光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第23話 境界線
駅近の普通のマンションだと思っていたのだろう。
理久が足を止めた瞬間、綾瀬さんは分かりやすく固まった。
ガラス張りの高層マンション。
ホテルのように静かなエントランス。
明るすぎない照明と、整えられたロビー。
彼女の視線が、建物と理久の顔を行ったり来たりする。
「……近所って、ここ?」
完全に引いていた。
けれど理久は、その反応に少しだけ安心していた。
まだ刺してくる余裕がある。
怖がりすぎて動けなくなっているわけではない。
警戒している。
引いている。
それでも、自分の言葉でこちらを疑えている。
それなら、まだ大丈夫だ。
理久はできるだけ何でもない顔をした。
「うん。近所」
彼女はすぐに返してきた。
「いや、近所の意味が違う」
そのやり取りに、理久は小さく笑った。
外から見れば、いつもの余裕に見えただろう。
けれど実際には、そんな余裕はほとんどなかった。
濡れた髪。
濡れた服。
肩にかけた自分のジャケット。
それをぎゅっと握っている綾瀬さん。
雨に追われるようにここまで来たとはいえ、状況だけを切り取れば、どう考えても危ない。
飲み会帰りの夜。
同じ病院の看護師。
自分の部屋。
浴室。
着替え。
どれを取っても、誤解される材料しかない。
だからこそ、理久はひとつひとつを実務に戻すことにした。
濡れている。
冷えている。
服を乾かす必要がある。
それだけ。
余計な意味を持たせない。
綾瀬さんが、余計な不安を持たなくて済むようにする。
エレベーターに乗っても、彼女は階数表示を見たまま黙っていた。
数字が上がるたびに、隣から動揺が伝わってくる。
理久は横目でその表情を見た。
引いている。
かなり。
それでも、やっぱりどこか彼女らしかった。
王子扱いしない。
浮かれない。
むしろ、全力で疑ってくる。
その反応に、理久はまた妙な安心を覚えた。
自分を信用しすぎない相手だから、ここへ連れて来られたのかもしれない。
そう思った瞬間、自分でも少しおかしくなった。
疑われていることに安心するなんて、どうかしている。
けれど、綾瀬美月はそういう人だった。
甘い言葉をそのまま受け取らない。
近づけば身構える。
不自然な親切には理由を探す。
だからこそ、理久の中にある余計なものも、彼女の前では簡単に通用しない。
彼女なら、自分に都合よく勘違いしない。
彼女なら、危ないと思えば本当に10Aに通報する。
そう思っている時点で、もう普通ではなかった。
部屋の前に着き、理久は鍵を開けた。
玄関に入った瞬間、綾瀬さんはまた固まった。
窓の向こうには、雨で霞んだ夜景が広がっている。
彼女が小さく呟く。
「……近所って、ここ?」
二回目だった。
理久は少し笑った。
「二回言うと、だいたい動揺してるよね」
彼女は濡れた前髪のまま、きっぱりと言った。
「では、三回言います。ここ、何ですか」
「うち」
そう答えると、彼女は何か言いたそうな顔をした。
たぶん、かなり引いている。
けれど、理久はそこで余計に踏み込まなかった。
部屋の奥へ案内することもしない。
距離を取ったまま、タオルを出し、浴室の場所を示す。
「浴室、そこ。先に温まって。服は乾燥機を使える。俺の服でよければ置いておく」
言いながら、言葉が足りないことに気づく。
この状況で、ただ浴室を貸すと言われても怖い。
だから理久は、両手を軽く上げた。
「入らない。近づかない。ドアの外に置く。距離は取る」
綾瀬さんは、まだ疑っている顔をしていた。
当然だと思った。
むしろ、疑っていてくれた方がいい。
ここで簡単に安心される方が困る。
「そこは覚えてるんですね」
彼女が少しだけ呆れたように言う。
