光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第28話 仕方ない理由

「とある女性を、家に泊めたんだよね」

グラスを口元へ運びかけていた桐谷の手が止まった。

「……はぁ?」

予想どおりの反応に、理久は少し笑った。

仕事帰り、久しぶりに桐谷と飲みに来ていた。大学時代からの付き合いで、今さら取り繕う必要もない相手だ。それでも、こんな話を自分から切り出したことは、ほとんどなかった。

桐谷はグラスを置き、理久の顔をまじまじと見た。

「お前、結局そっちに戻ったわけ?」

「違う。泊めたけど、何もしてない」

「女を家に泊めて、何もない?」

「そう。何もない」

「藤崎なのに?」

「それ、どういう意味?」

理久は苦笑した。

「むしろ、俺は結構紳士的だと証明されたと思ってるけど」

「自分で言うなよ」

桐谷は呆れたように笑い、もう少し詳しく話せと促した。


理久は相手の名前を伏せたまま、あの雨の夜のことを話した。

飲み会の帰りに豪雨に遭い、ずぶ濡れになっていた女性を家へ入れたこと。シャワーを貸し、自分も浴室を使ってリビングに戻ったら、彼女がソファで眠っていたこと。

「……寝てた?」

「うん」

「お前が風呂から出てきたら?」

「寝てた」

桐谷はしばらく黙ったあと、堪えきれずに笑い出した。

「王子が目の前にいたのに?」

「王子かどうかは知らないけど、よく寝てたよ」

「あははっ。それ、男として見られてないだろ」

「……かもね」

理久はグラスを傾けた。


あれだけ警戒していたのに、どうしてあんなに無防備に眠れたのだろう。

もっとも、本人は起きた瞬間、随分と慌てていたけれど。

思い出すと、少しおかしかった。


「で、誰?」

「言わない」

「俺の知ってる人?」

「推理しないでくれる?」

桐谷はにやりと笑ったが、それ以上は追及してこなかった。

そのあたりの距離感は、昔から変わらない。

「で、そのあとは?」

桐谷がグラスを置いた。

「朝食は作ったよ」

「……お前が? 朝食まで?」

「まあ、泊まることになったんだし。何も食べずに帰すのもどうかと思って」

「いや、そこまでする? よくやるな」

桐谷は呆れたように笑った。

「それで、その女性とは、それっきり?」

「いや。後日、一緒に食事に行った」

「は?」

「お礼がしたいって言うから」

桐谷は目を細めた。

「さっきから、随分話が進んでない?」

「そう?」

「そうだろ。家に泊まることになって、朝食まで作って、そのうえ日を改めて二人で食事?」

理久は笑って答えなかった。


お礼の食事だと、綾瀬美月は何度も強調していた。

けれど、誘ったのは自分だ。

その事実まで桐谷に説明する必要はないだろう。


「で、うまくいったのか?」

「何が?」

「食事だよ」

理久は少し考えた。


夜景の見えるレストラン。

不満そうな顔で現れた綾瀬美月。

料理を口にして、思わず感想を漏らした時の表情。

そして、帰り際に交わした言葉。


「……楽しかったよ」

そう答えると、桐谷が動きを止めた。

「お前が?」

「俺が」

「へえ」

妙に含みのある返事だった。


理久はグラスを置く。

「何?」

「いや。お前がそういう話をするの、珍しいと思って」

桐谷は少し笑った。

「で、次は?」

「あると言えば、ある」

「何それ」

「忘れ物を預かってる。ピアス」

桐谷は一瞬、ぽかんとした。

それから、声を立てて笑った。

「何だよ。それ、完全に次に会う理由じゃん」

「だから困ってる」

「返せばいいだろ」

「返すだけならね」

桐谷の笑みが深くなった。

「……返すだけじゃ嫌なんだ?」

理久は答えなかった。

言葉にすれば簡単だった。


また会いたい。


ただ、それだけのことだ。

けれど、そう言ってしまうと、随分と話が変わってしまう気がした。

桐谷は黙った理久を見て、何か納得したようだった。

「普通に誘ったら来ないのか、その人」

「来ないだろうね」

少なくとも、気軽に誘える相手ではなかった。

食事の約束をするだけでも、お礼だからと何度も念を押された。次に家へ来るのも、ピアスを返してもらうため。それ以上の用事があると分かれば、まず警戒するだろう。

「じゃあ、仕方ない理由を作れば?」

桐谷は何でもないことのように言った。

「仕方ない理由?」

「負けたから仕方ない。約束したから仕方ない。そういう形なら、相手も納得しやすいんじゃないの?」

理久は顔を上げた。


仕方ないから、付き合う。


確かに、綾瀬美月が言いそうな言葉だった。

何かをしてもらえば借りを返そうとするし、自分の意思で距離を縮めたと思われるのは、ひどく嫌がる。

けれど、約束したことなら守るだろう。

勝負に負けたから、という理由なら。


そこで、部屋に置いてあるチェス盤が頭に浮かんだ。

買ってから、ほとんど使っていない。

「……1局だけ」

「何?」

「いや、こっちの話」

理久はグラスを手に取った。

桐谷が、向かいで呆れたように笑う。

「悪い顔してるぞ」

「いつもどおりだよ」

「それが怖いんだって」

理久は答えず、口元だけで笑った。

◇

しばらくして、桐谷がふと真面目な顔になった。

「でも、お前、結構本気なんじゃないの?」

理久は顔を上げた。

「何が?」

「その人のこと。そうじゃなきゃ、ピアスを返すだけで、こんな面倒なこと考えないだろ」

理久はグラスの中の氷を眺めた。


桐谷の言うことは、間違っていない。

ピアスを返すなら、病院の外で待ち合わせれば済む。

彼女の家に郵送する方法だってある。

それでも、取りに来てもらう約束をした。

今度は、その先のことまで考え始めている。

「……暇なんだよ」

理久はそう言って笑った。

「嘘つけ」

桐谷は即答した。

その言葉に反論できず、理久はグラスを口に運んだ。
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