結婚したいから!

一人目のお客様に関する報告

「きれー。来てよかったぁ」

紗彩と、いつもより混んでいる河原の土手に腰掛ける。すっかり日は沈んで夜になると、やっぱり少し冷える。

黒くうねる川面にも、ちらほら見える薄ピンク。少しは散り始めたようだ。

「桜、久しぶりに海空と一緒に見るね」

紗彩も、ようやく上を見上げて目を細める。川に乗り出すように枝を伸ばす桜の並木が、こちらの橋から、もうひとつ川下の橋まで、ずっと続いているのだ。

「紗彩の仕事が明日はお休みだなんて、いいタイミングだったなぁ」


「桜のこと?それとも、お見合いのこと?」


ペットボトルのお茶を一口飲んで、まっすぐこちらを見てくる紗彩は、やっぱり報告を待っていたらしい。メールでは、のらりくらりとかわしたつもりだったけど、かわし切れていない。

「桜のこと。お見合いの方は、そんなに進展ない」

早口でそれだけを言ってから、わたしもペットボトルの紅茶をごくりと飲んでみた。


「へえ、『そんなに』って、どんなふうに?」

…逃がしてくれるわけないか。紗彩だし。「ねえ、一緒にお花見しよ」


突然、聞き慣れない男の声が、耳元で響いて、びっくりした。

振り返ってみても、やっぱり見覚えのない人がにこっと笑っているだけだった。


「あたしたち、彼氏待ってるから」

さらりと言って、紗彩は電話をかけ始めた。

それを見て、わたしたちの後ろにしゃがんでいた男の人ふたり連れは、顔を見合わせると、もう何も言わずに行ってしまった。


「紗彩って、今、彼氏いたっけ」

小声で、まだしゃべり出さない紗彩に訊いてみると、思いっきり笑われた。

「いないって知ってるよね?ナンパ男を追い払う口実にきまってるでしょうが」


「へえ、あれ、ナンパなんだ」

「相変わらず、ぼんやりしてるね。まさか知り合いだったかな、なんて思ったんじゃないでしょうね」

…ちょっとそう思ってました。


「でも、これは、イメチェン、成功したってことかもねぇ」

そう言って、紗彩はわたしの髪にそっと触れる。

初めて、パーマをかけてみたのだ。風で揺れる髪の毛の束が、いつもと違う感触でわたしの頬や首に触れる。

高校を出てからはずっと、なんとなく、カラーリングで、少し髪の色を明るくはしていた。ときどきオレンジっぽくなったり、イエローっぽくなったり、言われないとわからないくらいの微妙な色の変化があるだけで、いつでもストレートのロングヘア。

馬鹿みたいだけど、髪の毛が長いだけで、なんだか早く結婚できそうな気がする。


おとといの月曜日、会社からの帰り際、理央さんに言われたのだ。

「海空ちゃん、今は、『女を磨く』ことも、お仕事だからね」

と。

女を磨く?


