自分を嫌っている男(ひと)と一緒に仕事をしなければならないというのは、正直不本意だ。
でも幸い、プロジェクト通訳は、今のところは週に一度、数時間だけでいい。
何より、ここで「やっぱり辞めます」と辞退すれば、紹介してくれた金崎さんのメンツもつぶれる。

「ほら見ろ」とあざ笑う、相性最悪男・野田さんの顔と、低い声までもが、鮮明に脳裏に浮かんでしまった私は、それを締め出すようにブンブンと顔を小さくふった。

「小さく」というのも、ただいま私は満員電車の中で、すし詰め状態になっていて、動こうにも動けないのを体験中・・・。
朝のラッシュなんて経験したの、何年ぶりだろ・・・あ、降りなきゃ!

もみくちゃ状態でどうにか降りることができた私は、プラットフォームで盛大にホッと一息ついた。

あーああ、服もしわくちゃになってる気がする。
セットした巻き髪だってグチャグチャじゃない?
でも・・・今はどうでもいい。

私は一気に年取った気分で、ヨタヨタと歩き出した。



・・・そう。金崎さんのこともある。
あの人に罪はない。
それに、「この人意地悪だから辞めます」って言うの、まさに子どもじゃない?
それこそ野田さんの思う壺、みたいな・・・。

「それ悔しい!」

と思わず叫びそうになった私は、ハッと周りを見回した。
・・・誰も私に気づいてない。よかった。

そのとき、朝のラッシュでもみくちゃにされた疲れがドッと出たのか。
そびえ建つ立派な自社ビルを仰ぎ見た私の体がグラリと揺れた。

あぁ私・・・朝弱いからなぁ。

予定まで時間は十分あったので、私はビルの外玄関にある石垣に、へなへなと座り込んだ。

金崎さんのこともあるけど、預金残高が3桁に近い4桁になってしまった現実問題として、この仕事を蹴るわけにはいかない。
特に、プロジェクト通訳の報酬額は、他の仕事より断然上だ。
この仕事で得た報酬と、他の仕事の報酬で、とりあえず今月の家賃を払わなきゃ。
たとえ野田さんに嫌味言われても、つっかかられても、今はこの仕事をあてにしないと・・・。

「おい」
「わっ!?」

いきなり声をかけられた上に、肩をポンと叩かれた私は、ビックリして顔を上げた。

・・・やっぱりこの低音ボイスは野田さんだったか・・・。
この人のこと考えてる時に、本人に、外で、朝一に会うなんて。
しかもフラフラしている状態で。
せめて野田さんとはもう少し後で、かつ必要最小限に顔合わせたかったんだけどなぁ。

「・・・おまえ、こんなところで何ヘタってんだよ」
「座るところなかったから、ってわっ!!」
「休むなら社内で休め。おまえの高級なブランド服が土で汚れるぞ」
「座る前に確認しました」

と言い合いながら、野田さんに腕を掴まれている私は、そのまま引っ張られるようにビル内へと連れて行かれた。


受付嬢が私への訪問証を発行してくれてる間も、野田さんは掴んでいる腕を離そうとしない。
だからなのか、他の受付嬢たちや、出勤してきた社員さんたちからの好奇の視線を、なんとなーく感じるんだけど・・・。

「お待たせしました」
「ありがと。ほら、これつけろ」
「はい、ってちょっと!」
「持ってやる。行くぞ」

野田さんは、私が訪問証をつけたことも確認しない代わりに、私のバッグを奪うように持つと、またスタスタ歩き出した。
まだ腕を掴まれてる私も、当然彼の歩調に合わせてスタスタ歩く。

エレベーターを待つ間も、野田さんは腕を離そうとしなかった。
痛くはないんだけど、やっぱり周囲からの視線を感じるのよね。
でも私じゃなくて、野田さんを見ている人が圧倒的に多いはず。
背が高くて、ハンサムで、スーツをビシッと着こなしている男(野田さん)が、明らかに女性ものだと分かる私のブランドバッグを持ってエレベーターを待つ姿、というのは、意外と似合ってるっていうか、絵になるというか・・・。

この人がホントに芸能人とかモデルだったら、この場で写メ撮っちゃう!って、女子社員たちは思ってるんじゃないかな。

でも当の本人は、全然無頓着。
視線を感じてもいないのだろうか。
と思っているうちに、エレベーターが来てくれた。

エレベーターに乗ったら、やっと野田さんは腕を離してくれたけど、ほぼ満員状態になってしまったからなのか、今度は後ろから抱きしめられ状態になってしまった!

