結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
 夏帆はドアをそっと離れて、二階に上がった。自分の部屋のドアを開ける。もうほとんどの荷物は運び出して、持っていけなかった本やぬいぐるみや何も掛かってないハンガーラックだけがある部屋。明日持って行くトランクだけがシャンと背筋を伸ばすようにまっすぐ立っている。
 
 しゃがみこんでベッドに頭をこすりつける。このベッドは中学生のときに買ってもらった。それからずっとここにある。布団からは嗅ぎなれた匂いがした。洗剤なのか柔軟剤なのか、この匂いのもとはなんだったんだろう。この間運んだ、新しい布団はこんなにおいはしない。
 布団のシーツに涙が滲んでいく。

 お父さん。お母さん。

 夏帆にとって二人が世界で一番だったのは、何歳の頃までだったんだろう。お父さんとお母さんがいてくれれば、なにもいらなかった。世界は両親の向こう側にあって、恐いことも不安なこともなかった。

 本当は、縁側に座る両親の間に飛びこんでいきたかったけど、できなかった。二人とも泣くのを我慢して語り合ってることが、後ろ姿でもわかったから。

 いろんな衝動が体を巡っていくのを感じていると、放り出していた鞄の中で携帯が揺れた。のろのろと起き上がってディスプレイを見る。

「もしもし」
 鼻をすすりながら出ると、
「どうしたの?」
 さっき別れたばかりの声が、心配そうに尋ねてきた。ベッドにもたれかかって、目元を拭う。
「なんでもないよ。なにかあった?」 
 うん、と電話口で悠樹がためらう気配を見せる。ホテルにいるからだろうか、少し声が遠くに聞こえる。
「言い忘れてたことがあったなって思って」

 なに? と尋ねながら窓の外を見た。さっき見た満月が、隣の家の屋根にかかって見える。父と母も、縁側で同じ景色を見てるんだろうか。もうずっとずっと何年間もこの景色を見ていたのに、特別だったことに気がつくのはどうしてこんなにギリギリになってからなんだろう。

「教科書見して、とか言ったけど」
 教室でのやり取りを思い出して、うんと頷く。ふっと手元のネイルに目がいく。手元に咲く桜。今日一日いろいろあったな。ぼんやりと思った。

「でもやっぱ俺は、二十八歳の夏帆でよかったよ」
 爪の先を見ていた夏帆は、意識を電話にもどした。
「どうして?」
「夏帆が大人だから、追いつきたくて、俺がんばれるから」
「……悠樹」
「だからいいんだよ、俺たちはこれで」
 悠樹の言葉はいつも通りの断定口調だった。だけど夏帆は知ってる。迷ってないんじゃない。そう見えないようにしてくれてるんだ。

 ねぇ、お母さん。悠樹も不安なんだって。私と一緒だよ。

 これからどうなるの、なんて問いには誰も答えられない。
 だけど、幸せになろうとしてるその日々のなかに、私たちの幸せがある。

 ねぇ、お母さん。そうだね。いい人と巡り会えたよ。

 これからも不安が胸をよぎるときがあっても、それでも後悔しない。この夜にたしかにもどってこよう。
 恋が愛になった、この夜に。

 こみ上げた涙が、白い月を淡く滲ませて。

 桜の花のようだった。
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