暗に、わたしが垢抜けないと言われたような気もしないではなかったけれど、手助けしてくれそうな親友に電話をかけてみた。

「じゃ、あたしの通ってるサロンに予約入れとくから、その変化のない退屈な髪形変えたら?あたしまだ仕事中だから、また予約が取れたら、時間をメールで知らせるから」

一方的に言いたいことを言って、紗彩はぷつっと電話を切ったのだ。「変化のない退屈な髪形」だと思っていたんだな、ずっと。もうっ。

緊張しながら訪れた紗彩御用達のサロンは、白を基調にしたシンプルな内装。

ちょっと肩の力が抜けたところで、現れた担当の美容師さんが、ピンク色のマッシュルームカット、というかなり個性的なヘアスタイルだったので、度肝を抜かれた。

紗彩は、ころころ髪形が変わるけど、今は肩につくかどうか、ってくらいの長さのストレート。でも、ミルクティーみたいなきれいな色だ。

特に奇抜な髪形をしたこともなかったと思うけど…、でも…。「ピンクさん」の髪形を見ると…。


…ちょっと、不安。


ロットに巻かれた髪に、ちゅるちゅると冷たいパーマ液をかけられている間、元彼が、「まっすぐで綺麗な髪だね」って言いながら、撫でてくれていたことを思い出していた。

「巻いてみよっか」って、ピンクさんに言われた時には、何にも考えずに「はい」って言ってたのに。

髪にうねりが生まれるのを待つ間、どうしても、元彼の仕草が頭から離れなくて、まだわたしの魂は粉々のままだったんだな、って認識せざるを得なかった。


気持ちを切り替えて、今度こそは結婚につながるいい恋をしようと思って、理央さんに電話をかけた。それから、転職を持ちかけられたり、結城さんを紹介されたり、なんだか忙しくて、上手に元彼のことを忘れられたと思っていたけど、そうでもなかったみたい。

何かきっかけがあると、こうして思い出している。

たとえば、近所のコンビニで、元彼がよく飲んでいた飲み物のパッケージが視界に入ったとき。

地下鉄の運賃表を見上げて、元彼の職場の最寄り駅を見つけたとき。

乏しい冷蔵庫の食材を見て、何も作れそうにないなって諦めたら、「大丈夫。俺が作るよ」って、後ろから声をかけられそうな気がするとき。

朝日がさす自分の部屋で目が覚めたとき、また「おはよう」って、抱きしめてくれるんじゃないかって妄想するとき。

そんなに長い付き合いでもなかったのに、生活のいろんな場所や時間に、元彼が存在していた証拠が散らばっているみたい。

「俺が悪い。ごめんな、別れよう」


って、言われただけだった。最後の時さえ。

どんな悪いことをしたのか、わたしと別れたらそれが償えるのか、一切わからなかった。


でも、嫌だとは言えなかった。


どんな理由があっても、別れたいと思われたら、それでわたしの恋は終わる。

毎回振られて終わるのだけれど、別れたくないって泣いてすがったりしたことはない。それまでどんなに仲良くしてたって、真面目に別れようと言われるくらいに、疎ましがられてまで、そばにいたいとは思えないから。


たぶん、他に好きな人ができたんだろうな。

付き合っている間に見聞きした元彼のちょっとした言動を、手がかりに、わたしが勝手にそう推測するだけだった。
「時間がかかったねぇ」


そう言われて、はっと鏡を見ると、わたしの髪は、ふわふわと波打って、肩の後ろに消えていた。それを認識した瞬間、元彼のことはぱっと消えてしまった。

「わあ、ふわふわですね」

なんだか、わたしじゃないみたい。


私の後ろに立つピンクさんも、にこにこしているので、つられて笑う。あ、いつものぼんやりした表情が消えてる、わたし。


そういえば、高校を卒業してすぐに髪を染めたときも、こんなふうにうきうきしたっけ。

嬉しくて、恥ずかしくて、くすぐったくて。

おしゃれをするって、楽しいんだよね。社会人になってから、その単純な気持ちもすっかり忘れてたみたい。
「顔もいじっていい?紗彩ちゃんに、好きにしていいって言われてるんだぁ」

「整形が必要ですか…」

わたしがつぶやくと、ピンクさんはぷっと吹き出して、「メイクよ、メイクぅ」と言った。

甘ったるく伸ばされる語尾にも、なんだか慣れてきた。心配していた髪形も、ちゃんとわたしに似合うように考えてくれたみたい。


なので、今度は信頼して、「はい、お願いします」と言えた。

わくわくして、鏡を見ていたのも、ベースメイクが終わるところまで。もちろん、ただファンデーションを顔全体に広げるだけなのに、なんだか肌のきめが細かく見えることには驚いた。

それから、ピンクさんはわたしの目元をあれこれ「いじって」いるらしいけれど、目を伏せろとの指示があったり、そうでなくても目の前にはピンクさんのばっちりメイク顔が迫っていて、鏡は一切見えなかった。

