愛罪



 僕は、無心だった。

 僕は、傀儡だった。

 脳に支配されていたのだ、この身体を。指先を。心を。



 だから、ただ、奏でた。

 フーガを無心で、ただ、奏でた。



 ピアノの前。ここに至った経緯は、霊園から戻った昨日、夕食後に瑠海が心底嬉しそうにショートケーキを食べるのを微笑ましく見つめて。

 一緒にお風呂に入り、彼女の遊びに付き合って少し長風呂をし、瑠海の長く細い髪をドライヤーで乾かしてあげて。

 そのときからドライヤーの熱でうとうとしていた彼女を寝かしつけて、薄暗い部屋で僕は一睡もせずに朝を迎えた。



 真依子のことを、考えていた。

 一晩中だ。

 一度たりとも他のことは考えず、手に取れない彼女の、まるで雲のように遠い場所に在する何かを必死で手繰り寄せようとした。



 僕は、一体何をしているのだろう。

 彼女のことを思えば思うほど虚しくて、頭がおかしくなりそうで、気がつけばピアノと向き合っていた。



 鍵盤の上を走る指先が自分のものではないような奇妙な感覚は、初めてだった。

 意識はあるのに、何かに固く縛られ、操られているような身体の違和感は、初めてだった。



「………ぅ、ん…」



 そのときだった。

 背後でシーツが擦れる軽やかな音がして、愛おしい声が僕に目覚めを知らせたのは。



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