この日、15時から他の仕事が入っていた私は、金崎さんと野田さん、そして荒川くんと一緒に社員食堂でランチを食べた。
もちろん、金崎さんの奢り。
近所のカフェやレストランで、1000円以上のランチを奢ってもらうのは気が引けるけど、社食はどれも安いので、500円のA定食を、気兼ねなくごちそうになった。
しかも、社食の品は、どれも安い上に量もある。
それでいて、A定食はとてもおいしかった。
あぁ、久しぶりにちゃんとした食事をとった気がする。
値段が安くても、今の私にはどれも贅沢な品だから、金崎さんには「ごちそうさまでした」と、心からお礼を言った。

「とてもおいしかったです!」と、食堂のおばちゃんたちにも、思わず声をかけてしまったほどだ。
・・・野田さんは笑ってたけど。

ここではお弁当も売ってるらしい。
お弁当だったら、それを社内や社外で食べるのも良し、ということで、女子社員や独身の男性社員に人気があるらしい。
社員じゃない私は、社員の誰かが一緒だったらここを利用できると金崎さんに言われたので、次のランチは、花田さんを含む、海外事業部の営業事務をしている女子社員4人と一緒に、オフィスでお弁当ランチをとる約束をした。

「この文書は、野田さんのファイルに保存してます。保存名はプロジェクト名そのままです」
「おう」
「それじゃ・・」
「待て」
「はい?」

まだ用があるのかと思ったら、「下まで送る」と野田さんが申し出た。

「俺も今から出かけるからな」
「あ、そうですか」

ついでってことだね。
別に断る理由もないので、私は野田さんと一緒に海外事業部のオフィスを出た。

私たちは特に話すこともなく、ただ並んで歩いていた。
そのままエレベーターを待ってた時、私のスマホが振動した。

フリーランスの仕事をしている私は、他のクライアントさんから連絡が来ることもあるので、了承を得た上で、仕事中はマナーモードにしている。
私は野田さんに「すみません」と言うと、スマホを取り出した。

画面を見ると、メールが来ていた。
何件かは純粋な仕事・・・これらは急ぎじゃないから、移動中に見ても大丈夫だ。
そして1件は、隣に住む幸太(こうた)くんからだった。
「鍋の具」というタイトルだったので開けてみる。

『多数決で今夜はキムチ鍋決定』という文面を見て、思わずプッとふき出した私を、隣の野田さんがチラ見する。
私はそれを無視して、『了解』と返信した。

キムチ鍋か・・・明日仕事入れてなくてよかった。
と思いつつ、やって来たエレベーターに乗ったとき、今度は着信音が鳴った。

画面(ディスプレイ)を見てハッとする。
なぜなら、そのコールは、彼・・別居中の夫だったから。

画面を見たまま呆然としている私のことを不審に思ったのか。
野田さんが私の腕をつかんで、「おい」と言った。

「あ、はい?」
「出ねえのか」
「あ・・・あっと、すみません」と私はボソボソ謝ると、緑のボタンを押した。

「はい・・・・・・仕事中だったから・・・うん。でもまたすぐ次の仕事があるの・・・・・・・・・そっか・・・・・・あぁ、そのことなら大丈夫だよ・・・ホント、大丈夫だから。臨時収入もあったし、家賃も払える・・・うん、食べてるよ。だからホント、送ってもらわなくてもやっていけてるから。ごめんね、心配かけて。じゃ」

最後は一方的に言ってスマホを切った。
つい深いため息が出てしまう。

あの人と話した後は、いつも脱力気味になってしまう。
嫌いじゃないんだけど、「好き」という気持ち以上のものは、別居している今も芽生えてこない・・・。

そのとき「なつき」という低音ボイスにハッと我に返った私は、声の主である隣の野田さんを仰ぎ見た。

・・・この人がいたこと、忘れてた。

「大丈夫か」
「え?あぁはい、もちろん大丈夫ですよ?」
「にしては語尾上げてんじゃねえか」
「そぉかなぁ」

あぁ。私って、とぼけるのが下手だ・・・。

「もういいだろ。痕が残るぞ。やめとけ」
「はい?なにを・・・あ」

スマホをバッグに入れた私は、自分を抱きしめるような形で、自分の両腕を掻いていた。
自分でも気づいてなかった無意識の行為に、愕然とする。
エレベーターが下の階に着いても、私は呆然と突っ立ったままだった。

「今の電話、親からか」
「あ、いえその・・」

私の呟きが聞こえているのかいないのか分からないけど、野田さんは今朝みたく、私の腕を優しく掴んで歩き出した。
そのまま歩きながら、野田さんは話を続ける。

「おまえ、アレルギーでもあんのか」
「いえいえ!ないですよ。味噌カツおいしかったし。キャベツやトマトだって」
「ふーん」と野田さんは言うと、ブラウスの胸ポケットにクリップで留めていた訪問証を、勝手に抜き取った。

ちょ、ちょっと!
私の胸に当たりそうで当たらなかった今の行為は、セクハラすれすれじゃないの!?
受付嬢たちの視線だって、ほら・・・。

でも野田さんは一向に気にしてない様子で、受付嬢に訪問証を返している。
とりあえず、手は離してくれてよかった・・・。

それにしてもこの人、なんだろなぁ。
私のことを女として見てないよね。
と言うより、人として見ているのか、それすら疑問だ。

そんな野田さんは、相変わらず無頓着な態度を貫いてるからなのか、受付嬢たちからの咎めるような視線は、すぐになくなった。
今見たのは幻だった、とでも思ってくれたのか、彼女たちは私を見送るとき、可愛く微笑んでくれた。
いや、あの微笑みは、野田氏だけに向けられたものかもしれない・・・けど、どうでもいいや。



