光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第22話 雨宿りだけ、のはずだった

飲み会がお開きになる頃、店の外は土砂降りになっていた。

入口では、10Aのスタッフたちが傘やタクシーの手配を始めている。

「藤崎先生、タクシー乗りますか?」

相澤に聞かれ、理久は首を横に振った。

「俺は近いから大丈夫」

中川から飲み会への参加を感謝され、二人を見送る。


これで帰ればいい。

家は近い。少し濡れるのを覚悟すれば済む距離だった。


けれど、理久は入口を離れなかった。

少し離れたところで、綾瀬美月がバッグの中を確認している。

傘はないらしい。

後輩から一緒に駅へ行こうと誘われても、彼女は少し待つと言って断っていた。

理久は、その様子を横目で見た。


雨は弱まる気配がない。

周囲の人影が減っていく。

彼女は、まだ動かない。


……俺は何を待ってるんだろう。

帰ればいいのに。


そう思いながら、理久は彼女の方を向いた。

「綾瀬さん」

結局、声をかけていた。

◇

駅まで行くのかと尋ねると、綾瀬美月は反射的に仕事用の声になった。

ここは病院ではないと指摘しても、飲み会帰りだからこそ仕事用でいたいのだと言う。


なるほど。

実に彼女らしい。


傘は二人とも持っていなかった。

雨が弱くなるまで待つつもりらしいが、当分その気配はない。

理久が帰らずにいると、彼女の警戒はますます強くなった。


……まあ、そうなるよね。


飲み会の帰りに、外科医がわざわざ居残っている。

しかも、ついさっき廊下まで追いかけてきた男だ。

自分でも、何をしているのかと思う。


やがて綾瀬美月は、駅まで走ると言い出した。

理久は彼女の足元を見た。

少しヒールのある靴。

「その靴で?」

「走れます」

「二回言う?」

「まだ一回です」

理久は笑った。

「じゃあ、行こうか」

二人で店を出た。


瞬間、激しい雨が全身を叩いた。

十秒も経たないうちに、判断を誤ったと分かった。

綾瀬美月はバッグを抱えて足を速めるが、濡れた路面と靴のせいで思うように走れない。

理久は一歩後ろを歩いていた。


そこで、気づいた。

雨を吸ったブラウスが、肌に張りついている。

下着が透けていた。

一瞬、目に入った。

すぐに視線を外す。

彼女は、まだ気づいていないらしい。

「綾瀬さん」

理久は足を止め、ジャケットを脱いだ。

何事かと振り向いた彼女の肩へ、そっとかける。

「……これ着て」

彼女は反射的に断った。

いつもなら、感じよく笑って、もう一度勧めるところだった。

けれど。

「大丈夫じゃない」

思ったより低い声が出た。

「その格好で電車に乗るのは、やめた方がいい」

綾瀬美月が黙った。

少し遅れて、ジャケットを引き寄せる気配がする。

理久は道路の方を向いた。


……今の、ちょっと怖かったかな。


もう少し言い方があった気もする。

けれど、あのまま駅へ向かわせるわけにはいかなかった。


雨に濡れた髪が、彼女の頬に張りついていた。

払ってやりたいと思った。

けれど、手は出さなかった。
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