光のはじまり ― 王子が困るまで ―
未来編 回収される王子
――及川蒼真視点――
俺は今、六本木の居酒屋にいる。
左には、日本酒を飲んでいる桐谷先生。
右には、すでに酔って眠ってしまった藤崎先生。
なんだ、この配置!
俺がレジデント二年目で肝胆膵班に入ってから、藤崎先生にはずいぶんお世話になってきた。
その頃から、なぜか桐谷先生と藤崎先生の飲み会に呼ばれることも増えた。
最初は、外科の後輩として呼ばれているのかと思っていた。
けれど最近は、少し違う気がしている。
たぶん俺は、後輩というより、非常時要員だ。
主に、藤崎先生がこうなった時の。
「藤崎、寝るの早すぎだな」
桐谷先生が、徳利を片手に笑った。
藤崎先生は、カウンターに片腕を置き、その上に顔を伏せている。
顔は相変わらずきれいだ。
寝ていても、なんとなく絵になる。
腹立つくらいに。
でも、完全に寝ている。
「いや、最近かなり忙しいんですよ。手術も立て込んでるし、パリの国際学会に向けた準備もありますからね。そのあとにはボストン留学も控えてますし」
俺が言うと、桐谷先生は「だろうな」と頷いた。
俺自身もパリではポスター発表を予定していて、準備に追われている。けれど、藤崎先生は通常業務に加えて留学の準備まで重なっているのだから、相当な忙しさだろう。
俺は横で眠っている藤崎先生を見た。
少し前の藤崎先生なら、たぶんこんなふうにはならなかった。
飲んでも乱れない。
眠そうでも崩れない。
酔っていても、自分の輪郭を保っている。
そういう人だと思っていた。
少なくとも、俺が知っていた藤崎先生はそうだった。
それが最近、少し違う。
表面は相変わらず穏やかで、感じがよくて、余裕がある。
外科の藤崎先生としては完璧だ。
でも、ふとした時に、その仮面の端がずれる。
それも、だいたい綾瀬が関わっている時に。
「及川」
桐谷先生に呼ばれて、俺は顔を上げた。
「はい」
「綾瀬の連絡先、知ってるんだろ?」
嫌な予感がした。
かなり。
「知ってますけど」
「呼べ」
「え」
「藤崎を回収してもらう」
「俺がですか?」
「他に誰が呼ぶんだよ」
俺は眠っている藤崎先生を見た。
それから、桐谷先生を見る。
「桐谷先生が呼べばいいじゃないですか」
「俺が呼んだら角が立つだろ」
「俺が呼んでも立ちますよ」
「お前なら立たない」
「その根拠は何ですか」
「戦友だろ?」
桐谷先生は楽しそうに笑っている。
完全に面白がっている。
けれど、今の藤崎先生を一番自然に回収できる人は、もう決まっている。
「俺が送りますよ?」
俺が言うと、桐谷先生は即答した。
「だめ」
「何でですか」
「呼んだ方が面白い」
「それこそ、綾瀬に怒られますよ」
「怒られるのは眠った藤崎だろ」
桐谷先生は、眠っている藤崎先生を見た。
「そして、ちゃんと帰る場所に連れて帰ってもらおうぜ」
俺は何も言えなかった。
ーー帰る場所。
その言葉に、妙な重さがあった。
藤崎先生には家がある。
でも桐谷先生が言っているのは、たぶんそういう場所ではない。
俺はスマホを取り出した。
綾瀬の名前を開く。
少し迷ってから、電話をかける。
数コールで出た。
『もしもし、及川くん? どうしたの?』
「ごめん、今大丈夫?」
『うん。何かあった?』
「えっと……旦那さんが酔って寝てしまって」
少しだけ、間が空いた。
『……』
この沈黙。
何を考えているんだろう。
『どこに行けばいい?』
「あ、場所送る」
『分かった。少し待ってて』
電話が切れる。
俺はスマホを置いた。
「綾瀬、来ます」
桐谷先生が楽しそうに笑った。
「お、これは楽しみ」
「何がですか」
「藤崎が回収されるところ」
「性格悪いですね」
「見たいだろ」
「……まあ、少し」
そう答えてから、俺はふと思い出した。
前は逆だった。
あの時は、俺が藤崎先生に連絡した。
飲み会で、綾瀬が酔っていた。
病棟では絶対に見せないような、妙に素直な顔をしていて。
ーーこれは危ない。
そう思った。
あの綾瀬が、あんなふうに柔らかくなるところを、他の誰かに長く見せていいとは思えなかった。
だから、藤崎先生を呼んだ。
今思えば、あれは正解だったと思う。
かなり。
「及川?」
桐谷先生に呼ばれて、俺は顔を上げた。
「何を思い出してる顔?」
「いえ。前に、逆はあったなと思って」
「逆?」
「俺が藤崎先生に連絡して、綾瀬を回収してもらったことがあるんです」
桐谷先生の目が、少し面白そうに細くなる。
「へえ。綾瀬を?」
「はい」
桐谷先生は日本酒を飲みながら、満足そうに笑った。
「綾瀬、怒りますかね」
俺が聞くと、桐谷先生はきっぱりと言った。
「怒るだろ」
「ですよね」
「でも来る」
「ですよね」
そこは疑いようがなかった。
綾瀬は文句を言う。
冷たい目もする。
呆れた顔もする。
でも、来る。
そういうやつだ。
俺は今、六本木の居酒屋にいる。
左には、日本酒を飲んでいる桐谷先生。
右には、すでに酔って眠ってしまった藤崎先生。
なんだ、この配置!
