晴れた空、花がほころぶように
17 私の美しい音楽
 神社の石段の前まで、私は走った。
 そこで、呼吸を整える。
 でも、呼吸を整えていたら、真正面から空良と向き合うのが、急に怖くなった。
 なので、私は来た道を戻り、一度家から向かったことのある神社の裏のほうに回った。
 回り道だったが、心は落ち着いてきた。

 怖くないって、言わなきゃ。

 それが、私の中で大きくなっていった。
 静かに不規則な幅の階段を登ると、もう神社の脇だった。
 足音を立てないように静かに正面へ近づく。
 階が見えてくる。
「――」
 私は、それ以上動けなかった。
 階に、膝を抱えて座り込む、空良の姿が見えたから。
 身体を丸めて、空良はずっと正面を見据えていた。
 石段を上ってくる私を、待っている。

 空良はそうしてずっと、私を待つのだろうか。
 膝を抱えて、まるで捨てられた飼い犬が主人を待つようにじっと。

「――」
 もう気持ちを隠せない。
 溢れてくるこの想いを、抑えておけない。

 空良が――好きだ。

 離れていてわかった。
 どんなに私と彼の世界が遠くても、一緒にいたい。
 声を聞きたい。
 私が知らない顔をいくつもっていてもいい。
 私といる時の空良は、私だけのものだから。
 靴が石畳を踏む音をたてるのを、私はあえて気にしなかった。
 空良が顔をあげてこちらを見た。
 私は、思わず足を止めた。
 弾かれたように立ち上がって、空良が走ってくる。
 でも、触れれば届く距離まで来た時、彼はそれ以上近づくのをやめた。
 それ以上近づいたら、私が逃げると思っている。
 違うのに。
 彼はまだ怖がっている。
 そんな必要ないのに。

 私が離れていくのが、そんなに怖いの?
 私は、どこにも行かないのに。

 そう思ったら、嬉しいのに、腹が立った。
 彼の腕を掴むと、神社の正面に向かって歩き出す。
「――」
 彼は黙ってついてくる。
「座って」
 言われて、彼が階に座った。
 私もその隣に座る。
 いつものように。
 静かだった。
 木陰が揺れて、時折鳥のさえずりが聞こえて、それ以外、何もない。
 私と、空良だけの世界。
 それだけで、こんなに嬉しいのに。
 こんなに美しいのに。
 どうしてこんなに彼を怖がらせたまま、待たせてしまったのだろう。
 空良ではなく、自分に腹が立ったのだ。
「ごめんね、空良」
 言ってから、私は空良を見た。
 無表情な空良の、瞳は脅えていた。
「私、怖かったんじゃないの。怖くないって言ったのに、空良がそれを信じてないって思って、それが、悲しかったの」
 そう言われて、空良のほうが驚いた顔をした。
「――怖く、なかったのか? 俺、東堂を殴って脅したのに?」
「怖くなかった。ただ、びっくりしただけ。でも、空良は信じてなかった。だから、泣いたの。嫌だった。信じてないのに、怖くないなら逃げるなって、交換条件みたいに、気持ちのないキスしたから」
「――」
 空良は。
 安堵したように、ようやく微笑った。




 空良は、彼を見つめる私の両手をそっととった。
「ごめん」
 そうして小さく謝った。
「でも、気持ちのないキスを、したわけじゃない。俺、花音とキスしたかったんだ。すごく、そうしたかったんだ」
 少し下を向いてそう言う彼が、嬉しかった。
「花音、キスしたことあった? 俺とする前」
 私はあわてて首を横に振る。
「そうだよな、普通、俺達ぐらいだよな、初めてキスしたりすんの」
 彼の手が、私の手を少しつよく握った。
「でも、俺初めてじゃない。キスすんのも、セックスすんのも」
 その言葉の意味を理解したとき、心臓が痛くなった。
 そんなこと、聞きたくなかった。
「ごめん、変なこと言い出して。でも、ホントなんだ。花音といると、俺、自分がホント汚い奴なんだって思うけど、でも、花音なら、俺のこと信じてわかってくれるから、隠してたくないんだ。全部話して、それでも俺のこと嫌じゃなければ、一緒にいて欲しい」
「……嫌になったら、どうするの?」
「その時は、離れていい。もう、ここにも来なくていい。俺も待たない」
 簡単に、彼は言った。