ふわっ、ふわっ、と大きなブラシで、頬に軽くチークを入れて、唇に色を2色重ねると、もう完成だったらしい。
「はい、できあがりぃ~」

ピンクさんがようやくわたしの背後に立って、肩をぽんと叩いた。

「ひゃぁ…」

変な呼吸が漏れて、しばらく黙りこんでしまった。

「わ、わたしなのにわたしじゃないみたい!」

ピンクさんが楽しげにくふふと笑う。

な、なんだろう。この印象の違い。わたしだって、すっぴんでここに来たわけじゃないのに。

わたしの顔は、良くも悪くも平凡。

目は二重だけど大きくもないし、鼻は高くも低くもないし、口も大きくも小さくもない。あんまり印象に残らない顔だと思う、我ながら。


それなのに、いつもより、表情がはっきりする目元。わずかに血色のいい頬。艶のせいかふっくらして見える唇。

パーツ毎の変化もさることながら、全体をぱっと見たときに、「元からこんな顔です」って見えることに一番びっくりした。「ありがとうございました!」

店員であるピンクさん以上に、感謝して、サロンを後にしてから、まだ1時間も経っていないはずだ。



「大丈夫?変じゃない?なんかまだすごく恥ずかしいんだけど」

紗彩に訊いてみるけれど、彼女は「ううん、いいよ」って、短いけど迷いなく答えてくれた。

「ね、たくさん人がいると落ち着かないし、どこかお店に入って晩ごはん食べようか」

そう言って、紗彩がわたしを連れて行ったのは、もんじゃ焼きのお店。さすが、営業職。守備範囲が広いな。



「紗彩って、なんでもできるんだね」

ため息も出ない。

刻まれた野菜をまあるく輪にして鉄板に乗せ、真ん中に開いた穴にたねを流し込み、手際良く焼いて行く紗彩の指は、ほっそりして長く、爪は上品なベージュをベースにしたフレンチネイルを施してある。

「そう?そんなこと思ったこともないけど」

謙遜でもなさそうにけろりと言う。
「うわぁ、おいしーい」

ずいぶん前に食べたもんじゃ焼きとは、味が全然違う気がするのは、お店のせいか、紗彩のせいか…。うーん、幸せ。


「で、お見合いどうだったのよ」

あ、やっぱり忘れてなかったんだ。


「うん…。うーん、なんかねぇ、2回ごはん食べたんだけど。まだ、『お見合い』みたいなの。お互いのことが全然わかってない状態、って感じなのに、なぜかキスされた」

紗彩が相手だから、一息に、今感じてるままを言えた。

「あれ?もっと時間をかけるんじゃなかったっけ?」

「…だよねぇ。あ、でも、そう言ってみたよ。それからは、迫られたりも、全然ないんだけど。いろいろ思い返してみると、わたしが警戒しているだけじゃなくて、実はあっちも気を許してないような気がしてきたんだ…」

「ふうん」

そこで、紗彩は少しの間、わたしを見つめた。


「ま、しっくりこないなら、規定通りあと1回会ってさよならでもいいんじゃない」

おお、やっぱりあっさりきっぱりさっぱりしてるな、紗彩。

でもでも、そういえば、そうだ。その手がある。
「そのさ、相手がどうとか、海空の気持ちとか、じゃなくて。どうなの、恋を仕事にするって感じは」

どうやら、紗彩の本題はそこだったらしい。


「仕事で恋をする、って人は多いけど、恋を仕事にするって人、初めて聞いたし。興味あるな」

「うん。まだ、はじめたばかりだからよくわからないけど」

少し考えをまとめてみる。


「なんか、認識が甘かったような気だけはする」


会社での、理央さんの態度や発言。わたし自身の戸惑い。不自由を感じるほどじゃないけど、微妙に、影響がある。

「そか。まあね。恋愛を楽しむだけでお金がもらえて、結婚一直線、なんておいしすぎるよね」

「……」

はい。おっしゃるとおりです。


「せいぜい女を磨いて、ちょっとでも会社の売り上げに貢献するんだね。あれ?あたしの営業とあんまり違わないじゃん」

「ええ?」


「雑誌に広告載せませんか、ってただ営業かけるにしても、多少は身なりに気を使ってる女の方が、契約取りやすい気がしない?

