光のはじまり ― 王子が困るまで ―
その時、ふと昔の言葉が頭を掠めた。
一度くらい、誰かがいなくなって、本当に困ればいいのに。
困ればいいのに。
あの時は、意味が分からなかった。
困る。
何に。
生活はできる。
仕事にも行ける。
眠れる。
食事もできる。
そう考えて、結局何も分からなかった。
けれど今、理久は浴室の向こうから聞こえる水音を聞きながら、小さく笑った。
「うん。俺、今、困ってる」
あえて、言葉にした。
あの時言われた困るとは、たぶん違う。
綾瀬美月がいなくなったら困るとか、そういう話ではない。
少なくとも、そういうことにしておく。
でも、今の自分が困っていることだけは分かった。
何を着せれば、彼女が一番困らないか。
どこに置けば、警戒されないか。
どの距離にいれば、逃げ道を塞がないか。
どんな言葉なら、軽すぎず、重すぎず、彼女に届くのか。
そんなことを、濡れた服のまま真剣に考えている。
困っている。
かなり。
桐谷に話したら、豪快に笑われるだろう。
お前、それが困るってことだよ。
そんなふうに言われる気がした。
理久は濡れたジャケットを椅子に掛け、タオルと着替えを用意した。
白いTシャツ。
柔らかいスウェット。
大きめのカーディガン。
彼女が困らないもの。
余計な意味を持たないもの。
体の線が出にくいもの。
濡れた服を入れるランドリーバッグと、未使用のヘアゴムも一緒に置く。
下着類は、当然ない。
そこまで用意がよかったら、逆に怖い。
いや、考えるな。
理久は一人で小さく息を吐いた。
本当に、何を考えているのか分からない。
着替えを脱衣所の前に置き、扉の向こうへ声をかける。
「ここに置いておくね」
少し間があって、返事があった。
「ありがとうございます」
仕事用ではない声だった。
少しだけ柔らかい。
少しだけ、素に近い。
それだけで、胸の奥が妙にずれた。
理久はすぐにその場を離れた。
長くいてはいけない。
用事が済んだら離れる。
それだけのことを、いちいち自分に言い聞かせている時点で、本当に余裕がなかった。
ローテーブルにミネラルウォーターを置く。
温かいコーヒーも淹れる。
アルコールを飲んでいるから、水も必要だ。
カフェインが嫌なら飲まなくてもいい。
でも、温かいものがあった方が落ち着くだろう。
そんなことを考えながら、メモを書いた。
『アルコール入ってるから、水も飲んで』
書いてから、しばらく見た。
軽すぎるか。
いや、重くはない。
医療者同士なら普通だ。
たぶん。
たぶん、普通だ。
理久はペンを置き、また小さく息を吐いた。
何が普通なのか、分からなくなっている。
◇
綾瀬さんが浴室から出てきた時、理久は一瞬だけ言葉を失った。
借り物の白いTシャツ。
大きすぎるスウェット。
肩に羽織ったカーディガン。
袖も裾も余っていて、いつものきちんとした看護師の姿とは全然違う。
濡れていた髪はまだ少し湿っていて、頬には湯気のせいか、雨のせいか、ほんのり赤みが戻っている。
ーー欲情。
その二文字は、まったく浮かばなかった。
それより先に浮かんだのは、困った、だった。
家主は自分のはずなのに、なぜか立場は綾瀬美月の方が上な気すらする。
ここは理久の部屋だ。
彼女は雨宿りに来ただけだ。
本来なら、こちらが場を整えて、余裕のある顔でいればいい。
それなのに、理久の方がよほど落ち着いていなかった。
綾瀬さんはコーヒーを両手で持ち、警戒心を残したまま、部屋の隅に座っている。
その距離の取り方が、妙に律儀だった。
冷静になって考えると、この状況を綾瀬美月はどう思っているのだろう。
男性と一つ屋根の下にいる。
しかも、ほとんど知らない男の部屋だ。
緊張しているのではないか。
怖がっているのではないか。
襲われないかと、まだ疑っているのではないか。
あれだけ疑いの目を向けて、警戒していたくらいだ。
理久は改めて、自分の立ち位置を確認した。
近づきすぎない。
視線を置きすぎない。
冗談を言いすぎない。
彼女が帰りたいと言えば、すぐにタクシーを呼ぶ。
紳士的に。
とにかく、紳士的に。
そう決め直したところで、綾瀬さんがこちらを見た。
「藤崎先生こそ、早く入った方がいいです」
理久は自分の服を見る。
たしかに濡れている。
自分のことを忘れていた。
それがまた、少しおかしかった。
「じゃあ、入ってくる。眠かったら寝てていいよ」
「寝ません」
即答だった。
理久は少し笑う。
さっきまで警戒していたくせに、そういうところだけは強い。
「二回言う?」
「言いません」
その返しを聞いて、少しだけ安心した。
まだ大丈夫だ。
彼女はいつもの彼女のままだ。
