光のはじまり ― 王子が困るまで ―
帰宅すると、理久はリビングの奥に置いてあるチェス盤を取り出した。

以前、気まぐれで買ったものだ。仕事が忙しくなってからは使う機会もなく、すっかり置物になっていた。

久しぶりに箱を開け、駒を確認する。


チェスなら、綾瀬美月もルールくらいは知っているだろうか。

もし知らなければ、別の勝負でもいい。


ただ、あの人は負けず嫌いそうだ。

「1局だけ」と言えば、案外乗ってくるかもしれない。


理久は駒を1つ手に取り、少し笑った。

桐谷には、悪い顔をしていると言われた。

確かに、あまり褒められた考えではない。

ピアスを返すために来てもらい、そこから勝負に誘って、勝ったら夕飯に付き合ってもらう。


……ずいぶん遠回りだな。


直接誘えばいい。

そう思う一方で、直接誘った時の彼女の顔も簡単に想像できた。

「なぜですか」

まず、そこから始まるだろう。

そして、必要最低限ではないと抗議される。


理久は駒を箱へ戻した。

それでも、勝負なら。

彼女自身が納得して、付き合ってくれるかもしれない。


その時、スマホが震えた。

通知を確認すると、綾瀬美月からだった。


予定を確認したらしく、ピアスを取りに来られる日について連絡が届いている。

理久は日程を確かめ、都合がつくことを返信した。


待ち合わせは、前回と同じ最寄駅。

それで話はまとまった。


画面を閉じた理久は、少しだけ考えてから、レストランの予約サイトを開いた。

彼女が来る日の夜。

仕事帰りでも間に合う時間で、2人分の席を探す。

前回とは違う店にした。夜景を売りにしているわけではなく、料理がおいしいと評判の、落ち着いたレストランだ。

もっとも、綾瀬美月の言う「普通」に当てはまるかどうかは分からない。


個室の空きがあった。

理久は予約を確定した。

勝負に勝ったら、夕飯に誘う。

負けたとしても、普通に誘えばいい。

断られたら、予約を取り消せば済むことだった。


……それなら、先に誘えばいいんだけどね。


理久は小さく笑い、スマホを置いた。

それからチェス盤をリビングのテーブルに広げ、白と黒の駒を並べ始めた。


ピアスは、すでに返す準備ができている。

綾瀬美月が来たら、まず渡す。

それは約束だ。


そのあと。

「1局だけ」

理久は盤面を見下ろし、小さく呟いた。


仕方ない理由を作るための勝負。

けれど、勝ち負けのどちらに転んでも、夕飯に誘うつもりでいる。

その時点で、勝負としては随分おかしい。

理久は最後の駒を置き、静かに笑った。


……まあ、いいか。


次に会う日は、もう決まっている。
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