光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第38話 困った?
翌日の昼過ぎ。
理久が医局の前を通ると、桐谷が自販機の前に立っていた。
目が合う。
嫌な予感がした。
桐谷は缶コーヒーを取り出しながら、何でもないように言った。
「そういえば、家はどうなった?」
「家?」
「火事の」
理久は一瞬だけ黙った。
桐谷は缶のプルタブを開ける。
「さっき10Aで、綾瀬が無事マンションに戻ったって話になってたぞ」
「え?」
思わず声が出た。
……ああ。
病棟では、もう戻ったことになっているのか。
そりゃ、そうだろう。
修繕は終わった。部屋にも問題はない。
それなのに、まだ自分の家にいるなんて、簡単に説明できることじゃない。
桐谷がこちらを見る。
その顔は、完全に何かを拾った顔だった。
「……あれ?」
「何」
「いや。今の反応」
「普通でしょ」
「普通じゃないな」
理久は視線を外した。
桐谷が、少しだけ目を細める。
「……帰ってないのか?」
「帰ったよ」
「嘘が下手だな」
「嘘じゃない」
「じゃあ何」
理久は少しだけ黙った。
本当に、嘘ではない。
美月は、自分のマンションへ行った。
部屋を確認した。
荷物をまとめた。
玄関を出ようとした。
そこまでは事実だ。
理久は缶コーヒーを一本買い、取り出し口からそれを取った。
「……帰ろうとしてた」
桐谷が、口元だけで笑った。
「で?」
理久は缶を開けずに持ったまま、短く言った。
「引き止めた」
桐谷の眉が上がる。
「お」
「何」
「いや」
桐谷は、少しだけ理久を見た。
面白がっている顔ではある。
でも、それだけではない。
長年見てきた人間の、珍しい変化を見つけた顔だった。
「家に入れたのも驚いたけどな」
「うん」
「引き止めたのは、もっと驚いた」
理久は反論しなかった。
自分でもそう思う。
「昔のお前なら、帰しただろ」
「……だろうね」
帰りたいなら、帰ればいい。
部屋が直ったなら、帰るのが自然。
ここは避難先だったのだから、引き止める理由はない。
昔の自分なら、そう考えた。
そして、たぶん本当に帰した。
「それに」
桐谷は缶コーヒーを揺らした。
「お前、院内には手を出さないって決めてたんじゃなかったのか」
理久は少しだけ目を伏せた。
「決めてたよ」
「だよな」
「家に入れるつもりもなかった」
「そこも驚いてる」
「引き止めるつもりもなかった」
「そこが一番驚いてる」
理久は小さく笑った。
反論できなかった。
そうなるつもりはなかった。
本当に。
最初は、ただ困っている人を放っておけなかっただけだ。
雨に濡れていたから浴室を貸した。
火事で帰れなかったから部屋を貸した。
病院では、何もなかった顔をした。
線は引いているつもりだった。
院内の女性には手を出さない。
弱っている相手を、自分の都合で縛らない。
そう決めていた。
決めていたのに。
帰ろうとした美月を、引き止めた。
「理屈ではどうにもならないものもあるんだよ」
理久が言うと、桐谷は少しだけ笑った。
「お前の口からそれが出るとはな」
「俺もそう思う」
「まあ、それが恋だろ」
ーー恋。
理久は、すぐには答えなかった。
……恋、ね。
そんな可愛い感情なのか、これが。
あれほど当たり前だった自分の判断が、ひとつも通用しなくなった。
帰ると言われて、見送れなかった。
引き止めた後も、安心できなかった。
美月が自分をどう思っているのか、聞かずにはいられなかった。
しかも、あそこまで来て、彼女は好きと言わなかった。
……言ってくれればいいのに。
できれば、先に。
そこまで思ってしまう自分にも、呆れる。
……まったく。
「……そうだな」
理久は、ようやく言った。
「どうしようもないな」
桐谷は笑わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「いい顔するようになったな」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「信用できない」
「じゃあ、こう言い換える」
桐谷は缶コーヒーをひと口飲んだ。
「やっと困れたな」
理久は黙った。
かつて、桐谷に同じことを聞かれた。
いなくなったら困るか、と。
あの時は、質問が曖昧だと答えた。
何に困るのか。
仕事もできる。
食事もできる。
一人で生活することに、何の支障があるというのか。
そう考えていた。
けれど、今は違う。
綾瀬美月が帰ろうとした時、そんな理屈は何の役にも立たなかった。
あの頃の自分なら、きっと答えられなかった問い。
今なら、分かる。
「……困った」
理久がそう言うと、桐谷は小さく息を吐くように笑った。
「よかったな」
「普通、それをよかったって言う?」
「少なくとも、お前には言う」
理久は反論できなかった。
桐谷は、昔の自分を知っている。
恋人がいなくなっても、何も困らないと言っていた頃から。
だからこそ、今の自分を面白がっているのだろう。
……いや。
それだけでもないか。
理久は、手にした缶コーヒーを見下ろした。
「桐谷」
「何」
「面倒だな」
「恋が?」
理久は少しだけ考えた。
「自分が」
桐谷は一瞬黙った。
それから、声を出して笑った。
「そこまで分かれば上出来だろ」
「そう?」
「そう」
桐谷は笑いながら、もう一度缶コーヒーを口に運んだ。
「藤崎」
「何」
「今日、早く帰りそうだな」
理久は少しだけ眉を上げた。
「仕事が終わればね」
「終わらせるだろ」
「必要なら」
「誰に必要とされてるんだか」
理久は答えなかった。
桐谷も、それ以上は聞かなかった。
ただ、楽しそうに笑っている。
