光のはじまり ― 王子が困るまで ―
廊下に出た瞬間、低い声が飛んできた。

「さっきの、性格悪いです」

理久はカルテを確認しながら、少し笑った。


来た。


「褒め言葉?」

「違います」

「でも、ちゃんと覚えてたでしょ」

「忘れたいんですけど」


……そこまで言うか。


理久は彼女を見た。

駅ビルでは通行人扱い。

食堂では無視。

エレベーターでは、知らないふりを貫いた。

そして今は、性格が悪いと言われている。


最近、ここまで容赦のない扱いを受けた覚えがない。

桐谷くらいだろうか。

「俺は結構気に入ってる」

彼女が足を止めた。

「何をですか」

「俺のこと、知らない人扱いしたところ」

彼女は視線を逸らした。

「実際、知らなかったので」

「今は?」

「……知りたくなかったです」


ひどい。

本当にひどい。


理久は声を出さずに笑った。

「ひどいな」

「事実です」

言い切られた。


普通なら、ここで会話は終わる。

相手もそれを望んでいる。

分かっている。


……でも、もう一回くらい。


「じゃあ、少しずつで」

彼女が警戒した顔をする。

「何がですか」

「知っていくの」

「遠慮します」

即答だった。


……早いな。


理久は笑った。

「三回言う?」

彼女は黙った。


どうやら、エレベーターの時を思い出したらしい。

今度は言わないのか。


理久は、その沈黙まで面白かった。

綾瀬美月は何も言わず、処置車を押してナースステーションへ戻っていった。

理久は背中を見送った。


仕事ができる。

言葉は容赦がない。

王子らしい笑顔を向けても、特に効果はないらしい。


……厄介な人だ。


そう思いながらも、笑みが残った。

◇

「藤崎先生、すみません。すっかり患者さんと話し込んでしまいました」

中川が、少し遅れて病室から出てきた。

「うん、ありがとう」

「え?」

「患者さん、よく話してたね。ああいう関係を作れるのは中川の強みだよ」

中川は少し照れたように笑った。

「いや、まあ、話しやすい方なので」

「それでも、ちゃんと聞いてるから話してくれるんだと思う」

理久はカルテを開いた。

「明日も創部確認。食事開始後の訴えと発熱、疼痛増強、滲出液の変化は拾って。10Aへの申し送りは丁寧に」

「はい」

「内科病棟だから、外科の当たり前が全部共有されているとは思わない方がいい。必要なことは、こちらから具体的に伝える」

「分かりました」

中川が頷いた。


ナースステーションへ戻ると、綾瀬美月は処置記録に向かっていた。

さっきまで性格が悪いと言っていた人とは思えないほど、淡々としている。

中川が次回の処置予定を伝え、理久はその後ろで指示を確認した。


ふと、彼女と視線が合う。

今度は逸らされなかった。

「介助、ありがとうございました」

理久が会釈すると、彼女も軽く頭を下げた。

「お疲れ様です」

きれいに仕事の声だった。


……そこは普通なんだ。


理久は内心で少し笑い、中川とともに10A病棟を出た。
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