常連のお客さんになったら、接待することもあるし、こっちの営業とあっちの広報担当が気が合えば、お付き合いは長くなるし。はは、なんか似てるよ」

「たしかに、前の事務の仕事より近いかも…」


営業かぁ…、わたしには向いてないような気がするな。

…ってことは、恋愛にも不向きってこと…?
ぼんやり外を眺めていたら、ぽつぽつ雨が降ってきた。

あれ、天気予報ではにわか雨が降るなんて言ってなかったのにな。


「あっ」


慌てて折りたたみ傘を開いたり、小走りで先を急いだりする人たちの中で、見覚えのある人を見つけた。

「なによ」

「あの人なの…。この前お見合いした人。結城さんっていうんだけど」


このもんじゃ焼きのお店の向かい側にあるカフェの軒下に、雨宿りしに入った彼は、たしかに、結城晃一さんだった。

この店は2階にあるから、安心して見下ろしていると、空模様を見ようと彼が顔をあげたので、あわてて窓の下に隠れた。


「なにやってんのよ。変な子。あの人のこと、やっぱり嫌いなの?」

「いや、嫌いって言うか、苦手って言うか。ああ、そうだ、なんか会う覚悟ができてなかったっていう感じだよ」

テーブルに顔を伏せながら答える。

「思ったよりいい男じゃん。好みじゃないんだ?あんた、もっと優しそうなのが好きだもんね」


へえ、そうだったんだ。

あんまり自分の好みとか、意識したことがなくて、紗彩に言われたから初めて気がつく始末。
「お、電話してるよ。あ、どこか行くみたい」

鞄を持って、伝票も掴む紗彩。

「え?どうしたの?」


「ついて行くに決まってるでしょ!」


「えええっ!?なんで!?」

「おもしろそう。ほら、早くしな。置いて行くよ」

「はああっ!?」

紗彩は、いまだに体勢を低くしている私に無理矢理鞄を持たせると、さっさとレジに行ってしまった。


「なんか、わたし、悪いことしてるみたいじゃない?」

電柱の影が居心地悪くて、あたりをきょろきょろ見てしまう。面識のない紗彩は堂々と立って、結城さんが消えていくお店の扉を見ているらしい。

「あんたが相手も気を許してないって言ってたんでしょ。普段の彼がどんな様子かちょっと見るだけよ」

そんなことを口では言いながら、きらきらと目を輝かせている紗彩は、自分が楽しんでいるようにしか見えなかった。


「クラブblackだって。どんなお店なのかなぁ」

ここで待機しよ、と紗彩に押し込まれて、ななめ向かいの建物の2階にある、小さなバーに入った。「クラブblackって、どういうお店なんですか?」

オーダーを取りに来た店員のお兄さんに、紗彩は訊ねた。

「ああ、向かいにある店ですね。このあたりでは一番の高級クラブで、弁護士さんとか、社長さんとか、大学教授とか、偉い人たちがよく来るみたいですよ」

紗彩が「ありがとう」と微笑むと、気のせいではなくはっきりと、店員さんは頬を赤らめた。


が、紗彩は気にも留めずに、わたしの方に向き直るのだった。

「お金持ちなんだ?」

「たぶん。理央さんからは、なんかの会社の、次期社長だって聞いた気がする」

ふうん、と言うと、それからは、短大時代の共通の友人のことや、紗彩の仕事の話をしていた。


「ね、もうわたし、お腹一杯だし、酔っ払いそう。帰りたい」

たぶん、1時間は経っただろう。そう訴えてみると、紗彩は心底残念そうに「仕方ないなぁ」と言いながら、席を立った。

お店のある建物を出ると、はあ、とため息が出た。

よかった、これで帰れる。雨も小雨で、気にならないくらいになったし。

いや、なにより、誰かの行動をこっそり見るなんて、やっぱり後ろめたかった。「タイミングいいね…」

