになっている。
理久がカルテを開いていると、中川が声をかけてきた。
「藤崎先生、例の術後の方、転棟先が決まりました。10Aです。」
「10A?」
ーー綾瀬美月。
エレベーターで見えてしまったネームプレートには、10A病棟と記されていた。
食堂では見事に目を逸らされ、エレベーターでは「見てないです」と三回言われた。
思い出すと、少し笑いそうになる。
……今日はいるのかな。
そう思ってから、カルテに視線を戻した。
患者が10Aに転棟した。
ただ、それだけのことだ。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
理久は中川とともに、10A病棟へ向かった。
◇
ナースステーションに入ると、いくつもの視線がこちらを向いた。
「藤崎先生だ」
「包交あるって言ってなかった?」
聞き慣れた反応だった。
理久はいつものように、主任らしき看護師へ声をかけた。
「10Aに転棟した術後患者さんの創部確認で、少し処置に入ります」
穏やかに、感じよく。
それだけで、周囲の空気はだいたい円滑になる。
隣の中川が、どこか楽しそうにしていた。
理久は気づかないふりをした。
ふと、電子カルテに向かう看護師の横顔が目に入る。
綾瀬美月。
いた。
こちらを見ようともしない。
今日も知らないふりをするつもりらしい。
「綾瀬さん、入って」
主任の声が飛んだ。
彼女の手が、一瞬止まる。
「……私ですか」
「あなたが一番落ち着いてるから」
理久は、思わずエレベーターでのやり取りを思い出した。
――では、三回言っておきます。見てないです。
……落ち着いている、か。
確かに、駅ビルではそうだった。
理久は笑いそうになるのをこらえた。
「先生、1017号室です」
中川に促され、思考を切り替える。
「うん。行こう」
今日は仕事だ。
◇
患者は中川と気さくに話していた。
中川は、こういうところがうまい。
必要なことを確認しながら、患者の緊張まで自然にほぐしてしまう。
理久は患者に挨拶し、創部を確認することを説明した。
やがて処置車の音が聞こえ、綾瀬美月が入ってきた。
「ガーゼ、開けます」
「お願いします」
理久はいつものように、柔らかく微笑んだ。
彼女は小さく頷き、淡々と準備を進める。
……それだけ?
いや、仕事中なのだから当然だ。
理久は表情を変えず、手袋を装着した。
物品の位置がいい。
こちらの利き手と動線を考えている。患者の体勢にも無理がない。
駅ビルでの対応も、偶然ではなかったらしい。
理久は手元を確認しながら、ふと思ったことを口にした。
「駅ビルの時も思いましたけど」
彼女の手が、わずかに止まった。
「……何ですか」
「指示、短くて分かりやすいですよね」
目だけが、こちらを睨んでくる。
「今、それ言います?」
「思い出したので」
「仕事中です」
「うん。だから小声」
さらに視線が鋭くなった。
……怒った。
褒めているのだけれど。
どうやら、そうは受け取ってもらえないらしい。
「必要な処置をしてください」
「はい。綾瀬さんの指示なので」
「そういう意味ではありません」
理久は少し笑い、患者へ向き直った。
「創部確認します。少し引っ張られる感じがあります」
そこからは処置に集中した。
創部の状態を確認し、患者の疼痛を聞きながら、中川へ所見を伝えていく。
綾瀬美月の介助は、やりやすかった。
必要なタイミングで物品が出る。
こちらの手元だけでなく、患者の表情も見ている。
患者がわずかに顔をしかめると、すぐにそちらへ視線が動いた。
単に指示を待っているわけではない。
処置の流れを読み、患者の反応を拾っている。
理久も自然と手元に集中できた。
……いい看護師だ。
中川にも、こういう介助のどこが優れているのか、分かってほしかった。
処置を終え、創部の所見と今後の注意点を伝える。
患者へ説明し、綾瀬美月に礼を言って病室を出た。
主科は外科のまま。
