光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第5話 まだなんだな

三日後。


「藤崎」

廊下で桐谷に呼び止められた。

理久は振り返る。

「何」

「別れた?」

理久は少し眉を寄せた。

「何で分かるの」

「顔」

「顔? そんなので分かるもの?」

「相変わらず王子な顔だけどな」

理久は無視して歩き出した。

桐谷が隣に並ぶ。

「振られた?」

「……」

「へえ、振られたのかあ」

「嬉しそうだね」

「いや。お前でも振られるんだなと思って」

「殴るよ」

「怖」

「内科医一人くらいなら何とかできる」

「外科医の発言じゃねえな」

理久は黙って歩いた。

桐谷も少し黙った。

「寂しい?」

理久はすぐには答えなかった。


寂しい。


彼女の部屋へ行くことは、もうない。

合鍵も返した。

仕事帰りに白ワインを買うことも、冷蔵庫からスープを取り出すこともない。

寝る時に、電気を消すことも。

あの部屋で過ごしていた時間が、なくなった。


そう考えると、少しだけ静かだった。

「少し」

理久は答えた。

桐谷は、からかわなかった。

「困ってる?」

理久は足を緩めた。


……また、その言葉。


別れる前にも、別れる時にも聞かれた。

ここ数日、ずっと付きまとっている。

「それ、流行ってるの?」

「で?」

理久は少し考えた。


朝は普通に起きられる。

仕事にも行ける。

食事もできるし、眠れる。

昨日の夕食はコンビニで買ったが、付き合っていた頃だってそういう日はあった。

洗濯も、自分でする。

帰る部屋もある。


何も止まっていない。

「困ってはいない」

桐谷は何も言わなかった。

その沈黙が、妙に気に障った。

「何」

「別に」

「言いたいことがあるなら言えば」

「いや」

桐谷は少しだけ理久を見た。

「別れる時、何か言われた?」

理久は足を緩めた。


彼女の言葉が、ふと頭をよぎる。



――あなたが、自分から帰りたいと思う場所を見つければいいなって思ってる。



「……自分から帰りたいと思う場所を見つければいいって」

桐谷は少し黙った。

「帰りたい場所ね」

「意味が分からない」

「藤崎の帰る場所って、どこ?」

「は?」

理久は眉を寄せた。

「部屋なら普通にあるけど」

桐谷は、しばらく理久を見ていた。

それから、少しだけ息を吐いた。

「……そうなるか」

「何」

「いや」

「何か言いたそうだけど」

桐谷は今度は笑わなかった。

「お前にとっては、帰る場所はまだ部屋なんだろうな」

「部屋は部屋でしょ」

桐谷は黙った。

そして、静かに口にした。


「そういうところだよ」


「意味が分からない」

「だろうな」


……腹が立つ。


分からないから聞いているのに。

彼女も桐谷も、分かったような顔をして、肝心なところは説明しない。

それなのに、自分だけが何かを理解していないことになっている。


理久はそれ以上聞かず、医局へ向かった。

< 7 / 82 >

この作品をシェア

pagetop