「ちょ・・」
「いいからこのまま。その代わり、ここで倒れんじゃねえぞ」と耳元で囁やかれた私は、彼の低い声に、鳩尾をズンと反応させながら、コクンと頷いた。

電車よりも狭い密室で、しかも人がいっぱいいる状態は、元々悪かった私の具合を、もっと悪くさせている。
だから野田さんに支えてもらっているのは、正直ありがたかった。
じゃないと、ホントに倒れてしまうところだ。


ほんの少しこの拷問的な状態をガマンしていると、私たちが降りる階に着いたみたいだ。
野田さんは、「すいませーん、俺たちおりまーす」とのんきな声で言いながら、後ろから私を優しく押すような形で歩いてくれた。

やっと外(だけどオフィス内)に出れた、という開放感から、フゥと息を吐き出した私を、野田さんは肩を抱いて支えながら歩いてくれている。

「なつき、大丈夫か。医務室行くか」
「だいじょ、ぶ・・朝弱い上に、ラッシュに酔っただけで・・・」

うぅ、何たる失態。
またこの人に嫌味を言わせる理由を、自分で作ってしまった・・・。

と思っていたけど、意外にも野田さんは、「ほら見ろ」をはじめ、嫌味も小言も言わなかった。

「あー、なるほどな。じゃ、まだ時間はあるから、会議室で休んどけ」
「すいません・・・」
「気にすんな。あ、ちょっと止まるぞ。荒川!」
「はい!」
「なっちゃんにコーヒー淹れて!」
「了解!」

会議室へ行く途中、野田さんが所属する海外事業部の部屋前を通ったときに、彼の部下で私と同い年の荒川くんと、こんなやり取りを素早く済ませた野田さんは、何事もなかったかのような声で「もう少し歩け」と私に言いながら、隣の会議室まで連れて行ってくれた。





会議室の椅子にへたり込むように座った私は、上体を机に突っ伏した。
そして、突っ伏したまま、とりあえず「・・・すみません・・・」と、お礼を呟く。

するとコツン、みたいな音が聞こえた。
と思ったら、ヘタっている私の指先に、何かが当たった。

「なに・・」
「それ食っとけ」

手探りでそれを手に取った私は、突っ伏した顔を少し上げて・・・エナジーバーを見た。

正直、まだ何か食べたいって気分じゃないんだけど、これから仕事を始めるなら、一口くらいは食べておいた方がいいと、経験上分かっている。

「・・・はぁぃ」と返事をしたとき、コーヒーを持った荒川くんが来た。

「お待たせですー。ディカフェのオレ、砂糖なしで良かったよね?」
「あ、うん。ごめんね、ありがとう」
「ディカフェ?オレ?なんだそれ」
「カフェイン抜きのカフェオレって意味ですよ」
「ふーん。最近のコーヒーってシャレてんだなー」

と言う野田さん、ちょっとオヤジモード入ってる!

この人の見た目は流行の最先端を行ってるだけに、そのギャップに笑いが出そうになったけど、ヘタに怒らせたくなかったので、エナジーバーを開けることに専念した。

「野田さん、ここで食べますか?」
「おう」
「じゃあ俺、お茶淹れてきます」
「悪いな。ありがと。あぁ後、自販機でチョコバー買ってきて」と野田さんは言うと、ポケットから小銭入れを出して、100円を荒川くんに渡した。

そして100円を受け取った荒川くんは、「了解です!」と言うと、小走りに会議室を出た。

さすが、野田さんを尊敬していると言ってた荒川くん。
自他ともに認めるパシリであることに喜びを感じているとも言ってたっけ。
荒川くんって尽くすタイプだよねぇ、と思いながら、野田さんからもらったエナジーバーを一口かじった。


「おまえさ、朝はいつもヘタってんのか」
「いえ別にヘタるというか・・・朝は弱いんです。睡眠不足でもないし、ちゃんと眠れてるんだけど、目が覚めてシャキッとするまでに時間がかかるタイプで」
「あー分かる。俺もそうだからなぁ」
「ホント!?」
「こんなことで嘘つかねえよ」
「あ・・そうですよね」

私はハハッと誤魔化し笑いをした後、もっと誤魔化すために、エナジーバーをもう一口かじった。

「俺も朝はそんなだから、起きても食欲なくてな。いつも会社に着いてから、これ食ってんだ」
「はぁ」
「それと緑茶の組み合わせ」
「渋いですね。野田さんってブラックコーヒーって感じだけど」
「コーヒーは出先で飲むことが多いからな」
「あ、なるほど。そうですね」

おぉ!私、今あの野田さんと、フツーに会話できてる!奇跡だ!!

「タバコ止めてもこんなだしなー。やっぱこれ、体質だよな」
「そうですよ。私、タバコ吸ったことなくて、長年これですよ。ところで、野田さんってタバコ吸ってたんですか」
「ああ。とは言っても、二日に一本くらいのペースだったけどな。元嫁と離婚で揉めた頃は、ストレス溜まったせいか、一日一箱吸うようになっちまって。ヤバいと思って止めた」
「・・・すぐ、止めれたんですか。それより野田さんって結婚してたんですか!?」
「ああ。悪いか」
「いえ・・・・・・別に」
「何だよ。俺が結婚してたことは、社内の奴はみんな知ってんじゃねえか?」

と野田さんが言ったとき、お茶とチョコバーを持った荒川くんが、タイミング良くやって来た。




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