 そうして、私を切り捨ててしまえるの?
 そんなこと、出来るはずないくせに。

 こんな時なのに、私は嫉妬していた。
 空良と初めてキスした人に。
 こんな感情があることも、今まで知らなかった。
 空良は、私の心を揺さぶる人だ。
 良くも、悪くも。
 そんな空良を簡単に切り捨てられないのに、空良にはそれがわからないのだろうか。
 一緒にいて欲しいと言いながら、簡単に離れていいとも言える彼を理解したかった。
「じゃあ、話して。私の気持ち、そんなに簡単に変わらないから。何を聞いても、空良のこと、嫌になったりしない」
 繋いだ手を、私は強く握りかえした。
 空良は、少し訝しげに私を見て、それから、私が握った手を、見た。
 私は待った。
 美園先生や空良が、待ってくれたように。
「――」
 空良は、息を吸って、吐いてを何度か繰り返して、話し出した。
「――俺の初めての相手、親父の再婚相手だったんだ」
 私は驚いて、彼の顔を見つめた。
「それも、無理矢理。笑っちゃうよな、俺、無理矢理、相手させられたんだ。こういうのも、レイプされたって言うのかな」
 わざと何でもないことのように、彼は言った。
「本当は、すごくヤだったんだ。でも、そんとき、俺まだ小五で、まだ何にも知らなくて、逆らえなくて、ただ恐くて――」
その時のことを思い出したせいか、彼の手は、冷たくなっていた。
 顔色も、どこか青ざめていた。
 私がそっと握り返すと、彼は私に視線を戻して、そっと息をついた。
「何度目だったかな。親父に見つかったんだ。しかも、やってる最中に。
 俺は、正直ほっとした。親父が助けてくれるって。もうこんなことしなくていいんだって、そう思った」
 空良は、遠い目をしていた。
 私には近づけない、寂しい目を。
「――でも、親父は、俺をまるで腐ったゴミを見るみたいな風に罵った。俺がたぶらかしたんだろうって怒鳴った。そん時、初めて親父に殴られた。初めてで、ろくに抵抗も出来なかった。鏡見た時はびっくりした。人間の顔って、こんなに晴れ上がるもんなんだって。
 その後は、親父は離婚して、ここに引っ越して、女を連れ込むのは週末だけになって、殴られるのにも慣れた。殴られてるほうがましだ。酔って帰ってきたときだけだし――」
 そのまま、しばらく空良は俯いたま動かなかった。
 それでも、全部話し終えたせいか、空良の手は少しだけ温もりを取り戻していた。
「俺のこと、軽蔑する?」
 言葉が出なくて、私は慌てて首を横に振った。
「よかった。抱きしめても、平気?」
 私は頷く。
 壊れ物を扱うように、空良は私を抱きしめた。
 身体は、震えていた。
 鼓動は、私より速かった。
 彼は、あの時のように私の反応に怯えていた。
 拒絶を、恐れていたのだ。
 助けてくれると思っていたお父さんから受けた暴力が、彼を臆病にした。
 だからこそ、誰にも期待せず、誰とも関わらず、壊れそうなほどもろい自分の世界を護っていた。
 たった一人で。
 涙が、溢れた。

「好き」

 思わず口にしていた。
「空良が、すごく好き。大好き。軽蔑なんてしない。嫌になったりしない。ずっと一緒にいる。だって、私のことわかってくれるのも、あなただけだから」
 抱きしめる腕が強く、哀しかった。
 それでも。

「俺も、花音が好きだ――」

 その言葉に。
 その声に。

 心が、震える。

 あなたは私を響かせる、美しい音。
 私は私の音楽を、ようやく見つけたのだ。




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