光のはじまり ― 王子が困るまで ―
今夜、最も印象に残っているのは、夜景ではなかった。

食事の終盤、彼女が会計に気づいた時の顔は、確かに面白かった。自分が払うと宣言していたのだから、怒るのも無理はない。

けれど、それだけなら、いつものやり取りと大して変わらない。

そのあと、次は彼女の選んだ店でいいと提案した。

さらに、預かっていたピアスのことを切り出した。

当然、なぜ今になって言うのかと抗議された。

業務外連絡は必要最低限だと言われたから、と返してみたものの、彼女が納得するはずもなかった。


病棟で渡せば誤解される。

郵送するにも住所が必要だ。

そうした説明は、全部事実だった。


しかし、今夜持っていかなかった理由としては不十分だった。

持っていこうと思えば、持っていけた。

それをしなかった。


彼女は結局、ピアスを取りに来ることになった。

今日、渡していたら。

お礼の食事は終わった。ピアスも返せば、もう会う理由はなくなる。

それで終わりにすればいい。


……終わりにすれば、いいんだけど。


理久は額に手を当てた。


……俺は、まだ終わらせたくない。


ずいぶん、厄介なことを考えている。

けれど、否定する気にはなれなかった。

王子として振る舞うなら、もっと別のやり方があっただろう。

相手を困らせず、曖昧なまま気持ちよく別れられる方法はいくらでも知っている。

それなのに、今夜は選ばなかった。

理久は小さく息を吐いた。


……検証したかったのは、何だったんだろうね。


◇

デスクの上には、ピアスを入れたケースがあった。

理久は手に取り、蓋を開ける。

小さなピアスが、きちんと収まっている。


本当は今夜、返せた。

食事の約束はすでに果たしたのだから、次に会う理由など作らずに済んだはずだった。

けれど、自分は返さなかった。

彼女から、人質を取る男は王子ではない、と言われた。

代わりに与えられた評価は、策士の悪役寄り。


理久は思わず笑った。

王子より、よほどひどい。


それでも、嫌ではなかった。

彼女は、自分が用意した姿をそのまま受け取らない。おかしいと思えば指摘するし、嫌なことには嫌だと言う。

そのくせ、料理がおいしければ、つい素直に口にしてしまう。

そして、こちらが本気で言った言葉には、時々返事ができなくなる。


理久はケースの蓋を閉めた。


仮説は外れた。

綾瀬美月は、王子様には堕ちない。


それは、よく分かった。

では、結果として何が分かったのか。


理久はしばらく考え、苦笑した。

観察者でいるつもりだった自分が、彼女の反応を気にしている。

それも、必要以上に。

もはや実験としては、あまりにも条件が悪い。

被験者より先に、観察者が影響を受けてしまっている。


……論文にはならないな。


理久はようやくパソコンの画面へ視線を戻した。

明日までに確認しておきたい資料がある。

今度こそ仕事をしようとした、その時だった。


デスクの端に置いたスマホが目に入った。

ピアスを取りに来る日程については、彼女から連絡をもらうことになっている。

業務外連絡は必要最低限。

その約束は守るつもりだった。

理久はスマホには触れず、論文を開いた。

ただ、ページを読み進めながら、ふと思った。


次に会った時、彼女はどんな顔をするのだろう。

王子ではなく、策士の悪役として迎えればいいのだろうか。


……それはそれで、怒られるか。


理久は小さく笑い、ようやく仕事に戻った。
< 48 / 82 >

この作品をシェア

pagetop