前を見ながら、紗彩は不敵な笑みを浮かべた。

嫌な予感。


クラブblackの前には、数人のスーツ姿の男性の姿。きらびやかなドレスや着物をまとった女性が頭を下げて、彼らを見送っているところだった。

たぶん、あの中に結城さんがいるんだ。

慌てて俯いて、地面を見ると、「挙動不審」と耳元で囁いた紗彩に小突かれた。


「あたしたち、たまたま今あのバーから出てきただけでしょう。たとえ、見つかったとしても、堂々とこんばんは、って笑えばいいじゃない」

紗彩って大物。わたしにできるかな…。

いや、無理。絶対怪しまれる。

びくびくしているのはわたしだけで、紗彩はゆったりとした落ち着いた足取りで、程よい距離を保ちながら、結城さんを含む集団の後をついて行く。

何かを話しながら歩く彼らは、後ろを振り返ることもない。
駅に向かって歩いて行く間に、彼らも少しずつばらけていく。別のお店に消えていく人、地下鉄の駅の入口に吸い込まれる人。


「お、曲がった。でも駅の方向だもんね~、あたしたちも電車に乗るんだもんね♪」

歌うように機嫌よく呟きながら、紗彩は歩いて行く。カツカツいうヒールの音が、結城さんの耳にまで届かないかしらとひやひやする。

周りはまだ人通りも多くてがやがやしてるから、聞こえないはずなのに。


「いない」


紗彩がそう言ってきょろきょろし出したので、安心して、わたしはようやく顔を上げることができた。

変ね、なんて紗彩はぶつぶつ言っているけど、わたしは安堵のため息を吐いた。


「俺、煙草吸いたかっただけなんだけど」
聞き覚えのある声がかすかに聞こえてきて、わたしは反射的にその方向を見やった。

お店でにぎわう通りの中、ぽっかりと薄暗い空間ができている。小さな公園だった。


「みっけ」


紗彩が、ごく小さな声で囁く。

手前の端のベンチに、腰掛けているスーツ姿の男の人が、結城さんなのだろう。こちらに背を向けているから、顔は見えない。

隣に、まだ誰かいる。綺麗に髪を結いあげた女の人だ。


「そうなの?もうちょっと後で吸えば?」

ゆっくりと白い指を、煙草をはさんだ結城さんの手首に絡ませていく彼女が、横顔を見せた。暗闇にぼんやり浮かぶような白い顔は、美しかった。

でも、かわいいっていうより、危険な香りのする美女って感じで、雪女が現代風に装ってるような印象だ。


彼女は、結城さんのネクタイを引っ張ると、彼の膝に向かい合って座ってしまい、わたしと紗彩は無言で互いの顔を見合わせた。


「うわぁ」


紗彩が呟くのも無理はない。雪女さんがもう片方の手を結城さんの首にまわすと、キスし始めたのだから。

わたしの頭の中も、「うわぁ」しかなかった。が、見ているこちら側のふたりより、雪女さんには余裕があったらしく、薄く目を開いた彼女の焦点が、しっかりこちらに合ったことがわかった。

ゆっくりと体を起こすと、彼女は目を離さずに言った。

「綺麗な子ね。晃一さんのお知り合い?」

うわ。はっと我に返って、わたしは慌てて紗彩の影に隠れたけれど。

雪女さんは、明らかに紗彩しか見ていなかった。


「いや、…あぁ?」


振り向きざま、紗彩を見た結城さんは、すぐに否定の言葉を出したけれど、後ろにいるわたしを見つけたらしく、微妙な返事になった。


「この前お見合いした子だ。すぐにはわからなかった。…似合うよ」

は、はあ。

なんて返事をしたらいいのかわからない。美女を膝に乗せたままの結城さんは、全く動揺していない。

あ、眼鏡してないんだ、って、どうでもいいことだけしっかり気がつく。


え、なにこれ、どういう状況?なんでわたし慌ててるんだろう?