創部の確認や術後の指示は、引き続き外科で行うことになっている。
理久がカルテを開いていると、中川が声をかけてきた。
「藤崎先生、例の術後の方、転棟先が決まりました。10Aです。」
「10A?」
ーー綾瀬美月。
エレベーターで見えてしまったネームプレートには、10A病棟と記されていた。
食堂では見事に目を逸らされ、エレベーターでは「見てないです」と三回言われた。
思い出すと、少し笑いそうになる。
……今日はいるのかな。
そう思ってから、カルテに視線を戻した。
患者が10Aに転棟した。
ただ、それだけのことだ。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
理久は中川とともに、10A病棟へ向かった。
◇
ナースステーションに入ると、いくつもの視線がこちらを向いた。
「藤崎先生だ」
「包交あるって言ってなかった?」
聞き慣れた反応だった。
理久はいつものように、主任らしき看護師へ声をかけた。
「10Aに転棟した術後患者さんの創部確認で、少し処置に入ります」
穏やかに、感じよく。
それだけで、周囲の空気はだいたい円滑になる。
隣の中川が、どこか楽しそうにしていた。
理久は気づかないふりをした。
ふと、電子カルテに向かう看護師の横顔が目に入る。
綾瀬美月。
いた。
こちらを見ようともしない。
今日も知らないふりをするつもりらしい。
「綾瀬さん、入って」
主任の声が飛んだ。
彼女の手が、一瞬止まる。
「……私ですか」
「あなたが一番落ち着いてるから」
理久は、思わずエレベーターでのやり取りを思い出した。
――では、三回言っておきます。見てないです。
……落ち着いている、か。
確かに、駅ビルではそうだった。
理久は笑いそうになるのをこらえた。
「先生、1017号室です」
中川に促され、思考を切り替える。
「うん。行こう」
今日は仕事だ。
◇
患者は中川と気さくに話していた。
中川は、こういうところがうまい。
必要なことを確認しながら、患者の緊張まで自然にほぐしてしまう。
理久は患者に挨拶し、創部を確認することを説明した。
やがて処置車の音が聞こえ、綾瀬美月が入ってきた。
「ガーゼ、開けます」
「お願いします」
理久はいつものように、柔らかく微笑んだ。
彼女は小さく頷き、淡々と準備を進める。
……それだけ?
いや、仕事中なのだから当然だ。
理久は表情を変えず、手袋を装着した。
物品の位置がいい。
こちらの利き手と動線を考えている。患者の体勢にも無理がない。
駅ビルでの対応も、偶然ではなかったらしい。
理久は手元を確認しながら、ふと思ったことを口にした。
「駅ビルの時も思いましたけど」
彼女の手が、わずかに止まった。
「……何ですか」
「指示、短くて分かりやすいですよね」
目だけが、こちらを睨んでくる。
「今、それ言います?」
「思い出したので」
「仕事中です」
「うん。だから小声」
さらに視線が鋭くなった。
……怒った。
褒めているのだけれど。
どうやら、そうは受け取ってもらえないらしい。
「必要な処置をしてください」
「はい。綾瀬さんの指示なので」
「そういう意味ではありません」
理久は少し笑い、患者へ向き直った。
「創部確認します。少し引っ張られる感じがあります」
そこからは処置に集中した。
創部の状態を確認し、患者の疼痛を聞きながら、中川へ所見を伝えていく。
綾瀬美月の介助は、やりやすかった。
必要なタイミングで物品が出る。
こちらの手元だけでなく、患者の表情も見ている。
患者がわずかに顔をしかめると、すぐにそちらへ視線が動いた。
単に指示を待っているわけではない。
処置の流れを読み、患者の反応を拾っている。
理久も自然と手元に集中できた。
……いい看護師だ。
中川にも、こういう介助のどこが優れているのか、分かってほしかった。
処置を終え、創部の所見と今後の注意点を伝える。
患者へ説明し、綾瀬美月に礼を言って病室を出た。