光のはじまり ― 王子が困るまで ―
このまま駅へ向かっても、彼女はずぶ濡れのまま電車に乗ることになる。

タクシーを呼んだところで、服は乾かない。

自宅なら、ここから近い。

タオルもあるし、服も乾かせる。

そこまで考えて、理久は口を開いた。

「うち、ここから近い」

少しだけ間を置く。

「近所だし、雨宿りだけしていけば」

彼女の表情が、たちまち険しくなった。

危ない発言だと指摘される。


……ですよね。


理久は小さく笑った。

「分かってる」

分かっている。

同じ病院の看護師を、飲み会帰りの雨の夜に自宅へ誘っているのだから。

しかも、相手は自分をまったく信用していない。


いや。

信用されないのは、さっきまでの自分の行動を考えれば当然か。


理久は、嫌ならタクシーを呼ぶと伝えた。

家に来るとしても、玄関先でタオルを渡せばいい。

服を乾かす間は、別の場所で待つこともできる。


彼女が断れるように、一つずつ話した。

それでも警戒は解けない。

何もしないという言葉さえ、信用できないらしい。

理久は思わず笑ってしまった。


……確かに。


「何もしないよ」と言う男が、本当に何もしないかどうか。

それを本人に聞いても、何の保証にもならない。


そこで、何かしたら10Aに通報していいと提案した。

主任さんは怖そうだし、と付け足す。

彼女が一瞬、笑いをこらえた。


あ。

今、ちょっと笑った。


理久は、少しだけ安心した。

「本当に雨宿りだけ。綾瀬さんが嫌なら、俺はロビーにいる」

それ以上は言わず、返事を待った。


雨音が、二人の間を埋めている。

彼女はジャケットを肩にかけたまま、黙っていた。

理久も動かなかった。

ここで断られたら、タクシーを呼ぶ。

それで終わりにすればいい。


……終わりにすればいいんだけど。


やがて、小さな声が返ってきた。

「……本当に、雨宿りだけです」

「うん」

「三回言います?」

理久は少し笑った。

「今日は俺が言う」

肩からずり落ちそうになったジャケットを、軽く整えた。

「雨宿りだけ。雨宿りだけ。雨宿りだけ」

綾瀬美月が小さく頷いた。

「分かりました」

「こっち」

理久は歩き出した。

自分の部屋へ向かって。
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