俺がレジデント二年目で肝胆膵班に入ってから、藤崎先生にはずいぶんお世話になってきた。
その頃から、なぜか桐谷先生と藤崎先生の飲み会に呼ばれることも増えた。
最初は、外科の後輩として呼ばれているのかと思っていた。
けれど最近は、少し違う気がしている。
たぶん俺は、後輩というより、非常時要員だ。
主に、藤崎先生がこうなった時の。
「藤崎、寝るの早すぎだな」
桐谷先生が、徳利を片手に笑った。
藤崎先生は、カウンターに片腕を置き、その上に顔を伏せている。
顔は相変わらずきれいだ。
寝ていても、なんとなく絵になる。
腹立つくらいに。
でも、完全に寝ている。
「いや、最近かなり忙しいんですよ。手術も立て込んでるし、パリの国際学会に向けた準備もありますからね。そのあとにはボストン留学も控えてますし」
俺が言うと、桐谷先生は「だろうな」と頷いた。
俺自身もパリではポスター発表を予定していて、準備に追われている。けれど、藤崎先生は通常業務に加えて留学の準備まで重なっているのだから、相当な忙しさだろう。
俺は横で眠っている藤崎先生を見た。
少し前の藤崎先生なら、たぶんこんなふうにはならなかった。
飲んでも乱れない。
眠そうでも崩れない。
酔っていても、自分の輪郭を保っている。
そういう人だと思っていた。
少なくとも、俺が知っていた藤崎先生はそうだった。
それが最近、少し違う。
表面は相変わらず穏やかで、感じがよくて、余裕がある。
外科の藤崎先生としては完璧だ。
でも、ふとした時に、その仮面の端がずれる。
それも、だいたい綾瀬が関わっている時に。
「及川」
桐谷先生に呼ばれて、俺は顔を上げた。
「はい」
「綾瀬の連絡先、知ってるんだろ?」
嫌な予感がした。
かなり。
「知ってますけど」
「呼べ」
「え」
「藤崎を回収してもらう」
「俺がですか?」
「他に誰が呼ぶんだよ」
俺は眠っている藤崎先生を見た。
それから、桐谷先生を見る。
「桐谷先生が呼べばいいじゃないですか」
「俺が呼んだら角が立つだろ」
「俺が呼んでも立ちますよ」
「お前なら立たない」
「その根拠は何ですか」
「戦友だろ?」
桐谷先生は楽しそうに笑っている。
完全に面白がっている。
けれど、今の藤崎先生を一番自然に回収できる人は、もう決まっている。
「俺が送りますよ?」
俺が言うと、桐谷先生は即答した。
「だめ」
「何でですか」
「呼んだ方が面白い」
「それこそ、綾瀬に怒られますよ」
「怒られるのは眠った藤崎だろ」
桐谷先生は、眠っている藤崎先生を見た。
「そして、ちゃんと帰る場所に連れて帰ってもらおうぜ」
俺は何も言えなかった。
ーー帰る場所。
その言葉に、妙な重さがあった。
藤崎先生には家がある。
でも桐谷先生が言っているのは、たぶんそういう場所ではない。
俺はスマホを取り出した。
綾瀬の名前を開く。
少し迷ってから、電話をかける。
数コールで出た。
『もしもし、及川くん? どうしたの?』
「ごめん、今大丈夫?」
『うん。何かあった?』
「えっと……旦那さんが酔って寝てしまって」
少しだけ、間が空いた。
『……』
この沈黙。
何を考えているんだろう。
『どこに行けばいい?』
「あ、場所送る」
『分かった。少し待ってて』
電話が切れる。
俺はスマホを置いた。
「綾瀬、来ます」
桐谷先生が楽しそうに笑った。
「お、これは楽しみ」
「何がですか」
「藤崎が回収されるところ」
「性格悪いですね」
「見たいだろ」
「……まあ、少し」
そう答えてから、俺はふと思い出した。
前は逆だった。
あの時は、俺が藤崎先生に連絡した。
飲み会で、綾瀬が酔っていた。
病棟では絶対に見せないような、妙に素直な顔をしていて。
ーーこれは危ない。
そう思った。
あの綾瀬が、あんなふうに柔らかくなるところを、他の誰かに長く見せていいとは思えなかった。
だから、藤崎先生を呼んだ。
今思えば、あれは正解だったと思う。
かなり。
「及川?」
桐谷先生に呼ばれて、俺は顔を上げた。
「何を思い出してる顔?」
「いえ。前に、逆はあったなと思って」
「逆?」
「俺が藤崎先生に連絡して、綾瀬を回収してもらったことがあるんです」
桐谷先生の目が、少し面白そうに細くなる。
「へえ。綾瀬を?」
「はい」
桐谷先生は日本酒を飲みながら、満足そうに笑った。
「綾瀬、怒りますかね」
俺が聞くと、桐谷先生はきっぱりと言った。
「怒るだろ」
「ですよね」
「でも来る」
「ですよね」
そこは疑いようがなかった。
綾瀬は文句を言う。
冷たい目もする。
呆れた顔もする。
でも、来る。
そういうやつだ。