光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第34話 手の温度

まず、向こうから近づいてくるなんてあり得ない。


桐谷にそう言ったのは、つい数日前のことだった。

理久は、自分の見立てがそれほど間違っているとは思っていなかった。

綾瀬美月は、近づけば一歩引く。

助けを求めるより先に、自分で何とかしようとする。

仮住まいを始めてからも、その態度は変わらなかった。

だから、帰宅した夜、リビングでクッションを抱えている彼女を見つけた時も、最初は何が起きているのか分からなかった。


窓の外が光る。

遅れて、建物に響くような雷鳴。

彼女の肩が、大きく跳ねた。


……ああ。雷か。


思いがけない弱点を知って、つい笑ってしまったのは失敗だった。

綾瀬美月は、本当に怖がっていた。


カーテンを閉め、照明を調整し、テレビをつける。温かい飲み物を用意すると、彼女はようやく少し落ち着いた。

それでも、雷が鳴るたびに身体が強張る。

理屈で安心できるなら、とっくにそうしているのだろう。


理久は少し離れた場所に座った。

怖がっている彼女に、自分まで警戒させるつもりはなかった。


けれど。

「手、貸す?」

そう言ったのは、ほとんど思いつきだった。

断られるだろう。

そう予想して差し出した手に、綾瀬美月の指先が触れた。


……え。


理久は、一瞬だけ返す言葉を失った。


少しだけ。

雷が鳴っている間だけ。

勘違いしないでください。


条件は次々についた。

そこは、いつもの綾瀬美月だった。

けれど、その手は思った以上に冷たかった。

本当に怖かったのだと、触れて初めて分かった。

理久は何も言わず、指先を包んだ。

◇

テレビでは、恋愛ドラマが流れていた。

内容はほとんど頭に入ってこなかった。

雷が鳴るたび、手にわずかな力が加わる。

握り返すと、少し緩む。

その繰り返しだった。


……こんなに分かりやすい人だったかな。


病院では、何を考えているのか読ませない。

こちらが何か仕掛ければ、すぐに意図を見抜いてくる。

その綾瀬美月が、今は雷の音に怯え、こちらの手を頼りにしている。

もちろん、雷が止めば終わりだ。

彼女は礼を言って、さっさとゲストルームへ戻るだろう。

それでいい。

そう思いながら、理久は繋いだ手を見た。


……いや。

本当に、そう思ってる?


自問して、少し困った。

この手を離したくないと思っているのは、どう考えても自分の方だった。

◇

雷の音が、少しずつ遠ざかっていった。

繋いだ手からも、次第に力が抜けていく。

もう大丈夫そうだ。

そう思った時、肩にふわりと重みがかかった。


「……寝た?」


顔を向けると、綾瀬美月がこちらにもたれかかっていた。

静かな寝息。

完全に眠っている。

理久は、反射的に息を止めた。


……いや。


ちょっと待って。

男の部屋で、そんなに簡単に寝る?

しかも、二度目!


雨宿りの夜もそうだった。

あの時はソファで眠ってしまい、今度は自分の肩にもたれている。

手まで繋いだまま。


……無防備すぎない?


理久は、眠っている彼女を見下ろした。

自分がどういう男だったか、彼女は知らない。

これまで、後腐れのない相手と関係を持つこともあった。

だからこそ、今ここで何かする気はなかった。

綾瀬美月とは、後腐れしかない。

同じ病院で働いている。今は困って、自分の部屋を借りている。

彼女の安心を、自分の欲で壊すつもりはない。

そこは、はっきりしている。

ただ。


……俺、一応、男なんだけど。


こんな姿を見せられて、何も思わないわけがない。

理久は、そっと姿勢を変えた。

起こさないように。

肩にかかる重みは、軽かった。


軽い。

……のに、どうしようもなく重い。
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