「えっと…、あ、こんばんは。はじめまして。九条海空です」

ぺこりと頭を下げると、さらさらとした声で、楽しそうに雪女さんが笑う。

「はじめまして。まあ、おっとりしたお嬢様ってわけね。女子高育ちだったっけ」

今度こそ、しっかり彼女の視線はわたしに向かっていて、わたしはちょっと首をかしげてしまった。

姓のせいか、ときどき勘違いされる。わたしは庶民ですけど、と言ったけれど、聞こえなかったみたい。
「彼女さんですか?」


結城さんと雪女さんを見ながら、どちらにともなく訊ねると、紗彩の表情がかちんと固まったのが、視界の端でも確認できた。

あれ?

ふたりからくすくすともれる笑い声。ようやく雪女さんが結城さんの膝から下りて、少し髪を整えた。


「僕の彼女なら、君じゃないの?お見合いしたし」

今度はまっすぐわたしを見つめながら、結城さんが答えた。

眼鏡がないせいで、いつもより表情がはっきり読み取れる。まだ少し笑みが残っているみたい。


「あたしみたいなお水の女はね、彼のご両親に気に入られないわよ、お嬢様」

さっきのクラブでお仕事してるってことなのかな。綺麗にお化粧して、綺麗なドレスを着てるのは、仕事着なんだ。


それにしても、どうしてわたしがお嬢様だという話になっているんだろう。

やっぱりその点が気になって、もう一度わたしが口を開こうとしたときだった。
「海空が女子高と女子大に進んだのは、特待生で入れる学校を選んだだけのことよ。おっとりして見えるのなんて、うわべだけ。芯の強い子なんだからね。あなたが気に入られないのは、お水やってるせいじゃないでしょ。その性格なんとかしない限り無理」

黙っていた紗彩が、一気にまくしたてた。

雪女さん、フリーズ。


「それから、あなたも、もう海空に会わないで。あたしの親友は、女癖の悪い男にはもったいない、一途な子だから」

おっと、結城さんにまで火を吹いてしまった紗彩怪獣。


何かフォローした方がいい?


「いや、えっと、たぶん、ちゃんと好き合ってる人同士で結婚なさった方がいいと思います!その…お幸せに?」


今度こそ紗彩は「馬鹿!」とののしりながら、駅に向かってわたしを引きずって行った。


「ええ!?初対面の人にあんなこと言う紗彩の方が馬鹿だもん」
「なにが『お幸せに』よ、頭ん中ちょうちょでも飛んでんの?おめでたい子だね」
「なっ、わ、わたしなりにねっ…」
「あ~、うるさいうるさい、さ、とにかく歩け!」

もうすでに、お酒を飲んでいたせいもあって、なんだか妙にテンションが上がったまま、わたしたちはとりあえず電車に乗ったのだった。萩原コンサルティングサービス。いつ見ても、ドラマに出てきそうなガラス張りのビルを前にすると、少し緊張する。

一応、わたしはここで週に1度、月曜日だけ、事務の仕事を手伝っていることになっている。


今日はその月曜日。

先週、理央さんに言われてから、美容院にも行った。会おうと思ってたわけじゃないけど、結城さんにも会った。


よし、とりあえず務めは果たしている。

自分に言い聞かせて、乗ったエレベーターは、滑らかに指示したフロアまで、わたしを運んでくれる。


なのに、緊張は消えない。

「あ、海空ちゃん、待ってたよ」

珍しくわたしより先に相談用のブースに入っていた、理央さん。ドアを開けてすぐその姿を確認すると、ちょっと冷や汗が出た気がする。


「お、九条さん」

大声でもないのによく響く、心地のいい声だと思ったら、部長さんだった。そう、この仕事を引き受けることになったときに、話し合いの場にいた人。

「おつかれさまです。お邪魔してます」

頭を下げると、にこっと愛想よく笑ってくれる。

…なんか、あったかくて、お兄さんみたいな人だなぁ。この前は、黙って真面目な顔で、理央さんが作った資料を見ているばかりだったから、こうして向かい合うと、印象が少し違う。

