光のはじまり ― 王子が困るまで ―
綾瀬美月が、少しだけ振り向く。

宴席では、何度かこちらを見ていた。

けれど、今こうして目が合うと、彼女の視線はやはり少し違う。

好意を探っているようでも、王子を眺めているようでもない。

何かを観察している。


ふと、気になって聞いた。

「疲れた?」

彼女は、別に、と答えた。

その言い方をからかうと、勝手に分析しないでほしいと返ってくる。


相変わらずだ。


理久は、いつもの調子で笑っていた。

ところが。

「藤崎先生こそ、疲れないんですか」

彼女が、そう聞いた。

「何が?」

「ああいうの」

理久が聞き返すと、綾瀬美月は少し考えてから答えた。


誰にでも感じよくして、場を壊さないようにして。

誘われても曖昧に流して。

全部うまくやる感じ。


理久は、すぐに返せなかった。


……ああ。


そういうところを見ていたのか。

誰と話していたかではない。

誰に笑いかけたかでもない。

笑いながら、どうやって距離を取っているか。

そっちか。


理久は、思わず困ったように笑った。

「……見てるじゃん」

すると、綾瀬美月はエレベーターでの言葉を借りて、見えてしまっただけだと返してきた。


……それ、俺の台詞。


理久は思わず笑った。

一本取られた。

けれど、さっきの問いはまだ残っていた。


ーー疲れないのか。


そんなことを聞かれるとは思わなかった。

理久は声を落とした。

「疲れるよ。普通に」

口にしてから、少し驚いた。


あ。

……答えちゃった。


適当に笑って流せばよかったのに。

彼女は黙っていた。

理久は、沈黙が長くなる前に、飲み会も仕事のようなものだと付け足した。

外科が病棟に世話になっている以上、顔を出すのも仕事。

そう説明すると、綾瀬美月は、モテることも仕事なのかと刺してきた。


……そこを拾う?


それは業務外、と笑って返す。

今度は得意そうだと言われた。

「得意じゃないよ。慣れてるだけ」

好意を向けられることも、期待されることも。

相手の望む姿を見せておけば、会話はうまく進む。

それ以上、踏み込ませる必要もない。


理久にとっては、その方がずっと楽だった。

疲れるけれど、面倒は少ない。


綾瀬美月は少し黙った。

さっきまでのように、即座に言い返してこない。

理久は、少しだけ口元を緩めた。

「じゃあ、綾瀬さんにはどう見えてる?」

彼女は迷ってから答えた。

「……器用な人」

褒め言葉ではなさそうだった。


ーー器用。


まあ、そうなのだろう。

相手が期待する言葉を選んで、角が立たないように笑う。

そうしていれば、たいていのことはうまくいく。

けれど。


……今、俺は何でここにいるんだっけ。


彼女が席を立ったから、追いかけてきた。

声をかけたかったわけでもない。

何を聞きたいのか、自分でもよく分からない。

そのくせ、話し始めたら余計なことばかり言っている。


器用?

……そうかな。


綾瀬美月が通路を戻ろうとした。

理久は、その背中に声をかけていた。

「でも、綾瀬さんの前だと、あんまり器用にできないんだよね」

言ってから、少しだけ驚いた。


……今の、何だ?


別に、そういう意味で言ったわけではない。

実際、いつもと調子が違うというだけだ。

彼女の足が止まる。

振り向かないまま、低い声が返ってきた。

「……そういうことを言うから、信用されないんです」

理久は笑った。


……それもそうか。


彼女はそれ以上付き合わず、店内へ戻っていった。


理久は追わなかった。

スマホを見下ろす。

もちろん、着信などない。


何とも間の抜けた話だった。

理久は小さく息を吐いた。

疑われて、刺されて。

しまいには、自分から余計なことまで言った。

普段なら、もう少しうまくやるのに。


……まあ、いいか。


そう思うと、なぜか少し笑えた。

◇

個室へ戻ると、すぐに声がかかった。

「藤崎先生、電話終わりました?」

「お仕事ですか?」

「少し確認だけです」

理久はいつものように微笑み、席についた。

グラスを持ち、話を聞き、踏み込んだ質問は笑って流す。

いつもどおり。

この方が、ずっと簡単だった。

少し離れた席に戻った綾瀬美月は、何事もなかった顔をしている。

こちらを見ない。

理久も、見ないふりをした。

それでよかった。

ただ、先ほどの自分の声が、ふと頭をよぎる。


――疲れるよ。普通に。


あんなふうに答えたのは、久しぶりだった気がした。
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