理久は浴室へ向かった。
一度くらい、誰かがいなくなって、本当に困ればいいのに。
困ればいいのに。
あの時は、意味が分からなかった。
困る。
何に。
生活はできる。
仕事にも行ける。
眠れる。
食事もできる。
そう考えて、結局何も分からなかった。
けれど今、理久は浴室の向こうから聞こえる水音を聞きながら、小さく笑った。
「うん。俺、今、困ってる」
あえて、言葉にした。
あの時言われた困るとは、たぶん違う。
綾瀬美月がいなくなったら困るとか、そういう話ではない。
少なくとも、そういうことにしておく。
でも、今の自分が困っていることだけは分かった。
何を着せれば、彼女が一番困らないか。
どこに置けば、警戒されないか。
どの距離にいれば、逃げ道を塞がないか。
どんな言葉なら、軽すぎず、重すぎず、彼女に届くのか。
そんなことを、濡れた服のまま真剣に考えている。
困っている。
かなり。
桐谷に話したら、豪快に笑われるだろう。
お前、それが困るってことだよ。
そんなふうに言われる気がした。
理久は濡れたジャケットを椅子に掛け、タオルと着替えを用意した。
白いTシャツ。
柔らかいスウェット。
大きめのカーディガン。
彼女が困らないもの。
余計な意味を持たないもの。
体の線が出にくいもの。
濡れた服を入れるランドリーバッグと、未使用のヘアゴムも一緒に置く。
下着類は、当然ない。
そこまで用意がよかったら、逆に怖い。
いや、考えるな。
理久は一人で小さく息を吐いた。
本当に、何を考えているのか分からない。
着替えを脱衣所の前に置き、扉の向こうへ声をかける。
「ここに置いておくね」
少し間があって、返事があった。
「ありがとうございます」
仕事用ではない声だった。
少しだけ柔らかい。
少しだけ、素に近い。
それだけで、胸の奥が妙にずれた。
理久はすぐにその場を離れた。
長くいてはいけない。
用事が済んだら離れる。
それだけのことを、いちいち自分に言い聞かせている時点で、本当に余裕がなかった。
ローテーブルにミネラルウォーターを置く。
温かいコーヒーも淹れる。
アルコールを飲んでいるから、水も必要だ。
カフェインが嫌なら飲まなくてもいい。
でも、温かいものがあった方が落ち着くだろう。
そんなことを考えながら、メモを書いた。
『アルコール入ってるから、水も飲んで』
書いてから、しばらく見た。
軽すぎるか。
いや、重くはない。
医療者同士なら普通だ。
たぶん。
たぶん、普通だ。
理久はペンを置き、また小さく息を吐いた。
何が普通なのか、分からなくなっている。
◇
綾瀬さんが浴室から出てきた時、理久は一瞬だけ言葉を失った。
借り物の白いTシャツ。
大きすぎるスウェット。
肩に羽織ったカーディガン。
袖も裾も余っていて、いつものきちんとした看護師の姿とは全然違う。
濡れていた髪はまだ少し湿っていて、頬には湯気のせいか、雨のせいか、ほんのり赤みが戻っている。
ーー欲情。
その二文字は、まったく浮かばなかった。
それより先に浮かんだのは、困った、だった。
家主は自分のはずなのに、なぜか立場は綾瀬美月の方が上な気すらする。
ここは理久の部屋だ。
彼女は雨宿りに来ただけだ。
本来なら、こちらが場を整えて、余裕のある顔でいればいい。
それなのに、理久の方がよほど落ち着いていなかった。
綾瀬さんはコーヒーを両手で持ち、警戒心を残したまま、部屋の隅に座っている。
その距離の取り方が、妙に律儀だった。
冷静になって考えると、この状況を綾瀬美月はどう思っているのだろう。
男性と一つ屋根の下にいる。
しかも、ほとんど知らない男の部屋だ。
緊張しているのではないか。
怖がっているのではないか。
襲われないかと、まだ疑っているのではないか。
あれだけ疑いの目を向けて、警戒していたくらいだ。
理久は改めて、自分の立ち位置を確認した。
近づきすぎない。
視線を置きすぎない。
冗談を言いすぎない。
彼女が帰りたいと言えば、すぐにタクシーを呼ぶ。
紳士的に。
とにかく、紳士的に。
そう決め直したところで、綾瀬さんがこちらを見た。
「藤崎先生こそ、早く入った方がいいです」
理久は自分の服を見る。
たしかに濡れている。
自分のことを忘れていた。
それがまた、少しおかしかった。
「じゃあ、入ってくる。眠かったら寝てていいよ」
「寝ません」
即答だった。
理久は少し笑う。
さっきまで警戒していたくせに、そういうところだけは強い。
「二回言う?」
「言いません」
その返しを聞いて、少しだけ安心した。
まだ大丈夫だ。
彼女はいつもの彼女のままだ。
理久は浴室へ向かった。