細身で、モデルさんのような小綺麗な雰囲気だけど、中身は素朴な人なのかも。


「おつかれさま。せっかくだから、今日は俺も同席しようかな」ええっ。冷や汗、ほんとに出てきたよ…。

仕方がないので、席につく。部長と理央さんもそれぞれの席に座る。

「いいじゃない、髪形変えたの、似合ってる。なんていうか、海空ちゃんの雰囲気に合う気がする」

理央さんが褒めてくれる言葉も耳に入らない。


「九条さん、どうかしたの」

気がついて、部長さんが優しい声で訊いてくれる。


どうせ、ごまかせることでもない。言いにくいことは、先に言ってしまおう!そう決意して、切り出した。

「あの、結城さんから何か連絡はありませんでしたか?」

そう。わたしがいつも以上に緊張して社屋に入ったのは、それが気になっていたからだ。


先週の水曜日、紗彩と夜桜を見た後、結城さんに会ったこと。その日は紗彩とあのままあれこれ言い争いながら家に帰り、ぐっすり眠ってしまったからよかった。

翌日になって、いろいろと思い返してみると、「まずかったかな」っていう気持ちが芽生えてきて。
確かに、わたしとお見合いをしたばかりで、別の女の人にキスされてる結城さんもどうかと思う。

でもまあ、わたしたちはまだ、お互いに手探りの状態で、ちゃんとした彼氏と彼女の仲でもなかった。

だけど、わたしはなりゆきとはいえ、こっそり彼の後をつけて、親友とともになんだか変な啖呵を切って、そのまま帰ってしまった。ちょっとほろ酔いの状態で…。


早いうちに、わたしから結城さんに謝った方がいいような気もした。

でも、なんで?それに、なんて言うの?


考えたら、このままフェードアウトしたほうがいいくらいの気がした。結城さんにも、わたしにも、結婚する意思はないのだから。

ただ、本当にフェードアウトすることはできない。


そう、わたし、今はこれがお仕事なんだった!紗彩の言うように、営業に例えるなら、わたしは大口の契約が取れる可能性のある会社の、広報担当の結城さんとお仕事をしている営業職の社員なのだ。

もし、契約が取れなかったのなら、それなりの理由を会社の上司に報告する義務がある。

それは、まずは理央さんであり、そのまた上にいるのは、たまたま居合わせたこの部長さんだ。

契約が取れない、すなわち、わたしの場合は、お付き合いできない、という報告をするのは、気が重い。それも、ただの仕事じゃなくて、本来なら完全にプライベートな域にある恋愛の話を、包み隠さず話すことになるのだから。


結局、わたしから結城さんに連絡をすることはなかった。

そして、どういうわけか、結城さんからわたしに連絡が来ることもなかった。文句とか、ないんだろうか。


「結城さんから?何にも連絡ないけど、何かあったの?」

理央さんが、そう言った。連絡、ないのかぁ…。結城さんから、話があったら、わたしが説明しなくても済んだのにな、なんて思ってしまう。

「はぁ、あの、言いにくいんですが…、もう、結城さんとはお付き合いできないんです。ご、ごめんなさい」

よし、なんとか言えた。言うだけは、言えた。

もう、付き合えないし、付き合いたくない。「説明してくれる?」

部長さんにもうながされて、先週の水曜日のことを、話した。


「それなら、仕方がないね。『契約解除』でいいんじゃないか」

部長さんが、あっさりとそう言って、隣で理央さんも頷いた。

ほっ。よかった、これで本当に一安心。後は理央さんがうまく話を進めてくれるはず。


「そうですね。3回会ってるし、相手が浮気してたってことで」


え?わたし、浮気されてたことになるんだ?


なんだかドラマティックに聞こえて、一瞬、他人事のようにどきどきしたけど、元彼に本当に浮気されてたらしいことを思い出すと、そのどきどきもさっぱり消えた。


懲りないなあ、わたし。


ちゃんと、わたしだけを大事にしてくれる人に、早く会いたい。
< 5 / 73 >

この作品をシェア

pagetop