理久は笑った。
「綾瀬さんに怒られたことは、だいたい覚えてる」
そう返すと、彼女は一瞬だけ黙った。
こういう言葉は、言い過ぎると甘くなる。
けれど、黙りすぎても不自然になる。
どの程度なら冗談で済むのか。
どこからが距離を詰めすぎになるのか。
理久は、そんなことまで考えていた。
本当に、余裕がない。
綾瀬さんは浴室の前で立ち止まり、理久の濡れた髪や服を見た。
家主より先に入るのは、と言いかけたのだろう。
その気遣いが分かったから、理久はあえて軽く流した。
自分が先に入れば、その間、彼女は濡れたまま待つことになる。
そんな選択肢はない。
結局、彼女は渋々、浴室へ入っていった。
扉が閉まる。
鍵の音はしなかった。
けれど、水音が聞こえ始めた瞬間、理久はその場でしばらく動けなかった。
静かな部屋に、シャワーの音だけが響いている。
前にも、こういう夜はあった。
女性が自分の部屋の浴室を使っていて、理久がリビングで待っている。
状況だけを切り取れば、初めてではない。
付き合っていた相手なら、何度もあった。
けれど、一夜で終わる相手を自宅に入れたことはない。
そういう相手とは、ホテルで済ませた。
自分の部屋は、生活の場所だった。
帰る場所であり、仕事の続きをする場所であり、誰かに踏み込ませすぎないための場所でもあった。
だから、線は引いていた。
自分で思っているより、ずっとはっきりと。
なのに今、浴室の向こうにいるのは、綾瀬美月だった。
付き合っているわけでもない。
恋人でもない。
むしろ、信用されていない。
王子扱いもしない。
期待もしない。
甘い言葉を向ければ疑い、近づけば刺してくる。
全力でこちらを警戒してくる。
それなのに、自分は彼女をここへ入れた。
院内の看護師を、自宅に招き入れて、浴室まで貸している。
どう考えても、普段の自分ではない。
理久は濡れた髪をかき上げ、低く息を吐いた。
「……何やってんだろ」
声に出すと、余計に現実味が増した。
理久が足を止めた瞬間、綾瀬さんは分かりやすく固まった。
ガラス張りの高層マンション。
ホテルのように静かなエントランス。
明るすぎない照明と、整えられたロビー。
彼女の視線が、建物と理久の顔を行ったり来たりする。
「……近所って、ここ?」
完全に引いていた。
けれど理久は、その反応に少しだけ安心していた。
まだ刺してくる余裕がある。
怖がりすぎて動けなくなっているわけではない。
警戒している。
引いている。
それでも、自分の言葉でこちらを疑えている。
それなら、まだ大丈夫だ。
理久はできるだけ何でもない顔をした。
「うん。近所」
彼女はすぐに返してきた。
「いや、近所の意味が違う」
そのやり取りに、理久は小さく笑った。
外から見れば、いつもの余裕に見えただろう。
けれど実際には、そんな余裕はほとんどなかった。
濡れた髪。
濡れた服。
肩にかけた自分のジャケット。
それをぎゅっと握っている綾瀬さん。
雨に追われるようにここまで来たとはいえ、状況だけを切り取れば、どう考えても危ない。
飲み会帰りの夜。
同じ病院の看護師。
自分の部屋。
浴室。
着替え。
どれを取っても、誤解される材料しかない。
だからこそ、理久はひとつひとつを実務に戻すことにした。
濡れている。
冷えている。
服を乾かす必要がある。
それだけ。
余計な意味を持たせない。
綾瀬さんが、余計な不安を持たなくて済むようにする。
エレベーターに乗っても、彼女は階数表示を見たまま黙っていた。
数字が上がるたびに、隣から動揺が伝わってくる。
理久は横目でその表情を見た。
引いている。
かなり。
それでも、やっぱりどこか彼女らしかった。
王子扱いしない。
浮かれない。
むしろ、全力で疑ってくる。
その反応に、理久はまた妙な安心を覚えた。
