完璧青年の喪失
先輩の、

.

長い一日だった、なんてぶつぶつ呟きながら鍵を回して家のドアを開ける。夕ご飯の準備でもしようかと、床に鞄を落とした時。お気に入りのブランドの袋が無い事に気づく。「体操着忘れた!」と誰もいないリビングに向かって叫んだ時には、もう既にさっき脱いだばかりのローファーを履いて玄関のドアを荒っぽく開け、外へ駆け出していた。
きゅっ、きゅっ、きゅっ、とシューズか擦れる音が近づいて来たので、バレー部が練習してると分かる。男、子バレー部…。外に置かれているランニングシューズが明らかに男物で、ここまで走って来たのはいいけど、どうやって入ろうかとか、普通に考えたらしょうもない事を悩んだりする。だって、突然女の子が忘れ物取りにバレー部が練習してる中突入したりしたら、私は恥ずかしくて昏倒してしまいそうだし、向こうだって困るだろう。どうしようか。明日取る?でも明日は体育何てないしむしろ休みだし。部活なんてものと縁のない私は土日に学校にくることは無い。それに一度着た体操着を丸二日放置するなんて女子としてどうなんだろう。女子力なんぞ元から無いわよ。なんて言い訳出来たらいいけれど。


「蘭ちゃん?」


隠れていた柱にしがみつく。けれど私の体よりずっと細い柱だから、向こうに人が隠れてるなんて、一目瞭然なのだが。「こんに、ちは」顔を出して挨拶してみる。後で焦って、「た、体操着忘れたんですっ」と付け加えたら先輩はくすりと笑うから、もう穴があったら入りたい。


「とってくるから」


そう言って踵を返した先輩は、黒尾先輩。バレー部のキャプテンというそれ以外の情報なんて何も持ってなかった。でも向こうは私の名前、呼んでた。一応同じバレー部の菅原孝支とは幼馴染でよく喋るけど、屹度考支経由かな。なんてどうでもいい事考えてたら。


「蘭ちゃん」


名前を呼ばれてまた柱から顔を出せば、黒尾先輩が入り口の方に立っていて、先輩の手にぶら下がっているもの、私の体操着だ。「ありがとうございます」と受け取ってお辞儀をすると先輩は「そんなお辞儀しなくたって」と笑う。


「送ろうか」
「へ?」


そんな事を先輩が言うなんて、思いもしなかったし、それに、これが始めての会話なのだ。見るからに気づかなかった私が悪いのかも、と、大きく烏野高校排球部と書かれた革のスポーツバッグと先輩の顔を交互に見る。


「そ、空まだ明るいですし…」
「え?」


突然の失言に恥ずかしさとあとはよく分からない感情で頭がくらくらする。だって、外の照明が無いこの体育館の周りは、辛うじて先輩が見える程度の明るさだった。「い、いえあのっ、そんな気をつかってくれなくても…」誤解されたく無くて掠れる声で言ったら、先輩は「俺がそうしたいだけだから」涼しい顔で言った。私の気持ちなんか知らないくせに。今まで男の人と並んで歩いた事なんか右手の指で数えられる程しかなくって、私のずっと上にある顔を見たり、目が合いそうになったら、逸らしたり。
あ、今睫毛が二回空を切った。それに先輩は殆ど知らない人だし、なんだか、怖いし。


「蘭、ちゃんだっけ?」
「あ、はい」
「菅原から聞いたよ」
「え、あ、はい」


途切れ途切れにしか言葉が出てこなくって本当はいろいろ聞いて見たかったりするんだけど。悩み悩んで喉の奥に落ちていくから、厄介なの。言いたい事だけ膨らんで、いつか爆発したりしないかな。炭酸みたいに、ぱちん、って。
「菅原が言ってた通り、だね」、無言だったこの空間を埋めたのは先輩だった。ひとりごと?考支がまた意味が分からない事でも吹き込んだ?それとも私、変な事でもしたかなあ。


「え?」
「菅原の、言ってた通り、綺麗だなって」
「へ …?」


男の人に慣れてる女の人ってここで、ありがとうとか、とびっきりの笑顔で言えるのかな。そんなの出来ない。私は戸惑いから抜け出すのが精一杯だ。「そ、そんなわけ…」心臓が抉り取られそうで、先輩に私の鼓動が聞こえそうで嫌だ。左胸の音が身体中のありとあらゆる血管を広げて、血がめまぐるしく流れていく。


「ご、ごめん忘れて?本当、ごめん」
「謝らなくても …」


二人俯いて歩いてるから多分映る景色は一緒だったりするかな。十二月の寒さがこびりつく冷たいアスファルトに映る二人の影。赤くなって俯く先輩も、私と同じみたいでちょっぴり嬉しかったり。


「蘭ちゃん、」
「っは、はい!」
「また、一緒に、帰ってくれる?」
「も、もちろんです!」


家が近づいてきて、いい加減、もうこの辺でいいとはっきり言わなきゃいけないのに、体は一向に冷えなくって。結局先輩からさよならを言ってきた。頑張って上げた目に映った先輩は何事もなかったように正常で。最後の最後は私をおいて涼しい顔してひらひら手を降るなんて、そんなの、ずるいよ。


先輩の、馬鹿。
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