「じゃ、俺こっちだから」
「はい」
「もう痒くないのか?」
「大丈夫ですよ」と私は言って、安心させるように微笑んだ。

「じゃあ明後日は、11時からですね」
「おう」
「じゃ、おつかれさまです」

そう言って、野田さんと反対方向へ2・3歩歩いたとき、野田さんに手を掴まれた。

「なつき」

また名前で呼ばれたことよりも、野田さんの手の感触にドキッとした。
でも私は、そんなそぶりを見せちゃいけない気がして、顔にスマイルを貼りつけると、なんでもないって感じで野田さんの方へふり向いた。

「はい?」
「自分を追い詰めるな。もっと自分を大事にしろ」
「あ・・・・・・は、ぃ」

まさかそんなことを言われるとは思ってなかった私の顔から、あっけなくスマイルがなくなった。

やだな。今の私、絶対無防備な素の顔してる。
この人には見られたくない・・・。

と思っていたら、「あんま親に心配かけんなよ」と野田さんは言って、手を離した。


「じゃーな」と言って歩き出した野田さんの後姿に、私は「おつかれさまです」と、またつぶやいた。











この日、私の真下の部屋に住んでいる、2号室のクリスティーナ宅で、鍋パーティーをした。
参加者は、おんぼろアパート(ここ)の全住人。
留守が多い写真家の1号室の住人・川口さんも、今回は参加だ。
3号室に住んでいる漫画家のヒロミちゃんは、ちょうど締切直後ということで、長居できるとはしゃいでいた。

ここの住人は、私を入れて6人しかいないということもあってか、みんな仲良くつき合っている。
私の懐具合がギリギリなのを知ってるみんなは、いつも一番安い品を私に持ち寄らせるか、何も持ってこなくていいよと言ってくれる。
その言葉に甘えるしかない私は、ありがたくみんなの好意を受け入れている。
5000円の臨時収入が振り込まれたら、ワイン持って行こう。
と思いつつ、私はクリスティーナの部屋へ入って行った。


「・・・声聞いただけだったのに、久しぶりに蕁麻疹が出ちゃった」
「えーっ!マジで?そこまで来てるんだったら、サッサとケリつけたほうがいいよ」
「だよね」

ここの住人みんなには、別居中の夫のことを話している。
別居して以来、彼は私に会いに何度か東京へ来たけど、アパートには来ていない。
私が案内しないからだ。

夫は毎日私のスマホにメールを送ってくる。
でも今日みたく、私が仕事中の時もあるからか、毎日コールはしない。

今回みたいに、スマホ越しに声を聞いただけで蕁麻疹が出たのは初めてだ。
あの時はちょっと無防備だったからなぁ。
隣に野田さんがいることも忘れてた・・・。

「で、ナツさん。蕁麻疹は大丈夫?」
「うん、大丈夫。両腕の痒みは、野田さんが止めてくれたおかげですぐ収まったし、蕁麻疹も数時間で跡形もなく消えた。次の仕事が腕を晒す撮影じゃなくてよかったよ。それに、もうすぐ9月になる残暑の季節だけど、薄手の長袖上着を着てたから、腕の肌を見せずに移動できたし」
「へえー。“野田さん”ねぇ」
「なに」
「ナツさん、野田さんって人のことしゃべるとき、ムキになってね?」
「やっぱり?幸太くんもそう思った?」
「エツさんも思ったっしょ?」
「ちょっと、なに二人で盛り上がってんのよ。あの人は私の敵なの!ていうか、何かと目の敵にされてるのは私の方・・・」

・・・だよね?
でもあの人は・・・やっぱり肝心なところでは優しい気がする。

「なつきちゃん、次の恋に踏み込むためにも、サッサとだんなと別れなきゃ!」と悦子さんが勢いよく言いながら、私の背中をバンと叩いたので、私はワイングラスを持ったまま、「ぶっ!」と吹き出しそうになった。

「ちょ・・っと悦子さんっ!私が恋に踏み込むとか、ましてあの野田さんが相手とか、ありえないから!」
「とにかく、相手が誰であれ、女はいつでも恋してなきゃ。潤い枯れちゃうよー」
「あー・・・もう手遅れかも」
「何言ってんの!26歳っつったらまだまだこれからでしょー?」
「エツさん酔い気味?」
「酔ってない!自分がいい恋愛してるせいか、みんなに幸せになってほしいって気がするのよ。そんな気持ちになったの、今の彼とつき合いだして初めてのことだなぁ」

と言った隣人・悦子さんの彼は、32歳の悦子さんより3つ年下だ。
私も何度か会ったことがあるけど、ヒョロッと背が高くて、一見頼りなさげな草食系なんだけど、とても優しくて、頼りになる強さがある人だ。
彼と一緒にいる悦子さんは、とても幸せいっぱいな顔してて、あぁ悦子さん、彼に守られてるなぁ、愛されてるなぁってしみじみ思ったんだよね。

それから私たちは恋談義を続行しつつ、悦子さんと仕事の打ち合わせも済ませた。



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