理久は缶コーヒーを手に、医局へ戻った。
仕事は、まだ残っている。
……早く終わらせよう。
理久が医局の前を通ると、桐谷が自販機の前に立っていた。
目が合う。
嫌な予感がした。
桐谷は缶コーヒーを取り出しながら、何でもないように言った。
「そういえば、家はどうなった?」
「家?」
「火事の」
理久は一瞬だけ黙った。
桐谷は缶のプルタブを開ける。
「さっき10Aで、綾瀬が無事マンションに戻ったって話になってたぞ」
「え?」
思わず声が出た。
……ああ。
病棟では、もう戻ったことになっているのか。
そりゃ、そうだろう。
修繕は終わった。部屋にも問題はない。
それなのに、まだ自分の家にいるなんて、簡単に説明できることじゃない。
桐谷がこちらを見る。
その顔は、完全に何かを拾った顔だった。
「……あれ?」
「何」
「いや。今の反応」
「普通でしょ」
「普通じゃないな」
理久は視線を外した。
桐谷が、少しだけ目を細める。
「……帰ってないのか?」
「帰ったよ」
「嘘が下手だな」
「嘘じゃない」
「じゃあ何」
理久は少しだけ黙った。
本当に、嘘ではない。
美月は、自分のマンションへ行った。
部屋を確認した。
荷物をまとめた。
玄関を出ようとした。
そこまでは事実だ。
理久は缶コーヒーを一本買い、取り出し口からそれを取った。
「……帰ろうとしてた」
桐谷が、口元だけで笑った。
「で?」
理久は缶を開けずに持ったまま、短く言った。
「引き止めた」
桐谷の眉が上がる。
「お」
「何」
「いや」
桐谷は、少しだけ理久を見た。
面白がっている顔ではある。
でも、それだけではない。
長年見てきた人間の、珍しい変化を見つけた顔だった。
「家に入れたのも驚いたけどな」
「うん」
「引き止めたのは、もっと驚いた」
理久は反論しなかった。
自分でもそう思う。
「昔のお前なら、帰しただろ」
「……だろうね」
帰りたいなら、帰ればいい。
部屋が直ったなら、帰るのが自然。
ここは避難先だったのだから、引き止める理由はない。
昔の自分なら、そう考えた。
そして、たぶん本当に帰した。
「それに」
桐谷は缶コーヒーを揺らした。
「お前、院内には手を出さないって決めてたんじゃなかったのか」
理久は少しだけ目を伏せた。
「決めてたよ」
「だよな」
「家に入れるつもりもなかった」
「そこも驚いてる」
「引き止めるつもりもなかった」
「そこが一番驚いてる」
理久は小さく笑った。
反論できなかった。
そうなるつもりはなかった。
本当に。
最初は、ただ困っている人を放っておけなかっただけだ。
雨に濡れていたから浴室を貸した。
火事で帰れなかったから部屋を貸した。
病院では、何もなかった顔をした。
線は引いているつもりだった。
院内の女性には手を出さない。
弱っている相手を、自分の都合で縛らない。
そう決めていた。
決めていたのに。
帰ろうとした美月を、引き止めた。
「理屈ではどうにもならないものもあるんだよ」
理久が言うと、桐谷は少しだけ笑った。
「お前の口からそれが出るとはな」
「俺もそう思う」
「まあ、それが恋だろ」
ーー恋。
理久は、すぐには答えなかった。
……恋、ね。
そんな可愛い感情なのか、これが。
あれほど当たり前だった自分の判断が、ひとつも通用しなくなった。
帰ると言われて、見送れなかった。
引き止めた後も、安心できなかった。
美月が自分をどう思っているのか、聞かずにはいられなかった。
しかも、あそこまで来て、彼女は好きと言わなかった。
……言ってくれればいいのに。
できれば、先に。
そこまで思ってしまう自分にも、呆れる。
……まったく。
「……そうだな」
理久は、ようやく言った。
「どうしようもないな」
桐谷は笑わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「いい顔するようになったな」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「信用できない」
「じゃあ、こう言い換える」
桐谷は缶コーヒーをひと口飲んだ。
「やっと困れたな」
理久は黙った。
かつて、桐谷に同じことを聞かれた。
いなくなったら困るか、と。
あの時は、質問が曖昧だと答えた。
何に困るのか。
仕事もできる。
食事もできる。
一人で生活することに、何の支障があるというのか。
そう考えていた。
けれど、今は違う。
綾瀬美月が帰ろうとした時、そんな理屈は何の役にも立たなかった。
あの頃の自分なら、きっと答えられなかった問い。
今なら、分かる。
「……困った」
理久がそう言うと、桐谷は小さく息を吐くように笑った。
「よかったな」
「普通、それをよかったって言う?」
「少なくとも、お前には言う」
理久は反論できなかった。
桐谷は、昔の自分を知っている。
恋人がいなくなっても、何も困らないと言っていた頃から。
だからこそ、今の自分を面白がっているのだろう。
……いや。
それだけでもないか。
理久は、手にした缶コーヒーを見下ろした。
「桐谷」
「何」
「面倒だな」
「恋が?」
理久は少しだけ考えた。
「自分が」
桐谷は一瞬黙った。
それから、声を出して笑った。
「そこまで分かれば上出来だろ」
「そう?」
「そう」
桐谷は笑いながら、もう一度缶コーヒーを口に運んだ。
「藤崎」
「何」
「今日、早く帰りそうだな」
理久は少しだけ眉を上げた。
「仕事が終わればね」
「終わらせるだろ」
「必要なら」
「誰に必要とされてるんだか」
理久は答えなかった。
桐谷も、それ以上は聞かなかった。
ただ、楽しそうに笑っている。
理久は缶コーヒーを手に、医局へ戻った。
仕事は、まだ残っている。
……早く終わらせよう。