自分を信用しすぎない相手だから、ここへ連れて来られたのかもしれない。
そう思った瞬間、自分でも少しおかしくなった。
疑われていることに安心するなんて、どうかしている。
けれど、綾瀬美月はそういう人だった。
甘い言葉をそのまま受け取らない。
近づけば身構える。
不自然な親切には理由を探す。
だからこそ、理久の中にある余計なものも、彼女の前では簡単に通用しない。
彼女なら、自分に都合よく勘違いしない。
彼女なら、危ないと思えば本当に10Aに通報する。
そう思っている時点で、もう普通ではなかった。
部屋の前に着き、理久は鍵を開けた。
玄関に入った瞬間、綾瀬さんはまた固まった。
窓の向こうには、雨で霞んだ夜景が広がっている。
彼女が小さく呟く。
「……近所って、ここ?」
二回目だった。
理久は少し笑った。
「二回言うと、だいたい動揺してるよね」
彼女は濡れた前髪のまま、きっぱりと言った。
「では、三回言います。ここ、何ですか」
「うち」
そう答えると、彼女は何か言いたそうな顔をした。
たぶん、かなり引いている。
けれど、理久はそこで余計に踏み込まなかった。
部屋の奥へ案内することもしない。
距離を取ったまま、タオルを出し、浴室の場所を示す。
「浴室、そこ。先に温まって。服は乾燥機を使える。俺の服でよければ置いておく」
言いながら、言葉が足りないことに気づく。
この状況で、ただ浴室を貸すと言われても怖い。
だから理久は、両手を軽く上げた。
「入らない。近づかない。ドアの外に置く。距離は取る」
綾瀬さんは、まだ疑っている顔をしていた。
当然だと思った。
むしろ、疑っていてくれた方がいい。
ここで簡単に安心される方が困る。
「そこは覚えてるんですね」
彼女が少しだけ呆れたように言う。
理久は笑った。
「綾瀬さんに怒られたことは、だいたい覚えてる」
そう返すと、彼女は一瞬だけ黙った。
こういう言葉は、言い過ぎると甘くなる。
けれど、黙りすぎても不自然になる。
どの程度なら冗談で済むのか。
どこからが距離を詰めすぎになるのか。
理久は、そんなことまで考えていた。
本当に、余裕がない。
綾瀬さんは浴室の前で立ち止まり、理久の濡れた髪や服を見た。
家主より先に入るのは、と言いかけたのだろう。
その気遣いが分かったから、理久はあえて軽く流した。
自分が先に入れば、その間、彼女は濡れたまま待つことになる。
そんな選択肢はない。
結局、彼女は渋々、浴室へ入っていった。
扉が閉まる。
鍵の音はしなかった。
けれど、水音が聞こえ始めた瞬間、理久はその場でしばらく動けなかった。
静かな部屋に、シャワーの音だけが響いている。
前にも、こういう夜はあった。
女性が自分の部屋の浴室を使っていて、理久がリビングで待っている。
状況だけを切り取れば、初めてではない。
付き合っていた相手なら、何度もあった。
けれど、一夜で終わる相手を自宅に入れたことはない。
そういう相手とは、ホテルで済ませた。
自分の部屋は、生活の場所だった。
帰る場所であり、仕事の続きをする場所であり、誰かに踏み込ませすぎないための場所でもあった。
だから、線は引いていた。
自分で思っているより、ずっとはっきりと。
なのに今、浴室の向こうにいるのは、綾瀬美月だった。
付き合っているわけでもない。
恋人でもない。
むしろ、信用されていない。
王子扱いもしない。
期待もしない。
甘い言葉を向ければ疑い、近づけば刺してくる。
全力でこちらを警戒してくる。
それなのに、自分は彼女をここへ入れた。
院内の看護師を、自宅に招き入れて、浴室まで貸している。
どう考えても、普段の自分ではない。
理久は濡れた髪をかき上げ、低く息を吐いた。
「……何やってんだろ」
声に出すと、余計に現実味が増した。